シュガーマーブルとビターコーヒー

シュガーマーブルとビターコーヒー



「斉藤君、もしかして何か悩んでますか?」


「えっ、僕今そんな顔してますか?」


それはアビ子先生の自宅兼仕事場でいつも通りに食器を洗っている時だった。今日の昼食(棒棒鶏定食)を平らげて居間でごろりと横になっていた先生が、突然僕にそんな質問を投げかけてきたのだ。


「即否定しない、ということは肯定と受け取っていいですね。君は分かりやすいですから」


結論から言うと、悩み事はある。だけど、一つ大きな問題がある……"これを人に話していいものか"という問題だ。




話は昨日の午後まで遡る。

大学の講義が終わってから直接事務所に行った僕は、玄関付近でよく見知った人物と再会することになった。


『あれ、どうしたの。もしかして誰か待ってる?』


『久しぶり。ちょうど今待ち人が来てくれたわ』


この前宮崎で食パンを渡して以来、しばらく音沙汰の無かったツクヨミちゃんだ。

立ち話もなんだし、僕は事務所に彼女を通して、応接間に招待した。

冷蔵庫に入っていたバウムクーヘンとオレンジジュースを提供すると、彼女は満面の笑みでそれを頬張ってくれた。


『大学生活、どう?』


何でも、僕の近況が気になってわざわざ訪ねに来たそうだ。僕より一回りも二回りも幼いのに、まるでお姉ちゃんみたいだ。

……まあ"この肉体"になるずっと前からこの世界に存在しているとするなら、彼女の方がずっと年上なんだろうけど。


『まぁ、楽しい、かな。同学年にそこまで変な人もいないし、フリルとの件で探り入れてくるような輩も今の所いないし』


『心について学びたい、なんて殊勝なことだね。特に君の場合は人のためであると同時に、自分のためでもあるんだから』


僕は今、臨床心理士になるべく大学へと通っている。最初の頃は高校を卒業したらそのまま苺プロに就職して母さんの下で働こうかと考えていたのだけど。


『硝太、お前セラピストに向いてるかもな。人の心に敏感だし、何より人の心の痛みに寄り添える優しさを持ってる』


ある時アク兄が言った一言が、最終的に僕に大学進学を決意させた。

……受験目前の12月に大怪我で入院する羽目になった時は心底焦ったけど。包帯ぐるぐる巻きのまま大学入試共通テストと二次試験を受けに行った時は周囲の視線が痛かった。

その後なんとか合格を勝ち取って、今は臨床心理士の資格取得を目指しつつ、五反田監督や吉祥寺先生の元で家政夫のバイトを続けている。


―そこで、僕は前々から気になっていたことを彼女に尋ねてみることにした。


『あのさ、前宮崎で言ってた"あり得たかもしれない未来の斉藤硝太"の話、詳しく教えてくれないかな?』


以前宮崎で彼女自身の口から語られた、もしも僕が大切な人達を失っていたらどうなっていたか、そのIFの物語。

あの時は詳しく聞きそびれてしまったけど、もし機会があったら改めて詳しく聞こう、と前から決めていたのだ。


ところが、当の彼女はそれについて語るのをためらった。

表情から何となく分かったのは、(これを伝えたら君は深く傷つくかもしれない)という心配の感情だった。

僕は大丈夫だから、と彼女を説得しているところに、ちょうどアク兄とルビ姉が帰ってきた。

経緯を話したところ、二人も興味を持ったようで、ツクヨミちゃんに話すようにせがんできた。

結局最後はアク兄に煽られる形でツクヨミちゃんはその物語を語ってくれた、んだけど……。




(未来の僕が復讐鬼になって多くの人を殺めていたかもしれない、なんて人には迂闊に話せないよなぁ……)


実際、その話を聞いた後、ルビ姉は僕に縋り付いて泣きじゃくってたし、アク兄に至っては自責の念からそのまま飛び降りようとしてたし。

その後、片方に膝枕しながらもう片方をハグする、という謎セラピーが始まり、ツクヨミちゃんとそれから遅れて事務所に来たかな先輩とMEMちょさんにも手伝ってもらって、二人は何とか立ち直らせることが出来た。ついでに母さんに無理言ってその日の夕食は二人の大好物をたくさん作ってあげた。


(本当は誰にも言わずに心の中に留めておくのが一番なんだろうけど……)


でも、そのせいで表情に出てしまって、周りの人に気を使わせてしまってはそれはそれで問題だ。

一体どうしたら……。


「斉藤君、洗い物が終わったら少しお話しませんか?」


「えっ?あっ、はい」


アビ子先生の声でふと我に返った。つい考え込んでしまっていたらしい。いけないいけない。




テーブルの上に置かれたコーヒーカップから、インスタントコーヒーの香ばしい香りが広がる。

居間のテーブルを挟んで、彼が私の向かい側に座っている。かつてのあどけなさを残した顔貌は、すっかり大人の男のものに変わった。

初めて会った頃に比べ、成長したな、としみじみと思う。なんだかオバサン染みた感想だな、と自分でも思うが。


「斉藤君。さっき尋ねたことについてですが」


こういう時は年長者から切り出した方が良い、そう判断して話を始める。


「先生、ごめんなさい」


……が、唐突に彼から謝罪される。その表情からは申し訳なさがにじみ出ていた。


「心配して下さったのは本当に感謝してます。僕、嘘がつけないですから。隠しごとをするのも上手でないことも分かってます」


そのことはこの3年間で身に染みて実感している。貴方が誰よりも純粋で、同時に傷つきやすい人であることも。


「でも、このことは……正直、人に話して良いか悩むんです。伝えたことで、その人が傷つくんじゃないかって」


あぁ、やっぱり。貴方がためらうのは、いつも誰かを害する恐れがある行動を取りたくない時だ。

―我慢した結果自分が傷つくことは、良しとするのに。


「だからこのことは―」

「斉藤君」


―だから私は、ためらわないことにする。


「その問題は、あなた一人の心にしまっておいたままで、自力で解決できる問題ですか?それとも、私や周りの人達では力不足で役に立たないですか?」


我ながら意地悪な言い方だったと思う。彼が言葉に詰まったのが手に取るように分かった。

でも、良いんです。貴方がこのまま一人でそれを抱え込んだまま曇っていくよりは。


「前に言いましたね、"もっと誰かを頼れ"と。"いっぱい巻き込んでいっぱい知恵や手段を借りたら良い"と」


自分一人でできることなどたかが知れている。かつて貴方が身をもって私に教えてくれた教訓。

だからもっと、恐れず頼ってほしい。漫画を描くぐらいしか能が無い私だけれども。


「何も全てを曝け出せと言っているわけではないですよ?ただ、君が話せる範囲で良いんです。私も、君にできることがあるのなら、それをしてあげたいだけです」


彼が何かに弾かれたように目を見開いた。

やがて逡巡するように視線が動いて、固かった表情が少しずつ柔らかくなっていった。


「……先生には本当に感謝しかないですね。一生かかっても敵いそうにないや」


「あなたが単純に聞き分けの良い子なだけですよ。というか私の方が感謝してるくらいです」


実際斉藤君がいなければ今頃過労死していたか、体を壊して漫画家人生終了の憂き目を見ていたはずだ。

今日だって日持ちする漬物とか作って持ってきてくれたし……。彼がいなきゃ私は餓死してるだろう、間違いなく。


「先生、つまらない話になるかもしれませんが……ちょっとだけ、聞いてくれませんか?」


そして彼は語り始めた。


哀れな漆黒の硝子玉の話を。




「……なるほど、そういう未来に至った自分自身を垣間見た、ということだったのですね」


先生はうんうん、と頷きながら最後まで話を聞いてくれた。

普通こういう話を聞いたら、笑い飛ばすか病院行きを勧めるかの2択だと思うんだけど。


「信じてくれるんですか?」


「ええ、斉藤君は嘘つけませんから」


この人、良い人なんだけど霊感商法とかに遭わないか心配だ……良い人なんだけど。


「その話を伺った上で改めて聞きますが……斉藤君は、そうなった未来の自分をどう思いましたか?」


「そうですね……正直、そうなりたくないです。母さんも、兄さんも、姉さんも、皆を失ったとしても、それを誰かの命を奪って良い免罪符にはしたくないです」


人殺しに堕ちたと知れば、僕のことを覚えている他の人達はきっと悲しむだろう。例え僕が行方を晦ましても、どこかで僕のことを気にかけ続けているかもしれない。


「それに、殺めた相手にだって、きっとその人を想ってくれる人はいるはずです。仇を討ったとしても、そのせいで不幸を広げるようなことがあっちゃいけないと思います」


兄さん達がその手を汚してまで復讐を遂げようとした時、僕は必死になってそれを止めようとした。その時も、今と全く同じ気持ちだった。

結果的にカミキは余生を獄中で過ごすことになり、兄さん達は法を犯すことなくアイ姉さんの無念を晴らすことが出来た。

……リョースケがああなってしまったのは少し心残りだけど。でもああしなければかな先輩達が危なかったし、止めを刺してくれた組員さんには本当に感謝している。


「だから僕は、絶対にそうならない。ならないように、抗って見せます」


それが僕の決意。そして、世界で一番大切な彼女との誓い。


「そうですか。なら安心ですね。今こうしてはっきりと言葉に出来ているのなら、斉藤君は絶対にそうはなりませんよ」


そう言ってアビ子先生が微笑む。僕の心は先ほどと打って変わってすっかり晴れ渡っていた。




「すみません、今日はもう帰ります。食事は明日の分まで準備しておきましたから、時間になったらちゃんと食べてくださいね」


鞄に荷物を詰めながら斉藤君が帰る準備をしている。私もそろそろ次回の原稿に着手しなければ。


「今から不知火さんの所に行くんですね」


「えっ?!いや、あの、ええと」


「言ったでしょう、顔を見れば分かると。これから行くところが楽しみで仕方ない、という表情でしたよ」


「あ、あはは……」


「ちゃんと清いお付き合いをするんですよ?斉藤君はまだ大学生だし、万が一子供でもできたら大変です」


「気、気を付けます……」


ばつが悪そうにしながら、彼は外の世界へと帰っていった。



玄関の扉が閉まった後、私の胸には一抹の寂しさが広がった。

愛しい人の元へたどり着いたら、彼は彼女とどんな言葉を交わすのだろうか。もしかしたら、私に語った内容を彼女にも相談するのかもしれない。

そして、心に付いた擦り傷を、彼女の胸の中で、温もりに身を委ねながら癒すのかもしれない。


「……その役が私じゃないのが、ちょっと悔しいですね」


そう独り言ちて、ぬるくなったコーヒーを口に運ぶ。

口の中にほろ苦さと、ほんのちょっとのしょっぱさが広がった。

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