チョコレートの弾丸は撃ちぬけない

チョコレートの弾丸は撃ちぬけない


 好きって絶望だよね。

 そんなフレーズをヴィヴィア=トワイライトは何かの本で読んだことがある。

 読んだ当時は、誰かに対して心を砕くことも心を寄せることも知らなかった空っぽの人間だったから、夢物語よりも遠い感情を語る文章として通り過ぎてしまったけれど。今ならばその意味がわかる。

 カナイ区の住人が「一週間の記憶を失くしてしまったこと」を必死に忘れようとして、もう一年が経とうとしていた。

 マコト=カグツチの指示はまるで未来が見えているかのように的確で、空白の一週間の間に壊されてしまった街の風景はすぐに元通りに戻ってしまった。それと入れ替わるように、ヤコウ=フーリオの様子が豹変した。

 街の風景は変わらないのに、空と人々の様子はすっかり変わってしまった。

「……はぁ、いつか死にたい……」

 レインコートを着ることなく街を徘徊していたためヴィヴィアは全身ずぶ濡れだった。しかし身体から滴る雨水を拭うことなく、アマテラス本社に足を踏み入れる。当然周囲の人間は眉を顰めるが、遠巻きに見守るだけだ。ちらりと視線の方向に目を向ければ、そっと目を伏せられるか、露骨に顔を背けられる。

 一年前だったら、ヤコウかデスヒコが「だからレインコート着なさいって言ったじゃないのよ! 床がずぶ濡れじゃない!」「オネエになってねーで拭くもの持ってこねーと!」と言いながらタオルで揉みくちゃにしてくれたのだろうか。自分の虚しい想像に、けれどふっと笑った。

 周囲の人々は当然困惑した様子でヴィヴィアが早く立ち去ることを願い続けるしかない。……真面目なハララなら一人一人の様子をつぶさに観察してヤコウに報告するのだろうけれど。ヴィヴィアも、ヤコウの役に立つなら吝かではないのだけれど。今日はそんな気分ではなかった。ただ、いつか死にたいな、と漫然と思っていた。

 さて、アマテラス社に戻ってきたは良いけれど、これからどうしよう。

 通路の真ん中で立ち止まって、ぼんやりと考え込む。すると、「ヴィヴィアさーん!」と明るく名前を呼ぶ可憐な声が響いた。

「……フブキくん?」

「はぁ、はぁ……良かった! 戻ってきていたんですね!」

 フブキは花のような笑顔を浮かべてヴィヴィアの手を取った。

「ヴィヴィアさん、手が冷え切っていますよ! 一旦体を拭いて、早く来てください!」

「万能の書物でも、ページを捲らないと中身を確認することは難しい……」

「本を読みたいんですか? けれど、すみません! 今はそれよりも急いで来てください!」

 マイペースなフブキがここまで急かすのも珍しい。

 ヴィヴィアは、フブキに急かされながら気を利かせた周囲の人間から受け取ったタオルで軽く体を拭う。

「じゃあ、行こうか」

「はい! きっとヴィヴィアさんもびっくりしますよ!」

 フブキに手を引かれて、ヴィヴィアは通い慣れた通路を歩く。

 きっと行き先は旧保安部室だ。

 ヴィヴィア達にとって宝石のような日々を過ごした場所。

 流れる時の中に消え去らないように、保安部の幹部四人で必死に保ち続けた場所。

「さぁ、入ってください!」

 ぐいぐいと背中を押されドアを開ける。

 遠い暖かな風景がヴィヴィアを迎えた。

 デスヒコとハララが待っていたのだ。

「よーヴィヴィア……あれ? なんか顔色悪くね……?」

「またレインコートを着ずに出たのか」

 ひらりと手を上げ、途中で心配そうな顔になるデスヒコと、呆れ顔で首を振るハララ。

 二人の手には丁寧にラッピングされた品の良い白い箱がある。デスヒコの箱には黄色いリボン、ハララの物には紫色のリボンが巻かれている。

「ヴィヴィアさんのものもありますよ、ほら!」

 フブキが暖炉の方を指さすと、確かに緑色のリボンで飾られた白い箱が置かれている。

 徐に近づいて持ち上げる。ふわりと、甘い香りが鼻を抜けていく。

「……チョコレートかな……?」

 ヴィヴィアはフブキの方を向く。彼女が買ってきてくれたのだろうと考えたのだ。しかし、フブキは首を振る。

 じゃあ、ハララかデスヒコが? 正直考えにくかったが、彼らの方を向く。やはり、二人とも首を振った。

「初めは、マコト=カグツチが僕たちを懐柔でもするためにここまで踏み込んで来たのかと思ったが、違うらしい」

 ハララが豪奢な椅子に背をもたれながらフブキの方を見つめる。フブキはこくりと頷くと、ぎゅっと手を胸の前で握り、満面の笑みを浮かべた。

「ヤコウ部長がこの部屋から出てくるところを偶然見たんです。部長は私に気付きませんでしたが……」

「……本当?」

「ふふっ、ヴィヴィアさんもチョコを召し上がってみればわかりますよ!」

 フブキの言葉に頷き、ヴィヴィアは暖炉の中に座り込むと、ゆっくりとリボンを解く。緊張のあまり指先が震える。

 箱を開くと、甘さと微かに苦味を感じる香りが広がった。八つの美しいチョコレートが箱の中に入っていた。そのうちの一つをつまむ。濡れていた体は冷え切っていたはずだったのに、指先の熱でチョコレートが微かに溶けてしまうぐらい体に熱が戻ってきていた。

 まるで初めて口にするかのように、恐る恐るチョコレートを口の中に入れる。

 苦味を感じるが、そのすぐ後に柔らかく優しい甘さが口いっぱいに広がった。

 咀嚼も勿体無いけれど口内の熱でチョコレートはすっかり溶けてしまい、惜しみながらゆっくりと嚥下した。

「どうだ? すげー美味かったろ?」

 デスヒコの言葉に暖炉の中から頷く。

「オイラが食べたやつも美味かったな。なんていうか、オイラ好みの味でさ」

「わたくしが頂いたものもとても美味しかったです!」

「……マコト=カグツチが僕たちの好みを明確に把握しているはずがない」

「やっぱりわたくしが見た通り、部長が差し入れてくださったものなのですよ!」

 フブキが青いリボンで飾られた箱を胸に抱いて、うっすら涙を浮かべながら三人に笑いかけた。

「不思議です。わたくしの能力を使ったわけではないのに、昔に戻ったみたい」

 フブキのその言葉に、ハララとデスヒコは優しげな瞳で彼女を見つめる。

 ヴィヴィアは丁寧に箱を閉じて、リボンをかけ直した。

 きっと明日、ヤコウにこのチョコレートのお礼を言っても「なんのこと?」と惚けられるか、あるいは、虫の何所が悪ければ殺気を込められた瞳で静かに睨まれてしまうだろう。それなのに、こんなに甘くて優しい贈り物を気まぐれのように与えてくれる。まるで昔のように。あの空白が訪れる前、優しい瞳で頭を撫でてそばにいてくれたヤコウのように。

 好きとはなんという絶望なんだろう。

「…………いつか死にたい……」

 箱を撫でながら、歌うようにヴィヴィアは囁いた。ハララもデスヒコもフブキもヴィヴィアの言葉に否定も肯定も入れずに、ただ昔を懐かしんで瞳を閉じていた。

 ヤコウは雨に包まれたカナイ区を歩きながら、ふと気がついた。

 ……もうすぐ、カナイ区の住人がホムンクルス共に喰い殺されて一年になる。

 最高責任者となったマコト=カグツチの手腕は見事に発揮され、もうすっかり街は元の様子を取り戻していた。

 ——あの一週間を無かったことにするかのように。

 振り返って、カナイタワーを見上げる。レインコートを羽織っているだけなので、頰に雨風が鬱陶しくぶつかる。

 カナイタワーは雨の中でも煌々と輝いている。

 もしもヤコウが喰われていたらどうなっていただろうと時折夢想する。

 きっとホムンクルス共は、本当に何も無かったかのようにのうのうとカナイ区の住民の人生を乗っ取り、本人として生きていくのだろう。マコト=カグツチに、大切に大切に、庇護されて。カナイ区の住人を喰い殺していたことをすっかり無かったことにして。

 思わず唇を噛み締める。

 ふざけるな。

 ふざけるな。ふざけるな。

 認められるはずないだろう。そんなこと。

 許せるはずないだろう。決して。

「……はぁ〜……」

 大きなため息をついて、首を振る。

 ヤコウを遠巻きに見つめていたホムンクルス共がオドオドとその様子を見守る。

 ぐるぐると同じ場所を歩き続けるように思考を重ねるだけではダメだ。

 行動を起こさないと。今よりももっと、もっと……。

 歩き出す。当ては特にない。それでも足を動かさなければ、雨の中に溺れそうだった。

「……あ」

 ギンマ地区のとある店が目に入って、ヤコウは足を止める。

 空白に消えた一週間の中で、フブキが嬉しそうに話していたチョコレートショップだった。

 ——「甘いものを食べればきっと元気も出ますよ! そうです、皆さんでチョコレートを食べに行きませんか? ちょうど今週末新しいお店ができるんです! 一緒に行きましょう!」

(そんな約束も、したな……)

 結局守ることができなかった約束。今やその約束を覚えている人間は己一人だ。

 ……そうだ。もうみんなが殺されて、一年になる。

 彼らのために何かをしたい。ホムンクルス共の血と肉だけじゃない、なにか彼らが喜ぶようなものを贈りたい。

 ヤコウの足は自然とチョコレートショップへと向いた。空白の一週間が訪れる前のヤコウには手が届かない高級志向の店だが、皮肉にも今のヤコウならば簡単に手が届くような店だ。

 ドアを開けると、店員達はまさかの来客に目を見開いたりぽかんと口を開いたりして、滑稽な間抜けヅラを晒していた。他の客も顔を青くしている。

 ヤコウが一人で歩いていたとしても誰も襲撃を企てないのは、どこで保安部幹部が見ているかわからないからだ。ハララが待機しているかもしれないし、彼/彼女の姿が無いとしても、ヴィヴィアの幽体離脱がある。あるいはデスヒコが街の住人に変装しているかもしれないし、そもそも襲撃に成功したとしても、フブキの能力があれば悉く無かったことになる。

 ヤコウもホムンクルス共の警戒をもちろん知っている。信頼できる部下達の能力を奪ったホムンクルス達をこれみよがしにボディーガード役として引き連れることもあれば、彼らがそばにいない時でも居るかのように振る舞うことがある。そうすれば勝手に警戒してくれる。

「こんにちはー。プレゼント買いに来たんですけど?」

 わざと明るく店員に声を掛けると、面白いほどに震えた声で店員が案内する。だんだん鬱陶しくなってきたので、一人で選ぶことにする。

「うわ、こんなにいっぱいあるんだな……」

 マジマジと商品棚を見つめる。

 チョコレートにあまり興味がないヤコウには全て同じように見えるが、微妙に味わいが違うらしい。

(……そういえば、みんながどんなチョコを好きなのかなんて……オレ、知らないな)

 フブキがしょっちゅうチョコを買って「これが庶民の味なのですね」と瞳を輝かせていたことを知っている。

 ヤコウが煙草を吸おうとするとハララが薄荷味の飴を些か乱暴にくれたことを知っている。

 デスヒコが朝からコーラを飲めるぐらい好んでいたことを知っている。

 ヴィヴィアはあまり食に関心がないようだったがみんなとの食事を楽しんでいたことを知っている。

 けど、チョコの好みを聞いたことなんてない。

 結構長い間一緒に働いた、と思っている。

 その長い時間の中で聞かなかったのは、そんなのいつでも聞けるとみんながみんな信じて疑わなかったからだ。

(聞けば、きっとすぐに返事をしてくれそうなもんなのに……。オレは……もう二度とその答えを聞くことができないんだな)

 自嘲の笑みが溢れる。

 甘い香りが充満する店の中で、ヤコウは虚な目でチョコレートを眺めて、吟味を始めた。それぞれ八種類選んで、箱に入れてもらう。

 ハララには甘いものと苦いもの。バラの香りがするというピンク色のチョコレートが可愛らしかったので、それにした。

 ヴィヴィアには苦味が強く、けれど優しい甘味なのだというチョコレートを。紅茶に合うそうなので読書の時にちょうど良い、と思う。

 デスヒコにはナッツ入りの、甘さ控えめのもの。コーラと一緒に食べられるように。食感も楽しいはずだ。

 フブキには甘いものを中心に、色んな食感のものをなるべく被らないように選んだ。元々チョコレートが好きな彼女も食べたことがないものであれば良いけれど。

 ラッピングもしてもらう。店員がガチガチに緊張しながらリボンを結んでいるのを見た時は本当に大丈夫かと心配だったが杞憂だった。

「あ、あ、ありがとうございました!」

 店員総出で見送られるが、そんなことをされたところで不愉快なだけだ。足早に店を出て、チョコレートが濡れないように大切に抱え込む。

 アマテラス本社までたどり着く。がらんとしていて、ホムンクルス共の気配はない。——といっても、ヤコウが戻る際は得てしてそうだったが。

 ヤコウは旧保安部室に向かう。

 部下との思い出はこの部屋にしか無かった。

 扉を開けると、あの日と変わらないままの風景が広がっている。

 部長席に座ってしばらく待ってさえいればいつか彼らが帰ってきてくれるかもしれない、なんて幻想を抱いてしまいそうなほど、旧保安部室はあの時と変わらないまま佇んでいる。

 この部屋をあの時のまま保ち続けている点に関しては、あの化け物達に感謝してもいいかもしれないと一瞬よぎるが、そもそも奴らがいなければそんなことをする必要さえ無かったのだ。

 ハララの椅子に、ヴィヴィアが気に入っていた暖炉に、デスヒコの椅子に、フブキのソファーに。チョコレートの箱を置いて、ヤコウは静かに部屋から出ていく。

 大切な過去の記憶を保ち続けるこの部屋にいたら、きっともう二度と動けなくなる。そう考えてしまったから。

(……こんなことをしたって、どうせあのチョコは化け物共が持っていくんだろう)

 本当に渡したかった彼らに届くことなく、奴らが全て奪っていく。

 この街では、大切な人を慈しむことも許されない。死を悼むことさえ。

(大切な人たちに好きという気持ちを伝えることさえ絶望の種にしかならないなんて)

 なんて終わっている街なんだろう。

 ヤコウは最早笑顔を作ることさえできずに、かといって涙を流すことさえ許されず、無表情で保安部室に向かっていった。


◆終◆

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