エリアゼロ、独白
息をするのはいつだって悲しみだった。
母を恨んだことはない。父を憎んだことはない。世界を呪ったことはない。
ずっと。ずっと。
悲しみだけが彼に寄り添いともにあった。
心の奥底に隠したまっくろな箱に、悲しみをひとつぽいと放り込んで生きてきた。恨むことも憎むことも呪うことも、およそ人としてまっとうな感情ではあったが、少年が抱えて生きるには重すぎた。そのくせ、負の感情の一つでもないと少年は生きる気がなかったから。ぎりぎり抱えても生きられる程度の悲しみが、その箱には入っていた。
生存と死亡を少年が秤に乗せたことはない。どちらに傾くか、なんてことは少年の本能がなにより知っていた。生物としての生存本能が天秤に乗せることを選ばせなかった。
変えた口調は自身を守るためのもの。本来のものとは違ってもよかった。守るべき自分を隠せたら、それで。
シンオウを旅した足で少年はパルデアの地を踏んだ。かつて「シンオウさま」と呼ばれていた二匹のポケモンに会うことはできたが、ヒスイに戻ることは叶わなかったからだ。タイムマシンについて研究しているものがいる……そういう噂を聞いて、少年はオレンジアカデミーに転入した。どんなことをしてでも、ヒスイに戻ると決めていた。
そこで、友人を得た。学校というものに通ったことがない少年には全てが真新しく、新鮮で、それには学友という存在も含まれていた。いずれ必ずわかれると知りながら強い結びつきをもってしまったことを誰が責められようか。渇望、していたわけではなくとも少年の未成熟な心の一ピースだった。得難い冒険をした。頼まれごとから始まったそれらがいつしか少年自身が望むことになっていた。元より頼まれるのは嫌いではない。そこに各々の複雑な事情が絡めばなおさら断るという選択肢は彼にはなかった。関わらなければよかった、と今までの少年なら思っていた。いや、そんなことを思う事態になることはなかった。であれば退化か。劣化か。少年は弱くなったのか。──そうではない、と少年は浮かび上がった考えを否定する。弱くなったことは否定できないかもしれないが、誰かを思う余裕ができたことを、成長の対義語とは思いたくなかった。
どうにもならないことを諦めていた。どうせ、と流していれば傷つくことはなかったから。それを覆すことができたのは、個人として扱われた数年とヒスイの経験のおかげだった。燃え盛る炎のような恋だった。穏やかにしみいる愛だった。受け入れてもらえた奇跡。手の内に飛び込んできた幸運。手放すことは、少年には到底できそうもない。
「会いたい、なあ」
心を預けた少女に逢いたかった。誰より恋しかった。あの笑顔が見たい。自分に向けて笑う顔が、ヒスイの大地を見て誇らしげに、満ち足りたように笑う顔が、グレイシアと長としてではなく少女として無邪気に笑う顔が見たかった。
必ず戻る、と思ってはいても、それを伝えるすべはない。向こうからすれば音信不通でいきなり消えた存在だ。少なからず不安もある。喪失感は今も抱えていて、不意に寂しさが襲ってくる。少年にとって少女は心臓であり、太陽であり、月だった。ヒスイと繋がるものがあると知らず、三人の親友に少年は素直に思いを吐露している。
生存と死亡を少年は天秤にかけない。どちらに傾くかわかっていることだから。悲しみよりよほど強い感情が、まっくろな箱を別の色に染め上げてしまったから。