ゲヘナ編 1話

ゲヘナ編 1話


「う、うぅぅ…!」


揺れる世界、廻る景色。

黒舘ハルナは母校にまで続く薄暗い路地を酩酊しているかのように彷徨っていた。

その表情は苦悶に満ち、目の下には大きな隈をこさえている。


「これで良かった…これで…良かったのです…」


ぐわんぐわんと銅鑼を頭の中で鳴らされているかの様に頭痛がする。

足の裏が地面を踏みしめる感触も無くなって久しい。


(何で我慢なんかしてんのよ?)


どこからともなく脳内に聞き覚えのある声が響く。


(痩せ我慢は身体に毒ですよ☆)


「うるさい…ですわね…」


(でも身体は正直だよね〜!)

(手に握ってるモノをご覧なさい☆)


「ッ!!?」


響く声に指摘され、最も力を込めやすい利き手を見遣る。

手は爪が掌に食い込むほど握りしめられていた。

まるで絶対に離さないと言わんばかりに。


(早くしなさい)


無意識に固く握りしめていた手から恐る恐る力を抜く。

指と掌の空間にある物が露わになる。


「ひっ…!」


思わず悲鳴が出てしまった。そこには"捨てたはず"の数粒の飴玉があったのだ。

確かにここに来るまでに、川に向かって投げ捨てたはずなのに。


(ソレを捨てるだなんて、良いわけ無いじゃない)

(本当に捨てたと思っていたのですか?)


飴玉が酷く恐ろしく感じ、今度こそ投げ捨てようと腕を振りかぶる。


「ッ!?そ、んな…」


しかし、腕を振り下ろすことが出来ない。

意志に反して身体が抗っていた。

そして理解してしまった。

自らが既に、理性で御しきれないところまで堕ちてしまっている事を。


(あははっ!ほらね?言った通りでしょー?)


その惨めな姿を声が嘲る。


「うるさい…うるさいうるさいぃッ…!!!」

「こんな、美食を冒涜するものを、絶対に私は認めません…!」


自らを鼓舞する様に叫ぶ。

黒舘ハルナの美食の流儀と情熱は本物だ。

だからこそ赦し難い。

彼女の信念とも言える美食の定義は味や材料だけでなく、

そのホスピタリティや誰と食するのかといった環境的要因も加味されるものだ。

だのに、手の中のものはその全てを暴力的なまでの快楽で塗り潰してしまう。

そんなものを赦せるはずが無かった。


「こんなものより、先生と一緒に頂く食事の方が…!」


声の主張を否定する為、最高の美食を思い出す。

最も愛しい人と語らいながら、好きなものを食べたあの瞬間。

あの時感じた味は───


「ぇ…あ、あ…あああぁっ!?」


思い、出せない。彼女の信条を支える美食の理想形。

何時でも思い出せたその美味が、思い出せなかった。

今出てくるものは手の中のものに蹂躙された快楽の記憶だけ。

頭から冷水を被せられたかの様に思考が止まる。


「あぁ、こんなの…嘘…嘘です…」


あまりの事に自分という存在が足からボロボロと崩れ落ちる様だった。

見開いた目からは止めどなく雫が流れ落ちるが、声は遠慮なく言の葉を継ぐ。


(いい加減諦めなさいよ)

(自分の身体すらままならないのに)「ハ、ハルナぁっ!アカリが、アカリがぁ…!」

(さあ、手の中の美食を堪能なさい☆)


ずっと頭に響いていた腹立たしい声。

その中に背後から聞こえたものがあった。

ハルナの怒りは瞬時に沸点を超え、振り向きざまに愛銃の引き金を引く。


「えっ!?ぐぅっ…!!!」


当たった。確かな手応えもあった。

興奮冷めやらぬまま、撃ち倒した下手人にふらふらと歩を進める。

これだけ人の事を見透かした様に言ってくれたのだ。

そのご尊顔を拝ませてもらってもバチは当たるまい。


「やっと…静かに、なりましたわね…!」


肩で息をしながら独り言ちる。

視界は揺れ動いたままで、手の届く距離でもロクに見えていない。

だから気づかなかった。


(あーあ)


赤い髪を掴むと同時にまたも聞こえる声。

それを無視して乱暴に持ち上げる。


(やっちゃった!)


霞む目を凝らして遂にその顔を見た。

涙の跡が残る、気絶した赤司ジュンコの顔がそこにはあった。


「…は、は。」


引き攣り、乾いた笑いが零れる。

一瞬で血の気は引き、頭から背中にかけて冷たい感覚が伝う。

今の自分はとんでもなく酷い顔をしていることだろう。

何せ自らの美食を、自らで穢したのだから。


「…」


地面との間に自分のバッグを添えて、ジュンコの頭を静かに優しく置いた。

そしてジュンコから離れた何も無い場所へ歩を進める。

手荷物の中にあったあるものを胸に抱えて、美食を穢した者へ裁きを下すために。


「ごめんなさい、ジュンコさん…。」


届かない謝罪を述べながら、ハルナは起爆装置を押した。


────────────────────────


「クソッ!何がどうなってる!?」


「そんなの知りませんよ!」


銀鏡イオリは火宮チナツを含む他の『風紀委員会』のメンバーと共に市街を駆ける。

思えばこの頃は異常だった。ゲヘナ学園では殴り合いの喧嘩程度は当たり前。

挨拶代わりに鉛玉が飛び交い、ちょっとしたじゃれ合いで爆発が起きる。

果ては他の自治区で盗みを働いたり、高層ビルを吹っ飛ばしたりとやりたい放題。

だからこうして走り回ることはいつも通りなのだ。

しかし、いつもと明らかに異なることが今、起きている。


「どうして"第二校舎の生徒"まで暴れてるんだ!?」

「しかも"菓子の取り合い"みたいなちっぽけな理由で!」


授業すらロクに実施されない第一校舎から逃げる形で

真面目に勉学に励む者たちが集まる場所、それが第二校舎だ。

だからこそ、ゲヘナらしからぬ平和な空間があった場所が火種となっている。

それがあまりにも"らしくない"。異常と言う他無かった。


「たしか、こっちだったよな?」


「はい、三丁目の角を曲がってすぐのはずです!」


悪い事というのは立て続けに起こると聞く。

だからだろうか。


「ッ!風紀…委員…!」


「ジュンコ…?」


「なんでもいいから助けて…!先輩達がぁ…!」


大問題児の美食研究会が"らしくもなく"助けを求めていたのだ。

ジュンコの背にはぐったりとして動かない鰐渕アカリと会長の黒舘ハルナがいた。

ハルナに至っては思わず眉を顰めるほどの重傷を負っている。


「早く、早くしないと…!」


「落ち着け!チナツ、手当を!」


チナツに治療を促すが首を横に振られる。


「ここでは無理です!今すぐ救急医学部に運びます、担架を!」


こういったことにも風紀委員のメンバーは慣れているからか、

アカリとハルナはチナツ同伴ですぐに運ばれていった。

チナツの背を見送るイオリはまだ、思いもしていなかった。

この異常が他学園をも巻き込む惨劇であることを。

そしてその惨劇は『ゲヘナ風紀委員会』も片棒を担いでいたことを。


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