カラオケとパッチワーク

カラオケとパッチワーク

日本町布衣瑠太

※この記事は、Kumano dorm. Advent Calendar 2019(https://adventar.org/calendars/4652)の16日目の記事です。


本題を書く前に、一応素性を書いておかないと寮生じゃないのではないかという誤解を与えそうなのでちょっとだけ。

名は日本町布衣瑠太とでもしておこう。寮生活は4年目になり、来年もいることが確定している。老害という領域に片足を突っ込んできたわけだ。比較的喧騒から離れたブロックの、これまた静かな部屋の一住人である。最近は昼間でも無音が耳に刺さって心地いい。

このカレンダーの存在は寮祭期間中の宣伝ホワイトボードで知った。

今日に至るまで色んな人がこのカレンダーに文章を投稿していて、内容は日々の雑感、趣味、考察、決意、或いは寮祭企画の宣伝まで様々、或いは文章の形態も随筆チックなものから明らかな小説などこちらも幅広かった。他人の経験の海の一端を、或いは思想の森の入り口を垣間見られるだけでも本当に面白いもので、もっと聞きたいと思ってしまう。

まさしく「出張版の雑記帳」みたいでワクワクするのだ。

もし邪魔になる物でなければ僕も何か書いてみようかと思い、登録してみた。題は「カラオケとパッチワーク」ということで、一つお付き合い願いたい(Word君曰く以下5000字くらい)。

 

莫大な熱量を注いでいるわけではないが、好きか嫌いかと問われれば好きだ、というものは多分人間誰しも持っていると思う。僕の場合だと、例えば音楽は昔から人並みに好きだ。文章や映像では伝わらない想いを、抽象的な歌詞やメロディに託して届ける術である音楽は、ふとした心の隙間に入り込んでくる不思議な存在だと思う。日常にどこか物足りない気持ちや、微妙なすれ違いを感じて空いてしまった穴を優しくふさいでくれる。中にはいたく心に響いてその後の人生の基礎とか、心の一部を形成するような存在になるものもあるだろう。とはいえ、僕はレビュアーでも無いし、音楽理論のオの字すら知らない。別にバンドを組んでいるわけでも、歌い手をやっているわけでも無い。流行りのJ-POPだって聴いたり聴かなかったり。好きなアーティストの新曲が出たらまあ聴くか、ぐらいのレベルだ。無気力と全力の中間ぐらいを、無気力寄りでふらついている。

周囲の人を見ればバンド組んでる人、談話室でギター弾いてる人、滅茶苦茶ニッチなジャンルの音楽に手を出してる人、様々いる。僕と同じようにそれなりに音楽聴いててそれなりに好きという人も、もちろん多い。そして大体僕の同ブロックの同期達はカラオケが好きなので、たまにみんなで示し合わせてカラオケに行くことも多い。最近だと寮祭の全寮コンパが落ち着いた夜22:00からカラオケに赴き、そのまま翌5:00までオール、なんてこともあった。

 

カラオケと言えば、周囲の同期達は大学に入ってから頻繁にカラオケに行くようになったという者が多いのだが、それにはきっかけがあった。

ある日僕は突然、大先輩のKさんから昼飯時に突然声を掛けられた。曰く、この後授業がないなら一緒にカラオケに行こうじゃないか、ということだった。当時父親に「先輩からの誘いは基本全部受けとけ」と言われていた僕は何となくそれをOKし、その場にいた僕の同期1人と、先輩1人と、Kさんの同期1人とでカラオケに行くことになった。それが全ての始まりというか、大学に入ってから最初の「目覚め」みたいなものであって、端的に言えば異文化との交流だった。僕がそれまで知ってたカラオケなる物は、自分の順番が来たらおとなしく歌って、自分の番じゃなければ大体ぽけーっと人の歌を聴いたり聴かなかったりするだけのものだったのだが、そのカラオケは色々と違っていた。

まず、僕の同期が突然きゃりーぱみゅぱみゅの「にんじゃりばんばん」を入れたかと思ったら、その場で踊り始めた。歌いながら踊り始めた。おっ、と僕は思った。もしかして、そういうノリが許される世界なのか……? 次に、先輩が入れた「No Brand Girls」(ラブライブ!の曲の1つ)に合いの手が入り始めた。全員シラフなのに酔ってるかのような、多分ライブでやったら迷惑コールになるであろう合いの手の波がおき、おおっ、と思った。もしかしてヤバいところに足を突っ込んだか? しまいには、KさんがデスボイスでDir en grayの「詩踏み」を歌い出して、おおおっ、と思った。何、どこからその声出てんの……?

そう、知らないことだらけだった。カラオケって踊って良い場所なのか、とか、(これは気心が知れた仲だからだが)結構ふざけたコールを入れても良いのか、とか、人間ってヤバい声が出るのか、とか。しかも、そうしたカオスを全員が受け入れて、何をやってもしらけることがあり得ない場というのも、当時の僕からすると特殊だった。全員がありのまま、巧拙も陰陽も関係なく混じりあう空間、それが心地よかった。

それから、他の同期を誘ってカラオケに行ったり、先輩にカラオケへ連れてってもらったりする機会があった。その過程で、僕のカラオケでの歌い方は少しずつ変わり始めた。一番影響が大きかったのは、Kさんが「高音は出そうと思えばどこまでも出るよ」と言ったのを皮切りに、僕含めて同期の半分くらいがひたすら裏声の練習を始めたことだった。結果一人はホイッスルボイス(よく分からんが「裏声を更に裏返す音」なのだとか)を習得するに至ったり、そうならなかった者も最終的に女性音域がクリアに出るレベルまで音域が伸びたりした。その過程で皆元来の音域も綺麗に出せるようになったり、音の出し方が変わったりして、勝手に歌が上手くなるという不思議な現象が発生し、結果として当ブロックの僕世代の半分くらいがカラオケ中毒への道をひた走ることになった。

 

そして僕らの世代が上回になると、後輩たちを連れてカラオケに行くことが増えた。カラオケは死んでも行きたくねえ!っていう人も中にはいるのでそういうのはそっとしておくのだが、特に抵抗の無い子は必ず一度連れていってその子の好みを知る、というのが毎年新入生のやって来る春や秋の習慣になっている。おとなしい顔して実は滅茶苦茶ラップが上手い子、知っている曲がエロゲソングに偏っている子、普段は意識しないけど結構声質が渋くて素敵な子……その子の新たな一面を知れるという点で僕は結構重宝していたりする。

 

そして僕らは、趣味嗜好も愉快なほどにばらばらだ。まあ確かに一定時期のアニソンやボカロとかの知識は(多寡はあれど)それなりにある人が多いが、それも全員じゃないし、それ以外の部分は様々だったりする。最近の流行を追っかける奴、普段のテンションからは想像もできないくらいカッコいい声で福山雅治を歌う奴、発音よさげに洋楽歌う奴、誰も知らないようなゲームソングを可愛らしく歌う奴、特撮クラスタらしく仮面ライダーや戦隊もののOPを熱唱する奴、色々いる。歌われる曲の9割はお互いに知らん曲だ。

そうなると、僕らのカラオケはある種の「相互布教」の空間となる。「こいつがカラオケで歌ってたこの曲良いな」とか、そういうノリで色んな曲を知っていくわけだ。そうして新しい曲を習得して、自分の「好み」はどんどん増えていく。

僕が一番面白い布教のされ方をしたな、と思う例を挙げよう。同期入寮のとある子は一緒にカラオケに行くと必ずラブライブ!系列の曲を入れていたのだが、初期の頃、彼は曲を入れるだけ入れて一切歌わなかった。代わりに全力で振りコピの成果を披露せんかの如く踊っていたのだ。先に挙げた「にんじゃりばんばん」を踊ってた奴の比ではなく、それはもうキレッキレのガチダンスだった。歌えよ!と言っても彼は聞かず、僕自身も強制したって仕方ないしと思って彼を眺めていたのだが、ある時ふっと気が付くと何故か僕は一度もろくに聴いたことのないはずの「Snow halation」のサビが口ずさめるようになっていた。不思議なことだったが、カラオケのガイドメロディを聴いて覚えてしまっていたのだった(元々覚えやすいメロディなのもあると思うが)。そこから、彼が踊る度に僕が歌うという謎の相互関係が成立し、その過程でラブライブ!のアニメ(μ’sの方の1期と2期と劇場版)を全話視聴したり、ある程度の曲データを買って覚えたりという発展があった。

これの何が面白いと思うかって、僕は彼に「踊るから曲を覚えて」とか「アニメ見て」とか一言も言われていないのに、単に僕が「なんか曲だけ流れてて誰も歌わないの寂しくね?」と思ったのが始まりだったというところだ。彼は僕の心理など全く以って興味がないだろう(実際そういうタイプの人間だ)し、布教の意図なんて何一つなかった(むしろにわかファンが嫌いタイプなので自分から布教活動は絶対しないはず)に違いないのに、気が付いたら僕は曲を覚えてアニメ見てたし、彼に布教されたという認識がある。僕はそれまでラブライブ!に一切興味が無かった上、周囲で熱心にこの作品を推していたのは彼だけだったので、こうなったきっかけはどう考えても彼に違いないからだ。つまるところ、自分が楽しそうにしてるのが一番良い布教活動なんじゃないかと、彼を見てると思う。

最も力に溢れているのは、実は自覚がない人間なのだ。

 

閑話休題。

僕はそうやって、色んな人から色んな曲を、意識的にせよ無意識的にせよ教えられてきた。

人からCDを貸してもらって聴いた曲も、他人が歌っていたのを見て自分で興味を持って買った曲も、沢山ある。ふとそうやってこれまで覚えて来た曲を振り返ってみると、如何に他者の影響の大きいことか。自分から進んで、誰かに勧められたわけでも無く興味を持った曲というのは本当に数えるほどしかなく、誰かが「この曲良いよ」って言ってたり、誰かが本当に好きそうにしてる曲が、いつの間にか自分の好きな曲になっていたりすることの方が圧倒的に多い。

 

最近、そんなことを考えていると、ふと思うようになった。冒頭に述べた通り、音楽が心の隙間を埋める、または心の一部を形成するものだとするなら、僕はパッチワークをやっているようなものなのかもしれない、と。つまりは「他人から教えてもらった曲」という、色も形状も大きさも様々な美しい布を、不器用な手で針と糸を操り、僕の心の一部に縫い付ける。そうやって、少しずつ、少しずつ、僕の心を形にしていく。僕はそういう営みをやっているんじゃないか、と。

趣味も嗜好もてんでばらばらの人々から貰った布は本当に多様過ぎて、近づいてみると寒色系と暖色系が隣り合っていたり、時折布の大きさが急に違う場所があったり、ちぐはぐだ。でも離れてみると存外これはこれでありだなという気もする。良い悪いとかそういう話ではなく、まあそういう色合いの縫物もあるよね、というような感じ。

ともあれそうやって縫い上げた僕の心の一部分を、僕が見る。昔とは趣味がほんの少しずつ変わってきているけど、それでも色褪せた古い縫い跡を見ると、懐かしさに駆られて温かい気持ちになったり、或いは年をとって経験量が増えると、あの時分からなかったあの歌詞に込められた気持ちがなんとなく理解できてきたり、というようなこともある。自らの変化の証がそこにはある。ある意味、音楽が僕の心という不確かな存在を確定させてくれているような、確かに自分がそこに在ったのだということを感じさせてくれるというような、そんな気がする。逆に、まだ新しい縫い跡を見ると、この曲と僕とはこれからどんな思い出を刻んでいけるのだろうか、とワクワクする。いつか振り返って懐かしめる日が来るのかな、と思ったりもする。

そしてそこから、他者との関わりも自ずと見えてくる。擦り切れた縫い跡の裏に隠された、曲とセットになって思い出されるメモリー。それを見ていると、こんなに多くの人たちが僕を形作るきっかけをくれていたのだなあ、と感慨を覚えることもしばしば。ああ、この曲を教えてくれたアイツはこんな奴だった、アイツがあの歌を歌うときの感情の込め方は素敵だった、とかそういう感じだ。

人との出会いは音楽との出会いでもあるのだと、どこかそんなことを思ってしまう。

ごった煮のプレイリストに突っ込んだ新旧様々な曲を聴くたび、そうやって色んな思いが胸中に去来する。もしかすると僕は、時として僕自身を想うために音楽を聴いているのかもしれない。

 

心のパッチワークはまだまだ続く。死ぬまで、かどうかは分からないけど、少なくとも僕がこの寮を出て行くまでずっと続く行為だと思う。もしかするといつかはこの行為自体を「若さゆえ」と笑う日が来るのかもしれない。だがそれも含めて、これは僕にとってある種のイニシエーションなのだと感じる。自分の心を形作る儀式の一部なのだと。

今日も今日とて、僕は縫い針を持って曲を聴く。布を拾い集める。

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