カラス
“ニューヨークから来た”ジャックが石を投げたのは、確かにカラスを助けるためだった。
場所はインド北部、ランタンボール国立公園の近く。虎の見学ツアーで有名な観光地だがジャックはツアー客ではなかった。彼は一人で埃まみれのレンタカーを駆り、人と会うためにアグラ方面に向かっていた。そして、ちょうど車を止め、少し歩いて体をほぐそうとした時にその光景に出くわしたのだった。
道ばたで羽を休める一羽のカラスに一匹の野犬が忍び寄ろうとしていた。
次の瞬間、ジャックは石を拾い上げて投げつけていた。特に考えがあったわけではない反射的な行動だった。勢い十分の一投。しかし……
「あ、ヤバい」
しまった、と思ったときにはもう遅かった。長時間のドライブで強ばった腕のせいでコントロールし損ねた。ジャックの狙いは犬とカラスの間だったが、実際に命中したのはカラスの胴だった。
ぽぐ、とでも表現できそうな鈍い音があがった。
カラスが“があっ”と悲鳴に似た声を上げてよろめきながら飛び立った。
そして犬はと言えば──
ジャックを見ていた。
犬は薄汚く痩せこけていて、顔に散ったブチがまるで余分の目のようだった。吠えず、鼻を鳴らすことすらせず、ただじっとジャックを見つめていた。
ジャックは怯んだ。あらためてここがインドだということを思い出した。年間二万人近くが狂犬病に倒れる国なのだ。ここでは野犬は死の使いである。もちろん予防接種はしてきたが……
「おい、そう怒るなよ。たしかに邪魔したのは悪かったけどさ……」
でも助けちゃうだろ、と、じりじりと後ずさりしながら言う。
その言い分を理解した訳ではないだろうが……
犬はしばらくジャックを見つめた後、その奇妙なブチのある頭をぶるるっと振り、そのまま何処かへと駆け去っていった。
ジャックは大きく息をつくと汗ばんだ手をズボンにこすりつけた。心臓に悪い一瞬だった。変な慈悲心を出したのも不味かったか。カラスも犬も身近な動物故に、続く残虐なシーンを避けようと思わず体が動いてしまったが。
「あれも野生動物の狩りだったわけだしな。犬には悪いことをした……」
空を見ればいつの間にか暗い雲が湧き出ていた。雨になりそうだな、と思いながらジャックは車に戻った。
そして、これからしばらく後にジャックの記憶は一度途切れる。
◇◆◇◆◇
「ニルリティに感謝だな」
その言葉がジャックの意識を引き戻した。とはいえそれは闇に差し込んだ一瞬の光に過ぎず、言葉の理解と共に再び意識は闇に沈んだ。
そして次に目覚めた時、ジャックは病院のベッドの上にいた。全身いたるところに痛みがあり、包帯が巻かれ、管を通して複数の薬剤と栄養が送り込まれていた。
ジャックは、自分がもう“ニューヨークから来た”ジャックではなく“生還者”ジャックとなったことを知った。さらに、その二つの間には“横転した自動車と壊れたスマホ、それに片方の靴を残して失踪した”ジャックがいたのだということも聞かされた。
失踪期間は一週間だという。
実感がなかったし、記憶もなかった。
「雨が降ってきて……車が滑ってひっくり返ったのは覚えている。なんとか脱出して、スマホで連絡しようと思いながら道路沿いに生えてる木の下に行こうとしたところで……目の前が真っ赤になった。それから先は何も記憶がない……」
医者の許可が降りた後、ジャックは警察と大使館職員とメディアに対して同じ事を話した。反応は三者三様だったが“何が起こったのか?”という疑問に対する見解はほぼ同じだった。
「落雷を受けて意識混濁のまま放浪。野垂れ死ぬ前に運良く発見された」
証拠もあった。壊れたスマホと不自由になった右足だ。念入りな調査と検査の結果、どちらも原因は落雷だと結論づけられた。ジャックにとっては納得のいく話だった。スマホはともかく足はもう少し発見が早ければ後遺症を残さずにすんだらしい……そう聞かされた時は落ち込んだが、しかし命があるだけ幸運だとも言われ、それもそうかと思い直した。
事情が分かってしまえば幸運なだけの話には面白みが少ない。周囲の騒ぎは急速に収まっていった。
ジャックは静かに──治療費と滞在費の計算に頭を悩ませ、保険に入っていた事に感謝しつつ──治療を続け、やがて退院した。
ジャックの人生に謎は残っていなかった。
「ニルリティに感謝だな」
耳にこびりついて離れないあの声を除いて。
◇◆◇◆◇
一月後、ジャックはある男に会うためにランタンボール国立公園まで脚を伸ばした。
「おお、見違えましたな! こう言っては何ですがお元気そうでなりよりです」
公園事務所の待合室で、出迎えてくれた恰幅のいい男は開けっぴろげな笑みを浮かべた。男は国立公園の──ジャックには違いがよく分からなかったが──ガイドだかパークレンジャーだかで、死にかけていたジャックの発見者だった。
いわば命の恩人だ。
丁寧に礼を言うと、男は鷹揚に手を振った。
「なあにいいんですよ。動物を助けるのは時たまあるが人間の命を救うのは珍しいんでね。これでワシも善行を積んだってもんですよ」
そう言って男はジャックに椅子を勧め、不器用なウインクをよこしさえした。
いささか愛想がよすぎる。おそらくメディアからの取材を受けた事でそれなりの稼ぎがあったのだろうな、とジャックは推測した。それはそれで結構なことではあった。命の恩人がその行為をもって小銭を稼ぐことに反感を抱くほど彼は子供ではなかった。
むしろ話をしやすくなったとも言える。
「実は、今日はちょっと伺いたいことがあって来たんです」
「まあ、そうでしょうな……それで? 大体のところは警察にもメディアにも話してると思うが」
「聞きたいのはニルリティについてです」
ジャックの問いに男は戸惑ったように瞬きを繰り返した。
「救助されたときに聞こえた『ニルリティに感謝だな』という声は、たぶん貴方のものですよね? あれはどういう意味があったんですか。ちょっと調べればニルリティがこの国の古い女神の名前だってのはわかりましたが……」
「……ああ! アンタを発見した時の話だね」と、男は言った。
男は煙草を取り出すと、慣れた手つきで火をつけ大きく一服した。
「……あれは思わず出た一言って奴だ。ニルリティってのは死の女神だ。カリよりずっと古い女神だ。ワシはこう見えても若い頃は文学青年でね。仕入れた学識がつい漏れたってわけだよ」
「怪我人を助けたから?」
「死人だと思っていたら息があったから、ですな」と、男は言った。「それとカラスだ」
ジャックは僅かに身じろぎし右足をさすった。
「これはとっておきとして記者にも話していないんだがね……アンタを見つけたのはカラスのおかげなんだよ。あの日、カラスが靴を玩具にしてるところを見つけたんだ。追い払ってから調べてみるとアンタが履いてたっていう靴に似てる。で、半信半疑でそのカラスを追いかけてみるとアンタがいたってわけだ」
「たしか、カラスはニルリティの使い……」
「そういうこと。それでつい、な。ま、そんなことを言うとかえって嘘くさくなるんで、報告ではワシの勘と努力の賜ってことにさせてもらったがね」
なるほど……と、ジャックは頷いた。頷くしかなかった。
「しかし、飛んで逃げるカラスをよく追えましたね」
「ああ、そのカラスは怪我をしていたらしくてね。こう……片脚を引きずるような感じで。時折地上に降りては休むんだ。だからそれほど手間じゃあなかったよ」
今度こそジャックは言葉を失った。
◇◆◇◆◇
それからしばし歓談した後、互いの好意が尽きる前にジャックはその場を辞去することにした。どうも顔色が冴えないらしく、事あるごとに大丈夫かと問われるのが鬱陶しくなったというのもあった。
それでは、と立ち上がったところで、ふと思いついてジャックは男に聞いてみた。
「犬はどうなんでしょう」と、ジャックは問うた。「ニルリティは犬も従えてるんですか?」
「犬?」
「ええ。変な……目みたいな斑のある犬」
「ああ、それはヤマの犬だな。四つ目のサーラメーヤだ。死者を連れに来る犬。確かにニルリティもヤマも死の神だが全く別の存在だよ……どうもアンタが読んだ資料はあまり当てにならんようだ」
「ええ、そのようですね」
ジャックは駐車場まで足を引きずって歩きながら考えていた。
暗示に満ちた話だった。不思議に満ちた話だった。ジャックの身の上に起きた不運にして幸運な事故が神話じみた魔法の色を帯び始めたかのようだった。
死の女神のカラス。
死の神の犬。
ジャックはカラスを助けた。
同時にカラスを傷つけもした。
ジャックは犬の邪魔をした。
ジャックは自動車事故を起こし、落雷に遭い、一週間をさまよい、しかし死ぬ事なく生還した。右足こそ犠牲にしたが……普通に考えれば死んでいて然るべきで、医者には生きていたのは奇跡だと言われたほどだ。
もしかして本当に奇跡だったのだろうか。
仮に奇跡だったとして、先んじて起きた一連の事故は神罰かなにかだったのか。
「バカバカしい」と、ジャックが呟いたその瞬間。
があっ──────と、間近でカラスの鳴き声が上がった。
驚いて顔を上げると、ほんの三メートルほど先にカラスがいた。
黒々としたカラスだった。昂然と胸を張り光るビーズのような目でジャックを見ていた。バランスを取るように羽を広げて二、三歩進むと、その右足が力を無くしているのが分かった。
どこか遠くで犬が遠吠えを始めたが、カラスがばさりと翼を一打ちすると声は途絶えた。
そして、どうだとばかりにジャックを見てくる。
ここまでされればジャックにも分かった。神話に屈するべき時だった。目の前にいるのはあの時のカラスなのだ。そしてカラスがなにを言わんとしているのかも理解したと思った。
命の恩には命で報い。右足の恨みは右足で返す。
なるほど紳士的だな?とジャックは思った。国旗を侮辱したら殴り返してきそうな、という意味で。イギリス流だろうか。昔、この国を支配していたことだし。
ジャックの前で、カラスは何かを待ち受けている。
礼には礼を。
道理ではある。
それを受け入れるという事で自分の中の何かが決定的に変わってしまうという予感はあったが。
ジャックは観念したように目を閉じると、こう呟いた。
「───ニルリティは讃えられるべきかな」