スマイル
誘拐同然にアジトから連れ出したその子どもは、当然ながら随分暴れた。
大声で助けを、兄のことを呼ぶ姿は年相応のものだ。世界政府によって故郷も家族も全て失ったその暗い目は、皮肉にも裏の世界で過ごした2年間で随分と光を取り戻したらしい。
少なくとも、手榴弾を体に巻き付けて海賊団のアジトを訪ねるなんて、自殺まがいのことをしなくなる程度には。
定時連絡用に持ち出した電伝虫のダイヤルを右手で回し、左手で喚きたてる子どもの口を押さえる。
「随分思い切ったな、コラソン」
一度目のコールが鳴り終わらないうちに、兄の声が返った。
どうやら連れ戻されはしないらしい。それは同時に、珀鉛病の治療法が未だ確立していないか、今のファミリーには手が届かないものであるということを意味するのだろうが。
「分かっちゃいるだろうが、周るなら加盟国から周れ。まずは…」
北の海を中心に上がる島や国、街、医者の名前や専門を頭に入れていく。置手紙を見つけてからそう時間も経っていないだろうに、ここまで詳細な情報と航路が上がってくるとは本当に恐れ入る。
「それとロー、定時連絡は今後お前が担当しろ。…コラソンとは"上手く"やれよ」
そう締めくくられた通話の後、かなり渋々ではあるものの暴れるのは止めることにしたらしい子どもの拘束を解いた。海図を広げ、甘い匂いに痺れる頭をタバコで誤魔化しながら航海に必要な情報を抜粋して書き込んでいく。
それにしても、兄がここまで協力的な態度を取ってくれるなんて。
予想よりも先行きは明るいかもしれない。
「……さっきので全部頭に入るのかよ…」
先ほどまでの元気をごっそり取り落とした子どもの声が、航路をなぞるおれの背を転げ落ちた。
アジトを離れてひと月ほど。
白い子どもとの旅路は案の定、絶えず多幸感と嫌悪感の間を揺れ動きながらなんとか航路を追うようなものになっていた。
あからさまな警戒を見せながらも淡々と病院を連れまわすおれを子どもが心底不気味に思っていることは分かっていたが、こうなった以上どう転ぼうとも途中で諦めるという選択肢は取れない。初めのうちは病院がいかに頼りにならないかを兄に力説していた子どもも、3軒目を周る頃にはその兄に自分たちを連れ戻す気が全くないことに気付いて抵抗を諦めていた。
そこまではおおよそ想定の範囲内。問題は、そこからだった。
たったひと月の間で、おれは相当の数の襲撃者を相手取っていた。目印になりそうなメイクや服を変えても、人目につかないねぐらを選んでも、あちらもあちらで夜中を選んでひっそりとこちらを狙ってくる。
それに、巡った病院の対応もおかしなものだった。どこも一様に珀鉛病を感染症と恐れ、躍起になっておれたちを追い出したがったが、その反応がどうにも揃いも揃って取ってつけたようなものなのだ。はたして現状ただの無法者である兄でも知れたような情報、つまり"珀鉛病は中毒である"というようなことを、仮にも加盟国の認可を受けた大病院の医者が知らないものだろうか。
不自然な病院の対応と、加盟国を巡る航路の先々で待ち構えていたかのように現れる襲撃者。おれは嫌な想像を拭えずにいた。
その答えは、ほどなくしてあちらからおれの前に現れた。
子どもが眠っている夜のうちに手ごろな賞金首を換金したおれは、急ぎ足でその日のねぐらにしていた町外れのボロ小屋へと戻った。もう少し正確に言えば、小屋へと向かう微かな血の臭いを追って山道を全力ダッシュしていた。おれのいない間に誰かお客さんがやって来たようだ。
しかし先に小屋に着いていた男は、どうしてか子どもに向けて刃を振り上げていた。
おれへの人質にするでもなく、ただ息の根を止めるために。
嫌な予感が確信に変わる。
追われていたのは、襲われていたのはおれじゃない。この子どもだ。
刺客たちはファミリーで得た情報や目撃情報を頼りにおれを追っていたのではなく、この子どもの、珀鉛病患者の動きを病院からの通報で知っていたのだ。
眠る子どもをサイレントで覆い、黒いファーコートを被せて襲撃者を迎え撃つ。今夜の相手はたった一人で、しかし今までの寄せ集めのゴロツキたちと比べてやたらと強い。六式使いのCP。やはり間違いない、子どもに用があるのは世界政府だ。
甘く霞がかった意識を痛みで研ぎ澄ませ、月も無い闇夜に潜みながら相手の消耗を狙う。こちとら夜目は利くほうなのだ。無音の狙撃で仕掛けておいた罠へと追い込み、ほとんど無理やりに頸を掻き切った。
ああでもこりゃ、ドジったな。
こいつ指銃使えたのかよ。せり上がる血を吐き出して、こと切れた男の頸からナイフを引き抜く。昼間の移動と夜間の戦闘で消耗し続けている体力を鑑みて、無理に短期決着を狙ったのがまずかった。
死人の血は、おれを癒すことはない。
腹に開いた穴を押さえて、子どもの目につかないよう遺体の処理を終わらせた。
血まみれなのは、明日適当に誤魔化そう。
子どもをむやみに怖がらせて逃げられることは避けたかったが、流石におれももう限界だ。甘い海の匂いに導かれるようにして、ねぐらに選んだ廃屋へと転がり込んだ。
「おい…おいコラソン!!寝るな!!!意識を保て!!!」
眠りを誘う海の気配の中に、子どもの声が漂っている。
サイレントが解けてしまったのか、倒れ込んだ音で目を覚ましたようだ。
「とにかくまずは止血をしないと…クソッ!!なんでF型の血液製剤しかないんだよ!!!」
ドフラミンゴの馬鹿野郎、続いた言葉にいたたまれなさを感じながら、ぼんやりとまばたきを繰り返す。その救急セット、用意したのも持ってきたのもおれなんだよな。
「管腔臓器の損傷はないか…?待ってろ、今止血剤を…痛ッ!?」
カラリと音を立てて、腐食の進んだ床に注射器が転げ落ちた。子どもは出血部を押さえた小さな手を呆然と見つめていた。
「なっ、なんだこれ…!?血が、焼けて…?」
言い終えるより先におれの血で汚れた手を水筒の水で流し、血のこびりついていない左手で子どもを押しやる。
ちょっとやそっと血を失ったって、おれが死に至ることはない。
同僚がバタバタ死んでいくような戦場で、おんなじくらい血を流しても内臓が傷ついても、いつでもしぶとく生き残ってしまうくらいには頑丈なのだから。
「なにするんだ!!この出血量は十分危険なレベルだぞ!!!」
失血と眠気で力の入らない腕を押しのけた子どもは叫び、そして。
そして、焼ける手に構わず丁寧に、今度は確実に止血剤を打ち込んだのだ。
「…あいつがおれに教えたのは…医者としての知識ばっかりだったよ、コラソン」
目を見開いたおれの顔色を、ランタンの灯りを頼りに確認した子どもが口を開く。
「死ぬまでに全部ブッ壊したいって言ったのに、勉強漬けなんて馬鹿にしやがってって思った。おれが欲しいのは誰かを治すとか最低限自分の身を守るための術なんかじゃなくて、たくさん殺す方法なのに」
痛みで顔を歪めながらも、処置を進めるその手が止まることはない。
なぜ、どうしておれを助けようとする。
「悔しかった。けど、嬉しかったんだ。あいつは、ドフラミンゴはおれが死ぬなんて思ってないみたいだった。珀鉛病には必ず治療法があるって、そう信じてくれたのはあいつがはじめてだったんだよ」
兄はこの白い子どもにとって、たしかに唯一残された希望だろう。
けれどおれは、アジトをうろつき時折暴力を振るってくるだけの、どうしようもない男のはずだ。今だって、心も事情も全部無視して病院を連れまわすだけの嫌な奴であることに変わりはない。
なのにどうして。
「でも、お前を刺した2年前のあの日、ヤケになったおれの命を拾ってくれたのは、お前だった!!」
もう一度押しやろうと動かした腕を、子どもの小さな両手が掴む。
「お前はイカれた暴力野郎で、そのくせ賞金首を適当に狩れるくらいには強いムカつくやつで、何考えてるか全然分からないけど…拾われた命で生きた2年でおれも、こうなりゃ意地でも生きてやろうって思えるようになったから」
じゅう、と薄い掌が音を立てても、子どもの瞳に迷いが宿ることはない。
「だからこんなとこで、勝手にくたばるなんて許さねえ!!!!」
焼けつく痛みで噴き出した汗を拭った子どもは、そう言い切って笑った。
溶けていく意識の中で目にしたそれが、子どもがおれに向けた初めての笑顔だった。
目覚めた時には、出血も内臓の損傷もほとんど治りきっていた。
治療で体力を使い果たして眠る子どもの火傷だらけの手に薬を塗って、慎重に包帯を巻いていく。
その両手にぽたぽたと雫が落ちるのを見て、ようやく自分が泣いていることに気がついた。
人間は正しくなけりゃあ、生きる価値なし。
"絶対的正義"の名のもとに。ひどく残酷なそれが、おれの生きてきたにんげんの世界で、そうでなければ息をすることも許されなかった。
けれど、この子どもにはそんなこと、何の関係もなかったのだ。
養父の手を取ったあの日に枯れ果てたと思っていた涙が、拭っても拭っても溢れて止まらない。同情のしようなんてどこにもないおれに、死ぬことを許さないと言ったのは、かつての兄の他にはこの子どもただ一人だったから。
正義などなくとも、なにもなくても、命を許され、望まれる。
それが、どれほど途方もないことなのか、おれは誰より知っている。
なあ、もういいだろ。
小さな手からひんやりとした体温が伝わってくる。おれとは違うにんげんの体温が。
もういいんだ。
どんな嘘や秘密がこの子どもに隠されていたって、もう構わない。
「…ありがとうな」
長いことほったらかしにしていた声帯を震わせて、掠れた声を絞り出した。
嘘の中で溺れそうになっていたおれに、おそろしい血のこのおれにお前が与えてくれたそれは、きっと、"自由"という名をしている。
「……お前、喋れたのか」
おずおずと身を起こした子どもは、開口一番気まずそうにそう言った。
どうやら聞かれていたらしい。
「おい!動き回るなよ!!傷が開くぞ!?」
「……もう大丈夫だ」
「そんなわけあるか!!」
信じられないことに大丈夫なのだ。
包帯を取って傷痕を見せてやると、子どもはありえねえだろとツッコミを入れながらも安心したように息を吐いた。
やはりこの子は"おれたち"とも、きっと兄とも違う。ただの―優しい子だ。
もう腹は決まった。あとは、やれる限りをやるだけだ。
「ドラム王国を目指す」
センゴクさんはおれを拾ってすぐの頃、知り合いの医者に診せたと言っていた。ドラムには昔から、驚くほど腕が良く信頼に足る女医が暮らしているのだと。
「なんでだよ!医者がダメなのはもう分かったろ!」
「なら他にアテはあるのか?」
「ドフラミンゴが探してる実の中に、オペオペの実ってのがある!それを食えば能力を使った手術でどんな病気も治せるって…」
新情報だ。余命僅かの割には大人しくアジトに居座りたがっていた様子からあたりはつけていたが、兄とこの子の間で共有されている情報量は想定よりも充実しているのかもしれない。
「手術か…オペオペはお前が食う予定なんだな?」
「…だったらなんだよ」
「ならアタリの医者が見つかりゃ足しになるだろ。ドラムにはとんでもなく腕の良い医者がいるって話だぞ?」
それに。
「…それにお前は、日のあたる場所を歩かねえとな!ロー!!」
「はあ!?」
ねぐらに選んだ廃屋を太陽が照らす、よく晴れた日のことだった。