グエル♀とヴィム

グエル♀とヴィム



ぱんっ、と乾いた音が静かな病室に鳴り響いた。

それと同時に衝撃がくる。一拍遅れて左の頬がじんじんと痛み始めた。思わず手をそこにやるとじんわりと熱を持っている。

痛い。確かに痛いが、グエルは少しだけほっとした。

数日前、自分の妊娠が分かった時のそれよりもずっと軽い。…手加減を、してくれている。

頬に手をあて、手加減をしてくれた礼を言うべきか悩みながら、父の顔を見上げる。ラウダと同じ琥珀色の、冷たくて、煮えたぎる怒りを秘めた目がグエルを見下ろしている。

重い溜息をつきながら、グエル、と聞き分けのない幼い子供を諭すような声音で言われ、体がびくっとはねた。ベッドの上ではあったが、慌てて頭を下げる。

「その腹の子に、どれだけの価値があると思っているんだ」

「…っ、申し訳、ありません……」

「その子を危険に晒したんだぞ。事の重大さ、お前には分かっているのか」

「分かって…います…申し訳ありません…」

じわじわと絶望が体の奥から染み出してきて、心の黒い影ができる。体が小刻みに揺れて、うまく動かない。情けなくて嫌になる。縋るように毛布を掴むが、体の震えは止まってくれない。

一瞬、ほんの少しだけ、グエルの体を気遣ってくれているのかと思った。それが、手加減してくれた理由だと。

ある意味それは間違ってないが、目の前にいる父はグエルの体というより「腹の子供の母体」としてのグエルを気遣ってくれたものらしい。今もしきりに腹の子の利用価値について、どれだけこの子供がジェターク社にとって、父にとって重要な役割を果たすのかを説いているのが聞こえる。

「お前をシャディク・ゼネリに嫁がせる。既に相手は了承済みだ」

良かったなぁ、と父がこの瞬間だけ機嫌よく笑っているのが聞こえる。

シャディクから聞いていたとはいえ、改めて聞くと本当に現実味がない。

父はもうグエルを自分の子供として見てくれていないのかもしれない。大事な大事な子を宿している人間として、自分に接しているのが伝わってくる。

体も心も冷たい。頭は思ったよりもずっと冴えていて、父が何を言っているのか、父にとってこの子供がどれだけ価値があって大切なのかが飲み込める。心に何か小さな罅が入った気がした。


(父さん…俺は、あなたの子供、ですよね…?)


ずっと父の子供として認めてほしくて、ジェターク社の跡取りとして恥ずかしい人間にならないよう努めてきたつもりだ。

努力が足りているとは到底思えない。だから父は自分を認めてくれなかったし、褒めてもくれなかった。最後に褒めてもらったのは、いつだっただろうか。

そうだ、確かホルダーを勝ち取った時。その報告をしに、ラウダと一緒に本社までいった時、「よくやった」と言われた。

それが嬉しくって嬉しくって、油断すると緩みそうな顔をどうにか必死になって堪えて「はい、ありがとうございます」と頭を下げて言った。その夜は浮かれて、寝つきが悪かったことを思い出す。

あの時少しだけ認めてもらえたと思ったのに。スレッタ・マーキュリーに負け、エランにも無様に負け、そしてこんなみっともない姿を晒している。

…分かっている。自分がいま、どれだけの醜態をさらしているのか。嫌と言うほど、分かっている。父の信頼を、期待を、ずっと裏切り続けている。父が呆れるのも、分かってはいるのだ。

胸が震えて、何かがこみ上げてくる。眼にじわりと何かが滲む。泣くな、これ以上情けない姿を、父に見せる気か……

こんな姿になっても、グエルは父のことが好きだった。ラウダも子供も守りたいし、それと同じ位父に失望されたくないとも思っている。それがどれだけ無理な話なのか分かっていても、どうしてもそう思ってしまうのは止められない。

「と、とうさん……」

震える唇を、もつれる舌を必死になって動かす。

揺れる手をどうにか動かして腹に手をやった。だいじょうぶ、だいじょうぶ、と子に言っているのか、自分に言い聞かせているのか分からないが、そんな言葉を何度も頭の中で繰り返す。

「この子供の父親はシャディクじゃ…」

そう言って父を見上げるが、鼻で笑われてしまった。

「またそれか。お前がどう言おうとも、婚約の話はもう決まっている。サリウスも責任は取らせると言っている」

「そ、そんな……」

シャディクがどう伝えたかはわからないが、父であるサリウスにまで話が行っていると知って、今度こそ血の気が引いた。

…本当に何もかもがグエルの意志抜きで決まっている。お前の意志なんてどうでもいいと言われているのが、よく分かる。

「子供は親のいうことを聞いていればいいんだ」

絶望が、心を蝕んでいく。俺の意志は、いらないんですか。あの時みたいに。

「父さん…俺は……」

「1週間後、正式に婚約の取り交わしを行う。結婚するのは卒業してからだが…先方の希望だ。婚約が正式に決まり次第、あっちの家にお前を渡すことになっている」

「……えっ、」

そんな話は、シャディクから聞いていない。あっち、というともちろんゼネリ家ということだろう。

シャディクが、何をしたいのか全然わからない。もちろんグエルに対しての情なんて持っていないだろうに、一体何をしたいのだろうか。

混乱しきった頭では思いつかず、なぜ、どうして、シャディク、とうさん…とそればかりが、ぐちゃぐちゃになった頭の中で駆け回る。

「そうなれば、こっちに帰ってくることも許さん。家にも入れんぞ」

びきっとまた心の大きな亀裂が入るのを感じる。悲鳴じみた声が漏れそうになるのをどうにか堪えた。

もともと父は警戒心が強い人だ。家族以外の人間を、家にあげるのを極端に嫌っていた。

だからこそ、幼い頃からラウダと二人きりの時間があった。ありすぎて二人で遊ぶのがうまくなった。二人遊びの延長で、あんなことをするようになってしまった。

そんな父が家に入れないという。もうお前は家族ではない、と言われたのと同じ。データ上では変わらず家族であったとしても、今までと同じではない。

ひゅーひゅーと喉から声になり切れなかった息が通り過ぎる。声が出そうで、手を口に当ててそれが漏れ出るのを一生懸命とめる。

(俺は、父さんと、ラウダと、家族で在りたい…!)

瞳に涙が浮かび、くしゃりと顔が歪む。心も、頭も、全部痛い。ぐわんぐわんと視界が揺れる。息をするのだって苦しい。吸っているはずなのに、ちゃんと吸えているのか全然わからない。

空気が足りなくて、必死になって息を吸う。でも全然息苦しさが解消されない。ますます頭が混乱してきた。

顔を伏せているので、グエルの異変に気づいていないのか、淡々とヴィムは話し続ける。ああ、とおまけのような気軽さで、言葉を付け足した。

「ジェターク社はラウダに継がせることにした。」

「………ラウダ、が…?」

短い呼吸の合間に、それだけ聞く。ラウダ、ラウダが、俺の代わりに。いよいよジェタークに自分の居場所はないらしい。

ラウダはこのことを知っていたのか…。そこまで考えて、はっと気づいた。ラウダが去り際に言った「ごめん」の意味。何を言っているのか分からなかった。もしかしたら…

(ラウダはこのことを知って…?)

このことへの謝罪だったのだろうか。

起きるまで結構時間が経っていたようだし、それまでに父と話していても不思議じゃない。

さっきは起きたばかりの自分に気を遣ったか、はたまた口止めをされていたのか…どっちかは分からないが、知っていて言えなくて、あの謝罪の言葉が出てきたのだとしたら…。

酸素が足りない。吸っても吸っても体に、頭に新鮮な空気がいかない。水の中じゃないというのに、溺れそうだ。

荒い呼吸が父にばれないように、これ以上失望されないように手のひらを押し当てて、息を殺す。

言いたいことはたくさんあるのに、息ができないから何も言えない。顔を伏せて黙るグエルに興味もないのか、それとも言いたいことは言い終わったのでどうでもよくなったのか、父の足音が遠ざかるのが聞こえる。扉が開く音。それと一緒に、

「これ以上腹の子を危険にさらすな」

と一言が付け加えられて、扉が閉まる。ああ、と引き攣るような声と、涙がこぼれる。


(父さんに、失望された…!要らないって、言われた…!)


こんなことをしでかしといて分かっていたことなのに、はっきりと突きつけられると心がぐちゃぐちゃに掻き乱される。

父に認められたい。父の期待に応えたいと、それだけを思って今まで努力してきた。父はグエルが女だからという理由で跡継ぎから外さなかった。長男であるラウダがいても、周りになんと言われても、跡継ぎはグエルであると譲られなかった。

それが嬉しくて、グエルにとっての誇りであった。だからこそ、今までどんな努力だってしてきた。

家族ではないといわれ、いよいよジェターク家から居場所がなくなる。父とも、ラウダとも家族でいられなくなってしまう。

(ラウダとの繋がりも…なくなる……)

ラウダとグエルは恋人同士でなく、ただの姉弟。その縁がなくなれば、ぷっつりとラウダとの関係もなくなるだろう。今まで通り、父がラウダとグエルを会わせるとも思えない。

ヴィムはグラスレー社に手を伸ばしたいが、グラスレーの人間がジェターク社に関与するのをよしとしない。

何よりラウダも、これまで通りに接してはくれないに違いない。

だって、ラウダにとってグエルはただの姉で。それ以上の関係ではないのだから。

心に出来た罅が大きな亀裂になって広がっていく。

空気が吸えない息苦しさと、絶望とで涙がぽたぽたと毛布に掛かる。

もうどこにも居場所がない。ラウダだって、自身がジェターク家の跡取りになり、グエルが嫁ぐ身だとしたら、もうグエルの所にも来てくれないだろう。

シャディクは子の父親は自分ではないとラウダに言っているのは聞こえていた。ラウダがそれを信じているのは分かっている。グエルの言葉は届かなかったが、父の言葉も、シャディクの言葉も、ちゃんとラウダには届いていたのが、心底羨ましい。

しかし父があの調子じゃ何かをラウダが言ったとしても、信じてくれるとは到底思えない。

どちらにせよ、ラウダにとっては自分以外の人間とも関係を持っていて、その相手との子を孕んだような女だ。ジェターク家の跡取りという自覚もなく。不誠実で、どうしようもない女だとしか思ってないだろう。

縁が切れると精々しているかもしれない。

足が軽い。運び込まれた時、治療の邪魔で外されたのか、厄介なリングは今はグエルに着けられていない。

…………今なら、逃げられるんじゃないだろうか。

濁った瞳で窓の外を見る。大した高さじゃない。いつもの自分になら、するすると下に降りられる高さだ。

(…でも、)

ちらりと腹に視線をやる。ラウダとの子供がいるらしい腹。グエル以外誰からも祝福されない可哀想な子供がいる。

担当医からまだ話は聞いてないが、父の態度から相当危なかったことが伺える。

今、もし無茶をしてこの子に何かあったらどうする…。逃げ出せば、当然誰にも頼れない。全部から逃げて、逃げて、誰も知らない地で過ごさないといけない。今回はシャディクとラウダが助けてくれた。でも、今度は誰にも助けてもらえない。

ふとシャディクの甘い声が脳裏に響く。どうしても逃げ出したくなったら俺に言って。俺ならどうにかしてやれる、といった言葉だ。

今更聞く気はないが、結局どうするつもりだったのか、ちょっとだけ気になった。

生温い涙はグエルの冷たい頬を濡らす。短くて浅い息を繰り返し、満足に酸素が行かなくて頭がぐらぐら揺れる。頭の中の大半が黒に塗り潰されようとしていた。

どうすればいいのか。何か一番良い方法なのか、何も分からない。



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