キヴォトス現代噺 幸福な砂糖像
砂漠の砂糖は今やキヴォトス全域にまで蔓延している。
だがそのほとんどが生産地のアビドスによって厳しく締め付けられており、純度の高いものが出回ることなどほとんどない。
ましてやブラックマーケットに流れる砂糖など、推して知るべしだ。
もしそれが見つかってしまえばアビドス上層部は制裁を容赦しない。
混ぜ物がされた粗悪な砂糖は通常の砂漠の砂糖よりも遥かに人体に有害で、アビドスシュガーのブランドを下げる行いだからだ。
それでも砂糖を求める者が後を絶たないのだから、人間の欲求というものは度し難い。
だがそんな環境だからこそ、鷲見セリナは闇医者として活動できているのだが。
キヴォトスのブラックマーケットには一つの噂があった。
『高純度の砂漠の砂糖でできた像がある』というものである。
セリナがそれを聞いた時には、荒唐無稽すぎて嗤ってしまったものだ。
ブラックマーケットで純正品の砂糖は高い。
そんな砂糖が使われて砂像や雪像のようになっている? それも高純度で?
像というからには1㎏や2㎏ではきかないだろう。
末端価格にしてどれほどの価値があるのか、セリナですら想像はできないものだった。
砂糖中毒が求める幻覚だろう、とその時は判断して薬を処方していた。
「そう……思っていたのですが」
「セリナさん、貴女の考えは至って普通ですよ。ただ例外というものは往々にして存在する、というだけの話です」
セリナの呟きに答えを返したのは、かつてのトリニティの生徒である守月スズミだった。
「見てください、この体を。もはや痛みすら感じません」
「酷いですね……ここまで中毒が進行したのは初めて見ました」
「ふふ、驚かせられたのならこんな体でも役に立った、と言っていいかもしれませんね」
「結晶化、ですか。それであんな噂が立ったのですね」
スズミの体はかつて見た時とは様変わりしていた。
肌は陶器のように白く、髪もしなやかさを失い針金のようになっていた。
動くたびに服と肌が擦れて、パラパラと落屑していく。
全身から甘い香りを漂わせる彼女は、まぎれもなく砂糖の像であった。
「今すぐ治療を」
「無理ですよ。こうまで成り果ててしまった以上、あとは死ぬだけです」
「それは……」
医者としてはあるまじきことだが、セリナには否定できなかった。
彼女の体表面の砂糖を取り除いたところで意味はない。
皮膚にまで影響を及ぼすということは、体内はもっと侵食が進んでいるはずだ。
今こうして常のように会話できていることすら、不思議としか言いようがない。
「セリナさん、少し頼みを聞いてはもらえませんか?」
「私に、ですか? なんでしょう?」
「ただで死ぬつもりはないのです。この身体の砂糖を使って研究してみませんか?」
「研究を……」
「治療薬でもなんでもいいです。あるいはこの砂糖を売ってお金に換えてもいい。何かを残したいんですよ」
「……わかりました」
セリナは頷いた。
スズミの結晶化というものは貴重なサンプルだ。
調べることでそのメカニズムを解析すれば、同様の悲劇をなくすことができるかもしれない。
研究に必要な予算も、スズミは提供してくれているのだから。
「セリナさん、研究の進み具合はどうですか?」
「まだです。そう簡単に進むものではありません」
「そうですか、なら……」
スズミはブラックマーケットの一角を指した。
「あちらの方角に砂糖の中毒者が倒れています。粗悪な砂糖で動けなくなってしまったのでしょう。あの人を助けてあげてはくれませんか?」
「そんなことがなぜわかるのですか?」
「この身体になってから、痛覚などを失う代わりに、それ以外の感覚が鋭敏になりました。ここからでもすべての醜いもの、悲惨なものが見えます」
おぞましいものを見ているというのに、スズミはこともなげに言った。
「粗悪品の砂糖中毒による有害事象は、純正品の砂糖によって中和されます。それでも末期にまで至った有害事象は、純正砂糖を投与することでの安楽死くらいしかできません。今スズミさんと一緒にいて医者を休止している私では高価な砂糖を手に入れることは」
「あるではないですか、ここに」
パキリ、とスズミは自身の小指を折った。
砕けたそれを握りつぶし、粉になったそれをセリナの手に載せる。
「これくらいあれば十分でしょう。それとも足りませんか?」
「スズミさん!?」
「痛みなどもうない、と言ったでしょう? それにほら」
スズミが開いた手の指の根本から、パキパキと音を立てて徐々に徐々に結晶が伸びていく。
「再生するのです。元の指のようにはなりませんが」
歪に伸びた結晶が子供の落書きのように指先に生えている。
そのおぞましさを目の当たりにしながらも、彼女の決意を無駄にはできないとセリナは砂糖を治療に活用することを決意した。
「セリナさん、あの人を助けてあげてはくれませんか?」
「セリナさん、あの人を助けてあげてはくれませんか?」
「セリナさん、あの人を助けてあげてはくれませんか?」
「セリナさん、あの人を助けてあげてはくれませんか?」
「セリナさん、あの人を助けてあげてはくれませんか?」
「セリナさん、あの人を助けてあげてはくれませんか?」
セリナはスズミの望み通り働いた。
闇医者として働く傍ら、どうしても救えないような中毒者のターミナルケアとして、スズミの砂糖を投与していた。
そんな活動をしていれば、どこからともなく砂糖を求める者が増えるのは道理であった。
「ああ、どうか、どうかお恵みを……」
「お願いします! こちらにもどうか、どうか救いをお与えください……」
今やスズミはご神体のように崇められていた。
中毒に苦しむ少女たちを安らかに死へと誘う死神にして、救いの女神としてだ。
「望むなら与えましょう」
差し出した手を折り、恭しく受け取ったセリナがその手を少女たちに与える。
透き通った指先を噛み砕き、恍惚とした表情で倒れていく少女たち。
「私を与えましょう」
腕がなくなったスズミの顔にセリナは手を伸ばし、くり抜いた目を砕いて少女たちに与える。
「ありがとうございます。ありがとうございます」
感謝を述べて旅立つ少女たち。
「そうあれかしとあなた方が望むのならば、私はそのように振る舞いましょう」
「馬鹿なことをした女だと笑いますか?」
「いいえ、笑うことなどできません。私も同罪ですから」
「それが破滅への片道切符なのだとしても、もはや止まることはできないのです。今の平和があるのなら、これで僅かでも苦しみを除くことができるのなら、私は喜んで贄になりました」
「彼女たちが望むだけ与え、捧げ、流し込みました。諸共に地獄への道行きとなりましょう」
「……本当は」
そこで言葉に詰まったスズミだったが、懺悔をするように心情を吐露した。
「みんなを私と同じようにするつもりだったのです。私と同じように苦しめ。私と同じように飢えろ。潰れてしまえ。消えてしまえ。もうどうでもいい、みんなみんな、狂って壊れてしまえばいいのだと」
「スズミさん……」
「……でも『ありがとう』って言われたんです。なら、もういいかなって」
肩の荷が下りたように、スズミは笑みを浮かべた。
「調子に乗って両目まで取るのはやり過ぎでしたね、もうセリナさんの顔が見れません。まあセリナさんの目に映った醜い私を見なくて済むのが幸いですか」
「いいえ」
セリナは首を振った。
例えスズミがそれに気づけずとも、否定はしなければならなかった。
「スズミさんは綺麗なままですよ。今もずっと」
「……私の情報は広まり過ぎました。じきに高純度の砂糖を求めて悪い人たちが私を狙うでしょう。セリナさん、貴女はこれ以上私にかかわるのをやめた方が良いです」
「何を言っているんですか、スズミさん。貴女はもう何も見えないのですから、ずっと貴女と一緒にいることにします」
「……」
「スズミさん……せめて貴女の最期を、私に見届けさせてもらえませんか?」
「それくらいなら、まあ」
あいまいに頷いた彼女を見て、セリナの顔が綻ぶ。
ここまで付き合ってきた彼女を見捨てることなど、セリナにはできなかったからだ。
「もう私も覚悟を決めました。スズミさん、貴女の手にキスをしてもいいですか?」
「それは……」
スズミは口籠った。
セリナがスズミに口で直接触れる。
それはすなわち、砂糖を経口摂取することに他ならない。
高純度の砂糖を口にすることの影響を、セリナは十分に理解していた。
だが彼女が敢えて言葉にしたその意味を、スズミは察した。
「良いですよ。ただキスをするのなら口にしてはくれませんか? もう手には感触がないのです」
「私は医者失格かもしれません。患者にここまで入れ込んでしまうなんて」
そうしてセリナはスズミの唇に口づけをして、自らもまた砂糖の幸福の奈落へと落ちて行った。
「ああ……こんなにも幸福な終わりが、私にもあったのですね」
その瞬間、スズミの中で何かが砕けたような奇妙な音が響いた。
それは結晶化した砂糖の心臓が、限界を迎えて二つに割れる音だった。
配役
幸福な王子:スズミ
ツバメ:セリナ