シャチの出張美容室

シャチの出張美容室



「あっ」

シャキン―鋏の切れる音。同時に間抜けな声が浴室に響いた。ローの足元に髪の束が一房、ぼとりと落ちた。

「やっちまった…」

ローは深くため息を吐き出した。自分でどうにかしようなんて、やっぱり無謀だったのだ。後悔しても、時は戻らない。


***


「シャチ」

「なーに?ローさん」

探し人は暖炉の前で相棒と歓談していた。扉の前でちょいちょいと手招きするとシャチは素直にローの元へやってきた。

「あれ、珍しく室内なのに帽子被ってる」

「いやなに、ちょっとな」

ローはくるりと踵を返して来た道を辿る。ろくに説明もせず歩き出したローの後ろを不思議そうな顔のままシャチがついていく。浴室へ辿り着くと、ローは目当てのものを握り込んで後ろを振り返った。

「ン、」

「え〜なになに?」

「髪、切ってくれ」

ずいと鋏をシャチに付き出す。

「お前、美容室で働いてるし出来るだろ?」

「えーっ!でもおれ、まだ雑用ですよ!」

自分でやってみて失敗したんだと説明しても、「ローさんを練習台にするのは」とかなんとか唸って中々承諾してくれない。じゃあおれもお前のことを実験台にすれば平等じゃねェか?と左手を掲げて提案すればそれは食い気味に却下された。そんなに嫌がることか?痛くなんかしねェのに。

「おれがやるよりはよっぽど上手いさ。…なぁ、ダメか?」

帽子を外して一歩近づき、シャチを見上げる。シャチに断られてしまったら他にアテがねェなと不安になって、ローはこてんと小首を傾げた。

「んぐっ…全然ダメじゃない!!」

シャチが手で顔を覆ってワッと叫んだ。突然の大声に肩がビクッと跳ねた。シャチとペンギンはローにとってよく分からないタイミングでテンションが上がることがままある。今日も相変わらず変な奴だなとローは思った。まあとにかく髪は切ってもらえるらしいのでローのミッションはクリアだ。ローは握ったままだった鋏を今度こそシャチに押し付けることに成功した。

「…ってこれ普通の鋏じゃねェか!梳き鋏取ってくるからちょっと待ってて!」

これで切るなんて信じらんねェ!と再び大声を上げて浴室からドタバタと出ていくシャチを見送る。髪を切るくらい、鋏なんて何でもいいじゃねェか。バスタブに腰掛けてぼうっと待っていると、程なくして櫛と梳き鋏を持ったシャチが戻ってきた。はい、じゃあそこ座って。鏡の正面に置かれた風呂椅子を指されたので大人しくそちらに座りなおす。シャチがローの後ろに立つと、ギョッとしたように声を上げた。

「わっ、バッサリいったな〜!そもそもこんなとこ、どうやって切ったんです?」

「そりゃあ、こうやって―」

“ROOM”と呟いて浴室を覆う程度の青いサークルを形成する。“タクト”で置き鏡と鋏を持ち上げ、頭の後ろへ移動させた。こうすれば正面の鏡と合わせ鏡になって後ろ姿も簡単に確認できるし、頭のどこにだって自在に鋏を動かせる。能力の練習にもなるし完璧な作戦だ。そう意気込みさっき独りで髪を切ろうとして…、見事に失敗した。後頭部まで鋏を持っていったまでは良かったが、如何せんどのように切れば見映えが良くなるのかが分からなかった。まあいいかと適当に鋏を入れて…後はお察しの通りってやつだ。

ローは曲がりなりにも医者の―それも外科医の卵なのだから、手先はそれなりに器用だ。だから髪くらい自分でどうにか出来る。と思ったんだがなァ…。そうして髪を一束切り落としてしまってから、身近にうってつけの奴がいることに気がついた。

ローの説明を、シャチはそれはそれは面白そうに聞いていた。別に今の話にツボるところなんて無いだろ。鏡と鋏を元の場所へ置き、“ROOM”を解除した。…オイ、いつまで笑ってやがる。

しばらく経って笑いの収まったシャチがローの髪を櫛で梳く。ざっと全体の流れを整えて、最後に襟足の毛を一束掬って「あ、」と声を上げた。

「…こっちはなんか、コゲてるし」

「あぁ、それは多分……っクク、」

「なんすか、急に笑って」

「…別に。前にドジって燃えちまったんだ」

「え〜ローさんがドジ踏むの、想像つかねェや」

ドジったのはおれじゃねェと小さく独りごちて、ローはまた笑い声を口の中で転がした。たぶん、コラソンに後ろから抱き上げられた時にでも燃えてしまったのだろう。ドジなあの人は、しょっちゅうタバコの火から服に引火させて火だるまになっていた。半年間ずっと近くにいたローがそれに巻き込まれたことも数知れず。ドジが日常的すぎて、いつ焦げてしまったのかも分からない。全く可笑しな話だ。

楽しげなローを見て、シャチが教えて教えてとせがんできたが、ダメだ。今はまだ、ローだけの想い出にしていたい。何度かねだっても話す気のないローに諦めたのか、シャチはそれ以上深くは追及してこなかった。

「はい、じゃあお客さん。今日はどうされますかぁ〜?」

「普通に短くしてくれりゃあ…」

どう、と言われても特にこだわりなんて無い。髪を切るといえば毛足をそのまま短くするという発想しかなかったローは首を捻った。戸惑うローにシャチはニッと口角を上げてみせた。ペンギンが勤め先のレストランでよくしている表情―いわゆる営業スマイルってやつだ。接客業をしているだけあって、二人ともかなり愛想がいい―とそっくりだ。

心做しかサングラス越しに目のきらめいたシャチが、じゃあじゃあ!と口を開き――、

「ツーブロック?ウルフカット?マッシュ?あ、今ローさん前髪長いしいっそ切らずにセンター分けとか―」

「待て待て待て待て」

ガバっと振り返ってシャチと目を合わせた。急になんだ。呪文のようにペラペラと。

「……うるふ?とか、まっしゅ?とか…よく分からねェし普通でいい。これを!このまま!短くしてくれ」

「えーっ、せっかくイケメンなのに勿体ない!!!」

「とにかく普通で頼む」

よくわからないものをよく分からないまま頼むのは危険な気がした。あくまで“普通”にな、とよく念押しして椅子に座り直した。

「も〜…じゃあ次髪切るときはヘアカタログ見せるから、その中から選んでよ!」

「はいはい」

雑用だなんだと渋っていたのが嘘のように、シャチは迷いなく鋏を動かしていく。ジョキジョキと小気味よい音に、ローは目を閉じ耳を澄ませた。

「…よしっ、こんな感じでどうですか!」

10分程が経ち、シャチは鋏をポーチへ仕舞うと、置き鏡をローの頭の後ろへ掲げた。首を右へ左へ回して髪型を確かめる。

「…おお」

すごく…、いい感じだ。軽くなった髪をぺたぺたと触っていく。ローがバッサリと切ってしまったところは違和感のないように梳かれていて、もうロー自身にも分からない。襟足も元からコゲてなんていなかったかのように整えられている。

期待以上の仕上がりに「へへ、」と頬が緩んだ。満面の笑みが浮かんだ自覚のないまま、ローは上機嫌に振り返って礼をいった。

「うん、いいな。やっぱりお前に頼んで正解だった。ありがとう、シャチ」

「―っどういたしまして!!」

ガバっと両手を突き上げて叫ぶシャチに、やっぱり今日も元気だなとローは思った。


***


この日から、シャチはローの専属美容師になったのであった。

そして今から3年間、仕事で美容師としてのスキルをメキメキと伸ばしたシャチによって、散々髪をアレンジされることになるのをローはまだ知らない。



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