エリクサー
俺は落日で静穏に染められた教室で目を覚ました。体内時計がこれ以上は眠ってたらヤバいぞと脳神経から警告されたので、ひとまず、気を引き締め、背すじをぐっと伸ばし、片方の瞼が重く感じたがもぬけの殻となっていたクラス全体を一巡にぼやける瞳で見渡す。
制汗剤の甘く、酸っぱい残香が鼻孔をくすぐって周りに人影や姿がないことをうっかり、用心深く確認してしまう。最近、気がついた。この癖は早く直した方が良いと行動後に、日々積み重ねて思う。
さっきまで体重を乗せられ、まだこころもち痺れている腕の時計に目をやって針を確認しても薄暗いと見えづらい。
面倒くさく体はダルいが、教室の照明を付けるようと鞄を背負って椅子から立ち上がった。
一度、起立すると心に踏ん切りが付いてそのまま電灯スイッチをスルーした。
下駄箱置き場まで直行すると、窓ガラスから青いブレザーの他校の生徒が、まだ霞んでいる視界に映った。
都内の平均より高い偏差値と生徒の個性を伸ばし尊重するアメリカンチックな校風をした賑やかで又聞きする分には飽きることがない、そんな私立高校。
「醒矢、ういーっす」
その高校に現在進行で通ってる4つ年上の先輩、誘。
高校は中学に比べて細かい校則が無いのだろう。もしくは、誘の通ってる高校が校風からしてフリーダムなのか?長身の彼がオレンジブラウン(クラスの女が言うにはテコラッタ色)に染めた頭髪をしていることから察する。
「イザナ…ってば、俺のことずっとここで、待っていたのか?」
「まぁ…本音を言うと少し、待ちくたびれたな」
「わざわざ、中学までお出迎えせずに、分かりやすく妹のツグミと待っててくれても良かったのに…」
「だって、拾って来たからには世話しないとね」
「……」
「ウソ、ウソ、寒い冗談をかましただけだってば!…ちょっと、自分が寂しがり屋さんみたいで心配でさ…」
誘が慌てふためき、こちらを震える指を差しながら薔薇色の唇を使い、必死に弁解する。誘惑の文字が名前にあるのに、誘はカッコつけるのが下手くそだ。
その様子が滑稽で可笑しくて、俺は自分のややひび割れた下唇を少しだけ噛み湿す。
「そりゃ、ありがとう」
「どういたしまして、今日の晩飯は私じゃなくてツグミが担当だからさ…。早歩きで家に帰ろうぜ」
誘は微笑みを浮かべ、首を若干傾けて言った。
「ツグミちゃんの美味しい料理を冷ましちゃ悪いもんな」
と俺も同調する。
学校の帰り道を手から伝わる体温と並列して歩く。味っ気のない風が、強く吹いて、口を開くと喉の奥まですっかり乾きを覚え、…無性に水を飲みたい。
大体…二日前くらいだな、俺は貯金箱と勉強道具と詰められるだけの着替えに、そして、小さい箱をボストンバッグに詰め込み家出を決行した。
雨を凌げる屋根さえあれば、公園で野宿でもイケる。大丈夫だ。と思ってたから…
そんなある日、ツグミに拾われて今の状況に至る。
元々、ふたりはきっと、恐らくは知らないだろうけど幼少期から俺と縁がある。
俺は、がらんどうだった。先天的に自分が息をしてる実感が生まれず、漠然と何故そうなっているのか…を「偉くなる」ことだけを考えて紛らわせていた。
その頃に、ドーパントによって謎めいた死を遂げた両親の墓参りをするふたりの兄妹の姿を見掛け、意味もなく立ち尽くした。
…美しかった。くすんだ墓と不釣り合いの生命を感じさせる瑞々しい肌、泣き腫らし淡桃色の部位までも好ましい。
この瞬間を写真に撮っておかなければイケないと思った。勿論、写真は売ったりはしないで今も大切に保存している。
そんな想い出深い兄妹の家にお邪魔して同居人になれる。なんて絶対、前の自分には予想出来なかった。人生って不思議。
「ただいま!緒珠」
(おかえりなさい)
今日は、久しぶりに妹のツグミに会えることが嬉しくて、嬉しくて、仕事中から思わず過去の記憶を反芻していた。
勤務中になんて悪い大人だよな。
兄貴に怒られると喉が渇くからその前に反省会をしておこう。
「かわいいよ。緒珠」
(ありがとう…お兄ちゃん!)
妹は、無表情でも可愛い明るい声音が喉から出せる特技を持っている。