スライスチーズも買ってある

スライスチーズも買ってある



 ふわふわの金の髪をつい目で追ってしまうのに気づいたのは、皮肉にも彼女がいなくなった時だった。その時の僕の力不足さは今は語るべきではない、あまり思い出したくないのもあるが。

 それでもなんとか無事に帰ってこれて、その後色々あって黒崎の無くした死神の力が戻ったりの騒動や滅却師の蛮行などあったけれど幸い二人とも五体満足でいられている。


 そしてそんな紆余曲折を経た結果、目で追っていたふわふわの金の髪が僕の腕の中に収まっているのだからなんとも不思議な話だ。指で掬ってみても起きる気配もない。

 僕としては元々腕の中に収めるつもりはなかったが、最初に泊まった日ベッドを明け渡そうとする僕に彼女が上目遣いで「雨竜は一緒に寝んの?」と言ってきたため抵抗を諦めた。


 言っておくが純然たる添い寝であって今日までやましいことはなにもしていない。例え僕のことを信頼しきっている彼女がぴったりくっついて寝ようとも、足を絡ませてこようとも断じて手は出していない。

 それは誠意という面もあるが、驚いた彼女が真っ赤になって部屋の隅で蹲り動かなくなる可能性も考慮してのことである。前に一度だけ唇を舐めたらその場で崩れ落ちたので、これは冗談ではなく事実だ。


 しかし僕はそういったことは一切していないが、腕の中に温もりがあるということを経験すると彼女の父親の所業がまるで理解できなくなる。

 これをどうして手放せると言うのだろうか、僕はすでに彼女が来ていない日のベッドが妙に広く感じることすらあるというのに。


 以前寝起きで僕の顔を見て嬉しそうにする彼女が「起きたときにおらん男はあかんってオカンが言うてたの」と言っていたので、そういう事をした後に部屋を追い出されていたわけでもないだろうに。

 好きな女性に触れておいて手放して、それなのに娘である彼女にも彼女の母親にも執着心を見せていたあの男はなにがしたかったんだろうか。そもそも僕ならば他の男と入れ替わる時点で耐えられないが。


「んぅ、うりゅう?」

「ん?ああ、まだ寝てて大丈夫だよ」

「なんか考えごと?ねれんの?」

「少し早く目が冷めただけだから」


 不明瞭な言葉を話しながらすりすりと胸元に頬ずりする姿とふわりと香る甘い香りに何度目かわからない理性への試練を感じつつ、薄く光るデジタル時計で時間を確認する。

 まだ起きる時間までは一時間ほどある。別に起きても構わないが、寝れるなら寝てもいいくらいの時間だろう。別に昨日は夜更かしをしたわけでもない。


 ああでも僕は完全に目が覚めてしまったから、早めに朝食の準備をするのもいいかもしれない。

 今日はパンを食べるのだと彼女いわくの「いい食パン」を持ってきていたので、それに合うような……冷蔵庫に卵があったはずなのでオムレツでも焼くのもいいだろう。


 朝食の準備をしたらパンを切る前に温かい甘めのカフェオレを入れて彼女を起こそう。少し冷えるからその前に少し部屋を暖めておいてもいいかもしれない。

 そんなことを考えながらベッドから出ようとしたら、服の裾をくんと引かれて上半身を起こしたところでとどまる。ぼんやりとこちらを見上げる目と視線が合った。


「どこいくの?」

「台所に行くだけだから」

「いやや、うりゅうおきるなら、あたしもおきる」


 甘えるような声はかわいいが、人の腰に手を回して腹に顔を埋めないでほしい。これは本当に切実な問題なので、できる限り乱暴にならないように速やかにそっと引き剥がした。

 されるがままにころんとベッドに転がる姿を見て、なんだか無性に不安になってくる。ちゃんと僕を男として見てくれているんだろうか、あまりにも安心しすぎではないだろうか。男は狼という単語を百年の間耳にしなかったということもあるまい。


 そう思いつつも引き止められると離れがたくなるのだから、僕も随分と単純だ。撫でてやると幸せそうに笑うのだから仕方がない。

 再三思うが、彼女の父親は好いた相手と枕をともにしていながらよくあんなことができたな。僕は彼女に嫌悪されるかもしれないと考えた時には、身を斬られるような気分になったものなんだが。


 発想としては最悪だが、彼女と同じように彼女のお母さんが情深い人ならば全力で誠意を持って愛を伝えたら駄目だと分かっていても絆されていたのではないだろうか。

 というか、そもそもそんなつもりもないのに子供の出来るような事だけはしていたというのはなんとも歪に感じる。口説き落とせなかったのか?いや、彼女の話ではお母さんの方からは砂粒ほどの好意すらないと思われていそうだった。


 もしかして、言わなくとも伝わると思っていたのだろうか。そう考えても周囲の人には言わなければ伝わらないと知っていて黙っている奴が多すぎて判断に困る。

 考えても仕方のないことだが、最近の僕はよくこの幸福をみすみす手放した男のことを考えてしまうのだ。


 そうは言っても、もしも彼女の両親が表面上円満で彼女が産まれていたとしたら、僕とこうして過ごすどころか出会うことすらできなかったかもしれない。

 万に一つも会うことはないだろうが、娘はやらんと言われても「出会えたのはあなたのお陰だ」と嫌味の一つでも言えそうだ。


「おきんの?」

「もう少し、ゆっくりしようかな」


 癖のある金の髪をよけて額に口付けると、とても幸せそうに笑ったから僕は不毛なことに思考を割くのをやめにして寝転がる。

 しばらくしてしっかり目が覚めたらしい彼女が真っ赤になって布団に潜ってしまったので、僕は結局少し早めの朝食を作るために丸くなった布団を撫でて消え入りそうな「おはよう」を聞きながら台所に向かった。

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