シャンプーのあれ

 シャンプーのあれ


 その日はとてもあつかった


 「ようっ……やく、終わりましたー!」

 グーと背を伸ばし、そのままパタンと机に倒れ込む少女を労う様に頭を撫でる。

 「お疲れ様。スレッタ」

 座学の試験の点数が悪く、再試験になったと言われたのが数週間前。

 今度は、大量の課題に追われ、苦手な科目だから教えてくれと泣きつかれたのが一週間前。

 そして、最後の課題を終え、無事に提出したのが今日。

 苦手な座学に振り回され、ようやく解放されたからなのか、緩みきった顔で頭を撫でられるがままになっている。

 まあ、この約一ヶ月。付きっきりと言っても過言ではないほどに、彼女の勉強に付き合ったのだから無事に提出して貰わなければ困る。

 最初は、ミオリネに教えて貰えば良いと言ったのだが、今は、父親に着いて飛び回っている忙しい彼女の負担にはなりたくない。と言われた。たとえ自分でも、二人の間には入り込めない絆があるのには、少し妬けてしまう。

 まあ、可愛い彼女の頼みということもあり、結局は引き受けたのだが、ご褒美くらいあってもいいのではないだろうか。

 付き合いたての恋人達の一ヶ月。

 彼女の勉強の妨げになってはいけないと、教えてあげている期間中、こちらからは一切手を出さなかった。

 図書館や寮の部屋で分からない所を教え、門限の時間になれば、彼女を寮まで送り届ける。

 規則正しく、健全な時間。

 彼女に触れたいという欲望を圧し殺し、最後までやり遂げた自分を褒めてあげたい。

 「エランさんのおかげで、無事に終えることができました」

 「スレッタが頑張ったからだよ」

 そして、僕も頑張った。

 「あの、エランさんには凄くお世話になったので何かお礼をしたいんですが、何か欲しいものとか、して欲しいこととかありますか?」

 「して欲しいこと?気にしなくてもいいのに。でも、そうだな。それじゃあ……」

 思わぬ言葉に、ニヤつきそうになる。

 折角の彼女からの提案だ。有り難く、乗らせてもらうとしよう。

 「じゃあ、スレッタからのキスが欲しいな」

 理解出来なかったのだろう。小さく小首を傾げ、こちらを見つめる。

 笑顔で見つめ返せば、ようやく理解できたのか、頬が真っ赤に染まる。

 「き、きキスですかっ!?」

 「ダメ?」

 指で唇をなぞり顔を近づければ、恥ずかしがるように顔を背ける。

 「嫌だった?」

 「……いや、じゃ……ない、です。ただ……その、恥ずかしい……」

 「そっか。ごめんね。君を困らせるつもりはなかったんだ。ただ、しばらく君に触れることが出来なかったのが寂しくて」

 名残惜し気に、唇から指を離す。

 申し訳なさそうな表情をした、彼女がこちらを見る。 

 「お礼だったよね。何がいいかな……」

 「あ、あのエランさん!」

 「どうしたのスレッタ」

 「め、目を閉じてく、ください!」

 瞬間、唇に触れる柔らかい感触。

 甘い匂いが、鼻腔を擽る。

 少し意地悪をしすぎただろうか。

 ぎゅっと目を瞑り、頑張ってキスをしてくれた彼女がとても意地らしく、可愛い。

 「ど、どうでしょうか……?」

 触れるだけの、ままごとの様な可愛いキス。いつもこちらから仕掛けているので、彼女にしては頑張った方だろう。 

 でも――

 「足りない。もっと、ご褒美をちょうだい」

 頬に手を添え、腰を引き寄せ、深く深く口づける。

 たかが一ヶ月。されど一ヶ月。

 ただの知人であった時ならいざ知らず、恋人同士の一ヶ月は、あまりに短くとても長い。

 彼女に触れられなかった時間を埋めようとするように、何度も口づける。

 「エラン……さっ……苦し……」

 「スレッタは、可愛いね……」

 いつの間にかいつも着けてる髪留めが床に落ち、椅子だけでは支えられない体重は、ベッドへと横たえられ、頬に、瞼に、額に、唇に。何度も何度も口づけを落とした。

 それから先のことは、あまり覚えてない。

 全てが必死で、白いシーツの上に広がる赤い髪がとても綺麗だとか。その名前で呼ばれるのが嫌で唇を塞いだりだとか。それでも唯一、残された自分を表す言葉だから、もっと読んでほしくて彼女にねだったりだとか

 頭の中がぐちゃぐちゃで、目の前の彼女のことしか考えられなくって、必死で名前を読んで呼ばれて。

 揉みくちゃになりながら、ようやく落ち着いた頃にはお互い汗だくで、なんとなく二人で顔を見合せ笑ったことを覚えている。


 シャワーの音が聞こえる。

 ベッドのシーツを片付けながら、部屋にシャワーが備え付けられていることに感謝する。

 こんな筈ではなかった。彼女からのキスのご褒美が欲しかったのは本当だし、もっと深くと求めたのも自分だ。

 だからと言って、ここまでするつもりはなかった。好きだからこそ大切にしたかったし、やるならもっと違うシチュエーションでと考えていた。

 ベッドを整え終え、もんもんと考えていると、浴室のドアが開く。

 「お、お待たせしました……次、どうぞ……」

 「あ……うん」

 いつもと違う雰囲気の彼女の姿に、ドキドキとしながらも、入れ替わる様にシャワー室へ入る。

 残る湯気と湿気が、今この瞬間まで、スレッタがこの場所にいたのだということを再認識させられ、胸が痛いほどに強く締め付けられる。大きくなる鼓動の音に、息ができない。冷たいシャワーを浴びて、なんとか心を押さえ体を洗う。

 ようやくシャワー室から出た頃には、スレッタは、髪を乾かし終えた後だった。

 

 「……ごめん」

 「大丈夫で、す。そんなに、待ってないですから……」

 「いや……今日のこと」

 「それは……」

 スレッタが口を開こうとした瞬間、端末のアラームが鳴る。

 「……そろそろ門限の時間だし、寮まで送るよ」

 「……はい」

 


 いつもと変わらない帰り道なはずなのに、今日は景色が違って見える。

 いつもなら、お互い色々な話をしている筈なのにそれもない。

 ふと、横に並んだ相手の手の甲が触れ、どちらからともなく指を絡める。

 ただ、手を繋いだだけなのに、どこか気恥ずかしい。

 まだ、お互いの体温が微かに残っているのが、繋いだ手を通して伝わってくる。

「すこし、あついですね……」

「そうだね……」

 言葉が少なくなるのは、先ほど散々愛の言葉を語り合ったからだろうか。

 風に漂った同じシャンプーの匂いに、少しだけ胸の奥がきゅっと締め付けられる。

 「着いちゃい……ましたね」

 「そうだね……」

 絡んだ指を離したくないが、これ以上彼女を困らせる訳にはいかない。

 「それじゃあ、また……」

 離れようとした指が捕まれる。

 「ん、どうしたの?」

 「あ、あの……」

 夕日に照らされているせいだろうか、頬が赤く染まって見える。

 「スレッタ?」

 言葉の続きを、なかなか言おうとしないスレッタのことが心配になり、顔を覗き込む。

 まさか、別れ話ではないよね。

 「エランさん!」

 「は、はい!」

 「ま、また、お部屋に行っても良いですか!」

 夕日のせいではない、顔を真っ赤にした彼女を、思いのままに引き寄せる。

 嫌われた訳ではないという気持ちや、また会いに来てくれるという安堵感や何やらがごちゃ混ぜになりながら、強く抱き締める。

 本当は、このまますぐにでも連れていきたいけれど、今は我慢するしかない。

 「うん。待ってる」

 時間だ。また、明日になれば会えると言い聞かせて、彼女から離れる。

 「じゃあ、また明日。スレッタ」

 「はい。また明日。エランさん」

 別れの言葉を交わし、いつもの様に立ち去ろうとした瞬間、唇に柔らかい物があたる。

 「さ、さようなら」

 なんだろうと考える間も無く、寮へ姿を消した彼女の背を見送り、ようやくそれがなんなのか思い至る。


 それから、どうやって帰ったのだろう。

 今日は、記憶が曖昧になることばかりだ。

 張り替えたばかりのシーツに横になる。 

 そんな筈はないのに、微かに彼女の甘い香りが残っているようで、胸がざわつく。

 時間がたち、だんだんと思い出してくる肌の柔らかさに、甘い声。

 握ってくれた手の感触に、背に残る甘い痛み。

 その全てが愛おしく、今すぐにでも彼女に会いたくなる。

 声が聞きたい衝動を、叫び出したくなる衝動を、必死で押さえ枕に顔を埋める。


 今夜は、眠れそうにない

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