カリモフ記事妄想

カリモフ記事妄想


シアマク・カリモフ


シアマク・カリモフはウマムスタン出身の企業家。電気系コングロマリット、カリモフ電気機械工業の創設者である。


生い立ち


1845年、コーカンド・ハン国のホジェンドの下級貴族の次男として生まれる。苗字がウマシア系なことからもわかるように、父方の祖父はウマシアからの移民であった。母方はタジク人系の家であり、また家の貴族としての位はプロスペクター氏族系の貴族であった父方の祖母から受け継いだものであった。

商業で成り立つ氏族だったこともあり、幼い頃から数学と経営学を叩き込まれた。後に本人は「楽しかったし役に立った」とは述べているものの、その厳しさに辟易することも多かった。


大学からダートへ


1863年にコーカンド大学経済学部に入学、1867年に卒業しGDチョルスー銀行に入社する。当時指導していた教授から「君は博士になるべきだ」と言われたが、早く社会に出て何かをしたいと思い断ったという。翌年には氏族の有力者から才能を見込まれてダートでの勤務を言い渡された。当時のGDグループは南北戦争をきっかけに北ダート大陸での足場を固め始めていた大事な時期であり、そこでの勤務を命令されたことから、カリモフが周囲から評価されていたことが窺える。

また、大学時代に株式、投資に手を出しており一財産を築いた。カリモフは何かあった時のためにそれを全てダートに持っていくが、この判断が彼の人生を決定づけることとなる。


エジソンとの出会い


1869年、渡米して北ダート支部で働き始めたカリモフはエジソンが発明した株式相場表示機を初めて目にした。その革新性に感激したカリモフは即座にエジソンを訪ねたが、すでに特許はエジソンの勤め先の会社に買い取られていた。そこでカリモフは上司の力を借りつつも会社と直談判し、特許を買い取ることに成功した。

その上でエジソンに独立を促し、自身が研究所設立の費用の半分、7万ドル(現在の価値にして4億円近く)を出すことを条件にそれを認めさせた。同時にチョルスー銀行の上司の力を借りつつも、株式相場表示機の製造工場も自らが出資して設立しており、その利益の一部もエジソンの研究開発費に充てられた。研究所、工場の運営は順調で、カリモフとエジソンは徐々に会社の規模を大きくしていくことになる。


ダートでの事業拡大と帰国


研究開始後からエジソンは多くの発明を生み出すことになる。蓄音機、電話をはじめとした革新的な製品を次々と世に送り出し、会社の利益も右肩上がりだった。しかし、1874年になるとジョン・モルガンがエジソンに出資を申し出、カリモフの立場が危うくなった。カリモフはGDチョルスー銀行に支援を要請したものの、資金力、モルガンの影響力からこれは却下され、カリモフはエジソンのスポンサーとしての立場と自分の工場をモルガンに売り渡すこととなった。

彼は工場の運営を降りると同時にチョルスーの職員としての地位も辞し、自分で新たな会社を作ることを考えるようになった。カリモフはエジソンと相談して蓄音機や電話、白熱電球など自分の支援で発明、あるいは開発中であった各種製品の特許使用権を手に入れた上で1875年に帰国した。そして、ダートの工場と株を売却した資金を元手にカリモフ電気機械工業を設立した。


ウマムスタンでの事業


1875年に設立されたカリモフ電気機械工業は、当時のウマムスタンでほぼ唯一と言って良い電気関連会社だった。カリモフがダートから持ち帰った知識、生産技術によりカリモフの製品はウマムスタン全土に瞬く間に広がった。カリモフの模倣をしようとした企業も多くあったが、本場ダートの技術とカリモフの巧みなマーケティングにより次々と駆逐されていった。

特に1877年より始まったユーラシア大戦の影響により、ウマムスタンの軍需工場は24時間体制での稼働を強いられることになり、電球、電力需要は凄まじい勢いで上昇した。そして、ユーラシア大戦に敗北し、国内が不況に陥る中でも一度芽吹いた電力、電機需要は徐々に拡大していき、それに乗じてカリモフの経営規模は拡大していった。

1890年代には大都市に家庭用送電施設が整備され始め、一般家庭も大きな顧客となった。


ラジオの普及とラジオ戦争


順調に経営規模を拡大していたものの、カリモフには大きな弱点があった。カリモフの製品は他国で開発された製品の後追い、あるいはウマムスタンに合わせた小改良型でしかなく、自社で画期的な製品を開発することがなかった。自動搾乳機をはじめとした新製品開発の試みこそあったものの失敗続きであった。

転機となったのは1912年の真空管ラジオの発売であった。カラコル電子工業が1911年に世界で初めて公共ラジオ放送を始めた事を知ったカリモフはこれを大きな商機と判断した。同時に来年にもカラコルが一般家庭向けラジオセットを販売するという情報を入手したカリモフは、それに先駆けてラジオセットを発売すべく秘密裏に真空三極管の現物を入手、急ピッチで研究を重ねた。その過程で高性能な真空管ラジオの開発に成功し、カラコルよりも先にラジオセットの販売を開始した。

これはカラコルから特許の侵害として訴えられた(ラジオ戦争)ものの、最終的にカリモフが勝訴し、カリモフはラジオ市場における優位性を確保することに成功した。同時にウマムスタンではラジオ文化が花開き、第一次世界大戦の好景気もそれを後押しした。1912年にラジオセットが発売されて以来、ラジオは熱狂的な人気を博し、他国でようやくラジオ放送およびラジオセット販売が始まる1920年までに一般家庭におけるラジオ普及率は25%を超えることとなった。また、10年の歴史の中で発達したラジオセットは海外でも人気となり、1920年代、1930年代のウマムスタンの主要な輸出品の一つとなった。


(スレが進んだら続き書くかも)


補足

名前:適当。タジク人系の名前をつけた


生年月日:大体エジソンと同年代とした


ダートでの会社経営:しばらく帰国せずにダートにいるのに、株式相場表示機の特許を個人で買い取ったということは多分自分で事業を起こしている。その後を見るに経営も順調だったはず


蓄音機とかの発明年代:1875年に「電気機械」を名乗ってるのでエジソンの発明が潤沢な資金によりちょっと早まったと想定(前のレス参照) 

ユーラシア戦争の初期ブーストにより資金を確保、以後は特許料を支払う形で製品の製造を始める


ラジオの普及:1912年に真空管ラジオセット(鉱石ラジオですらない)を販売するとかいう歴史ブレイク。ダートではこれの影響を受けてラジオ放送とラジオセット販売が始まるかもしれないが、他の列強諸国は軒並み第一次世界大戦で無線が規制されるので、ウマムスタンに比べラジオが10年以上遅れるのは確実となる

もしかしたらラジオの普及を以て「ウマムスタンが技術的にも世界のトップレベルになり、あらゆる面で列強となった瞬間」と言われてるかもしれない

そして他国の外交官が当時のウマムスタン国民がラジオに熱狂する様子を記録に残してそう


25%という数字:ダートでは1923年から1930年で50%を超えたそうな。第一次大戦の好景気があれば1920年までに60%行けそう。ということで最初は60%を超えたという設定にしていたのだが、1950年時点のダイスが後で振られたので修正。ちなみに1920年はダートでラジオ放送とラジオセット販売が開始された年で、アルビオンでラジオ放送が始まるのは1922年のことである。


Report Page