ケーキセットはドリンク値引
待ち合わせ時間よりもかなり早く付いてしまったのでコーヒーでも飲みながら待つかと歩き出そうとした時だ。不意に肩を叩かれて振り向くと、見知った顔によく似た人が立っていた。
「よ、お兄さん暇か?俺とちょっとお茶でもせぇへん?」
「……なんでそんな雑なナンパみたいなことを」
「ええやん、気にしなや。ついでに美味いケーキ屋とか教えてくれへん?桃に買うて帰るから」
そうして恋人の母親という大変に扱いづらい人に捕まった僕は、なんだかんだと待ち合わせ時間までお茶に付き合うことになった。顔が似ているせいで頼まれて断れなかったわけではない。
僕に全く遠慮することなく入った店でチョコケーキまで頼んだ人は、対面で頬杖をつきながらこちらを眺めている。視線が大変に痛く、ごまかすために水を飲んだ。
本来ならば三十分ほど外で買ったコーヒー片手に本でも読みながら時間を潰すつもりだったのに、今は一分すら馬鹿みたいに長く感じる。
さすがに人と店に入って本を読み出すような非常識さは持ち合わせていないし、読んだところで対面の人は遠慮などしないだろうから中断させられるのが落ちだろう。
「娘とはどこまで行ったとか聞いてもええの?」
「…………そういうことはしてませんよ」
「マジで?ちょっとこの前カワサキまでとか言われるかと思うたわ」
言葉に詰まる僕を尻目に店員さんに愛想よく振る舞っている。こんな状況でも味がわからないとはならない僕も案外肝は太いのかもしれない。
無造作にティーポットの紅茶を注ぎ入れている人には負けると思うが。母は強しとは言うがそういう方向でまで強いんだろうか。
「ま、あの子はおぼこいくせにリサなんかが色々教えたせいで耳年増やから、勝手に想像膨らませて恥ずかしなってベソでもかいとるんやろ」
「……それは、そうですね」
「男としては焦れったいかもしれへんけど、可愛らしいと思って気長に付き合うてあげてな」
よく考えてみれば目の前の人にとっては百年以上大切にしてきた掌中の珠なのだから、僕のような男が相手だと不安になるところもあるのかもしれない。
不安な人は「案外うまいな」と言いながらチョコケーキを食べないというのはこの際置いておこう。子を成した相手を考慮すると男に要求するハードルは地に埋まっているような気がすることもついでにそうしておく。
「俺としては眼鏡で一人称が僕の優男はやめとけって言ってやりたいとこではあったんやけどな」
「……ええと」
「久しぶりにアレの顔見たら眼鏡でもないし優男でもないしなんやスカした態度で私とかカッコつけてたから言えんくなってしもた」
「僕はあまり面識がないので」
「言われてみればそうかもしれんな。あんなん会ってもなんの得もないから、それでええわ」
流石に僕も折り合いが悪い時に父を父と呼ばなかったことはあっても"アレ"とは言っていなかったなとぼんやりと考える。
彼女からも仮にも血の繋がった父親であるのにそう呼ばれていたので母娘で揃ってそういう扱いなのだろう。所業を思えば当然だが、爪の先ほどは憐れだ。
話を聞く限り、自覚の有無は兎も角たとえ歪んでいたとしても確実に恋愛感情と呼べるような好意を向けていたと推測できるのだけど。
それほど忌避している男に愛されているというのはそれはそれで不快かもしれないので言わない方が良いのかもしれない。
「俺から言えるのは、浮気はバレんようにしろよとかそんくらいやな」
「死んでも浮気はしませんし、そんなことがあったら責任を取って首でも差し出しますよ」
「えっ……重…………まぁ女の幸せは愛されることなんて言うし、そんくらい重くてもええのかもな、知らんけど」
普通は浮気なんぞしたら許さんと言うのではないだろうか、重いと言われた僕の方がだいぶ解せない気持ちでコーヒーを飲む。苦味が感情と呼応している気さえした。
そういえぱ紅茶を頼んでいたなと思って顔を上げればミルクを注いだ紅茶をスプーンでかき混ぜ、軽く顔をしかめる様子が見えた。砂糖を差し出したがそういうわけではないらしい。
「甘いチョコケーキと合わせるならミルクはいらんかったわ、なんなら紅茶が失敗でコーヒーのがよかったかもしれん」
「なんで頼んだんですか」
「ポットで来るのなんかええやん、高そう」
「味で選ばなかった結果では?」
「せやなァ」
カラカラと鳴るスプーンでかき混ぜられる紅茶は追加でなにか入れたわけではないのでどれほど混ぜても味は変わらないと思う。気分なんだろうか。
そんなことを考えていたら携帯が音を立てたので慌てて手に取った。あれ程時間が進むのが遅いと思っていたのに、いつの間にかそれなりに経っていたようだ。
彼女から来た「もうちょっとしたら着くけど、どこにいるの?」とのメールに「君のお母さんに捕まった」と返信したら感嘆符が山のようについた返信が来る。
急いでやってきて転ばないか心配になるが、彼女の身のこなしを考えれば転んだところで一回転して着地しそうなので大丈夫だろう。そもそも今は電車の中のはずなので、急いだところで早くもならないが。
カップも空になり彼女が乗った電車もつく頃、そろそろ店を出たほうがいいとなって先程の会話の内容がふと気になった。もしもの話、愛されていることに気づいていたなら、そこに幸福はあったのだろうかと。
「……もしも、あの男が、貴女のことを愛していたならどうしますか?」
「そんなもん決まってるやろ」
思わず口に出して、しまったと思う間もなく返事が返ってくる。ついでに取ろうとしていた伝票を細い指が滑るようにさらっていった。
きっと何も言わなかったけれど、最初から奢るつもりだったんだろう。
「ケツ蹴り飛ばして、完膚無きまでにフッたるわ!」
僕から奪った伝票を見せびらかすように持ちながら少し得意げな顔で言うその人は、確かに彼女の母親なのだなと言うくらいよく似た顔で笑った。