ゲヘナ編 5話
「…。」
味噌や醤油と言った調味料の香ばしい匂いが漂うゲヘナ学園の学食。
調理場からはまな板を包丁が叩く音がリズム良く響いている。
愛清フウカは一人、黙々と調理作業を進めていた。
「ふぅ…。邪魔が入らないってこんなに快適なのね。」
ここ最近、給食部は至って平和だ。
その理由は既に判明している。美食研究会が出現していないのだ。
意識不明の重体で入院したと同級生から聞いた時は何事かと流石に驚いた。
だが同時に、つい先日目を覚ましたとも聞いたお陰でその驚きは動揺に変わることはなかった。
あの連中が来ていないお陰で厨房は荒らされず、フウカが拉致されることも無い。
食材の仕入れも仕入先からの風評被害を受けること無く、スムーズに済んでいた。
「よし、こんなものでしょ。」
作っていたのは給食ではなく、ハルナとアカリ両名の弁当だ。
フウカの脳裏に浮かぶ二人であれば、薄味の病院食に満足出来ずに問題を起こしかねない。
それを宥めすかす為の転ばぬ先の杖、もとい弁当であった。
「はぁ…これで何とかなればいいけど…」
「ジュリ?私お見舞いに行ってそのまま帰るから、戸締りよろしくね?」
「♪~…あ、はい!わかりました〜!」
上機嫌で鼻歌を口ずさみながら食堂の掃除をしていた後輩に声を掛ける。
給食部の平和の理由はもう一つあった。それはジュリがまともな食べ物を提供出来るようになったことだ。
彼女はレシピを守っていないこともあったが、何を料理させても不味いものしか出せなかった。
それがここ最近、スイーツに限っては大好評を得ており、クレームの数も大幅に減ったのだ。
あの風紀委員長もちょくちょくジュリのスイーツ目当てに訪れているとも聞いている。
以前からの苦悩が遂に解消されたジュリは正しく、我が世の春といった調子だった。
そのおかげで自分の料理がおまけ扱いされつつあるのは複雑な気分ではある。
だが、ジュリの努力が遂に実を結んだのだ。先輩として嬉しくないはずがなかった。
「…んしょっと。」
愛用のスクーターの荷台に荷物と弁当を乗せ、エンジンを掛ける。
空の色はまだ蒼いが、徐々に朱が差し始めていた。
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「C4棟…本当にこの病棟で合ってるのかしら…」
市内の病院に着いたフウカは受付に指示された病棟の廊下を一人歩いていた。
本館からやけに離れた位置に存在するためか、歩を進めるにつれて人の気配が無くなっていく。
照明も少なく薄暗いが、受付の指示内容と一致する場所ではあったので間違ってはいないのだろう。
「621、621…あった!」
ようやく目当ての病室の番号を見つける。慣れない場所での不安感からようやく解放され、思考に余裕が生まれる。
思えば不思議なものだ。こうして美食研究会に自分から会いに行くだなんて。
自分がこうして顔を見せれば、二人はどの様な顔を見せてくれるのだろうか。等と考えながら扉を開ける。
だがそこには───
「いやあぁぁ!?きたないきたないきたないいいぃぃぃぃぃ!!!」
「誰かぁっ!?誰か助けてくだざい”い”い!!!何かが全身を這い回ってええぇぇぇ!!!」
「…。」
目を疑う光景が広がっていた。
泣き叫びながら狂乱するアカリ。虚ろな目で虚空をただ見つめ続けるハルナ。
二人共が拘束衣を身に纏い、ベッドに縛り付けられている。
フウカの思う二人の姿とはあまりにかけ離れていた。
「っ…!クソっ、またか!鎮静剤を早く!」
廊下を通りかかった看護師が狂乱するアカリを見つけると周囲が慌ただしくなる。
病室内にぞろぞろと医療用ドローンと看護師達が現れ、アカリはベッドごと病室から運び出されていった。
「…ハ、ハルナ!?ハルナ!!これは一体…!?どういうことなの!?」
あまりの出来事に固まっていたフウカは、喧騒が収まってからようやく我に返った。
そして狼狽しながらハルナに問いかける。
ハルナはようやくフウカに気づいたのか、ゆっくりと瞳をフウカに向けた。
「ぁ…フウカ、さん…ごきげん、よう…。」
「まともな時に…お会いできて…嬉しいです…。」
「な、何を言って…?」
ハルナからは生気と呼べるようなものが一切感じられない。
さながら、キキ糸が全て断裂したマリオネットの様だった。
「…フウカさん、それは…お弁当…ですか…?」
「え?…あ、うん。アンタ達に作って来た弁当だけど…。」
ハルナがフウカの持参した弁当について尋ねる。
するとハルナはフウカの困惑を他所に、言葉を紡ぐ。
「一口、頂けないでしょうか…?一番、味の濃いものを…。」
「いいけど…。」
フウカは自らの困惑は一度置いておいて、ハルナの要望に応えることにした。
弁当箱を開けると香ばしい匂いが辺りに広がる。
しかし、ハルナの表情は先程よりも明らかに強張っていた。
「ど、どうしたの…?」
「…いえ、なんでも…ありません…。」
相手が入院患者であることを慮って作られた弁当には油気は少ない。
フウカはその中でも多少濃い目に味付けをした、だし巻き卵をハルナの口元へ運ぶ。
ハルナは断頭台に立っている罪人かの様に青褪めた顔色で、そのだし巻き卵を咀嚼した。
「ん…。」
元々柔らかいはずのだし巻き卵をゆっくりと、それでいて、味を確かめるかのように食するハルナ。
その喉がだし巻き卵を胃の中に運び、一呼吸置いた時だった。
「ハルナ…どうして、泣いてるの…?」
ハルナは大粒の涙をぼろぼろと流していた。その瞳は失意に染まっている。
理由を尋ねられたハルナは顔をフウカにゆっくりと向けると、沈痛に告げた。
「味を…一切の味を…感じません…。」
「ぇ…?」
フウカは慌ててだし巻き卵を自らの口に運ぶ。
しかし、口の中はすぐにお米が欲しくなる程度にはしっかりとした味に満たされていた。
そして理解してしまった。
「…本当に、何も、感じないの…?」
目の前にいる少女に降りかかっている、筆舌に尽くしがたい苦痛を。
フウカの問いに応える声は無かった。だが、伏せた顔からぼとぼとと落ち続ける雫が是を唱えていた。
「申し訳、ありませんが…今日はお帰りください…。」
「少し、一人にしてください…お願い、します…!」
声を震わせながらの哀願に、フウカは無言で病室を後にすることしかできなかった。
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「ジュリ!」
「え、フウカ先輩?どうかしたんですか?」
日が沈み、夜が始まる薄明かりが残る頃。フウカはゲヘナ学園の食堂に戻って来ていた。
病室を出た後、廊下にいた看護師を捕まえて事情を洗いざらい問いただしたのだ。
ハルナ達がブラックマーケットで食べた物がキヴォトス外では麻薬と呼ばれるものであったこと。
二人は禁断症状を抑えるために拘束され、治療方法を模索している最中であること。
そして何より───
「貴女のスイーツの材料、全部言いなさい!今すぐ!」
「え?は、はぁ…。」
“砂漠の砂糖”なるものが二人を苛んでいる原因であり、市場に流通し始めていること。
話を聞いた瞬間に点と点が繋がり、気づいてしまったのだ。
ジュリのスイーツが評判を得だした時期が、流通が始まった時期と凡そ一致していることに。
「あとはイチゴ…ですかね。」
「…砂糖は。」
「え?」
「砂糖は、どこの、何を使ってるの。」
ジュリの挙げた食材はどれも“砂漠の砂糖”が入っていないものばかりだった。
だが、意図的に言及を避けていることをフウカは察する。
「砂糖は…どこのメーカーも大体一緒じゃないですか?」
「…“砂漠の砂糖”。」
「ッ!!」
フウカは遂にその名を口にする。するとジュリの表情は露骨に強張った。
「…“砂漠の砂糖”を使っているとして、先輩はどうなさるおつもりですか?」
「当然、やめさせるわ。使っていいはずがないでしょ、そんなもの。」
「そう、ですか…」
酷く落ち込んだ表情をするジュリを見て、心苦しさを感じるフウカ。
しかし同時に、被害者の増加を未然に防ぐことが出来たと安堵もしていた。
「残念です。」
砂糖の様に甘い見込みだった。
ダブルバレルショットガンの轟音が食堂に響く。
無防備だった腹に接射されたフウカは悲鳴を上げる間もなく椅子やテーブルを巻き込んで容易く吹き飛ばされた。
「ぎ…ぃ……ぁ……。」
明滅する視界に痛む全身。そして鈍痛と共に熱を持つ腹部。
悶え苦しみ、呻き声しか上げられないフウカにジュリが歩み寄る。
「少し手荒になりますが、先輩にも”砂漠の砂糖”を馳走しますね。」
「ようやく…ようやくなんです…!私が、私だけが作ったもので、美味しいもの!」
「これだけは、先輩だろうと奪わせはしません。」
その瞳には鬼気迫るものがあった。だがフウカもそれに負けじと応える。
「ふ、ざけないで…。食べる、人のことを…思いやれない料理は、全て失敗作よ…!」
「ジュリ、アンタのそれは…!」
昂る感情のまま、思いの丈を口にしようとする。
「待ちなさい。」
しかし、何者かにそれは遮られた。
暗がりからカツカツというヒールの音と共に、四人の姿が露わになる。
「その一線は、越えてはいけないものよ。互いに引き返せなくなる。」
そこにはロングコートを靡かせた陸八魔アル率いる、『便利屋68』がいた。