ステイルメイト(1)
その日もゲヘナ学園は当たりさわりない一日だった。
つまり、学区のあちこちで乱痴気騒ぎが起こり混沌とした有様だった。
なればそれを取り締まる風紀委員会が忙しなくなることは桶屋が儲かるがごとく自明の理であり。
変装して紛れ込むことがより容易になる━━
「ハズ、だったけど、流石に手が足らなくなったか……」
思わずぼやきが漏れたことを自覚し、辺りを見回す。
空崎ヒナにお近づきになる常として銀鏡イオリに変装した姿のままだが、今のところ風紀委員とは誰とも出会っていない。
近くにいたのは、この頃味を占めたのか、校内に入り浸るようになった猫の内の一匹だけであった。
「よしよし、お前が委員長を手伝えたらいいんだけどな」
すっかり人慣れしたのか、手を伸ばしても逃げることもなく喉を鳴らして受け入れる。
確か風紀委員長の部屋に入り込むことが多い個体だったはず。ならばこの子を撫でまわすのは間接的にヒナ委員長と触れあえているようなものかもしれない。
いやきっとそうだ、ヒナニウムの代替品がこんなところにあるとは……。
「やっぱりこんなやり方じゃ、委員長とはまともに近づけないよな」
しょうもない物思いをしたところで、誤魔化せない問題を口にする。
一組織のトップに、まして既存の人物に成りすまして接触する。こんな手法は短期的な工作活動でやるもので、関係を構築するには悪手もほどがある。
現に、ヒナ委員長に近づけるのは銀鏡イオリの行動が把握でき、かつ齟齬が出ないような場合のみだ。
今日のように、中核メンバーも含めて分散してまで対応が迫られるようなときなどはなおのこと。
目的もなく現れること自体がおかしいのだから、姿を現すことすら正体の露見に繋がりかねない。
「……私、いつまでこんなことを続けるつもりなんだ?」
またしてもぼやきが漏れる。耳にするのは猫だけで、それも聞く気がないのか、一声鳴くとするりと抜け出て去っていく。
斥候であること。変装の技術。ことさらに自負するつもりはないが、私の能力は相応に高い。
それがどうにもこの潜入では━━空崎ヒナ相手では空回りする。
化けた相手の思考と、自分の目的。異なるロジックをすりあわせて動かなければならないのに、歯車がかみ合わない。
いや、そもそも。自分の目的とは━━。
「行くぞ、応援要請だ! 旧校舎の不良生徒たちが暴れまわってる!」
「応援要請って……みんな出払って、連絡要員の私たちしか残ってないぞ!?」
「間の悪い……不良ども、委員長たちが別で動いているのを聞きつけたのか!?」
「あいつらの暴れる理由なんて、太陽が東から登る理由を考えるようなものだ! そんなことより少しでも加勢する!」
思案から引き戻され、反射的に物陰に潜む。
そんな私のそばを、怒鳴り声を交わしながら数名の風紀委員が駆け抜けていった。
それを見送りながら頭のどこかで冷静に判断が下される。
(これは、無理だな)
風紀委員会は空崎ヒナを除いて、ゲヘナ生に軽んじられることが多い。だがそれは弱者であることを意味しない。
寧ろ、ときに万魔殿の無茶振りも含めて過酷な訓練を積む彼女らは、そこらの不良生徒程度は十分鎮圧できる。
にも関わらずこのような評価となるのは、おおむね二種に大別される。
すなわち、『そうであっても思うままに振舞いたい』か『そう評価できるだけの能力を持つ』か。
前者は本来問題ないが、このゲヘナにあっては珍しくない思考であり、ゆえに『数』という形で立ちはだかる。
後者は悪名高い美食研究会や温泉開発部、あるいは便利屋68。混沌たるゲヘナにおける『質』の評価水準はハイレベルだ。
一方でも手を焼くものがどちらも頻発する。はたから見れば、単独で隔絶した委員長を除いて舐められるのもむべなるかな、という次第だ。
交わされた言葉から判断すれば、今回は『数』であり一般的な風紀委員でも常なら対応可能だ。
常なら。しかり、中核メンバーも人数も払底した状況ではよくて時間稼ぎにしかならない。
そしてその稼いだ時間でさらなる援軍が駆け付けられる可能性は低いとみえる。
どこまでも無意味だ。それは風紀委員のなけなしの努力のみではない。
例え抑えきれなかったところで、ゲヘナに置いて不良が暴れまわり騒ぎが起きるのは日常茶飯事だ。
ひとつふたつのインシデントが防げなかったところで大局に変化などない。
既に限界なのだから、わざわざ応援などする意味もない。突破されたところで、いずれ他を片付けた中核メンバーが━━空崎ヒナが、後追いで始末をつけるだろう。
いくつもの理由を伴って、無意味という結論が繰り返される。
それを確認して、私は駆け出した。
━━風紀委員の走り去った方向へ。
(……私、は)
(いつまでこんなことを続けるつもりなんだ?)