エピローグ・糸師凛の志望動機
『兄ちゃん、頑張る。』
そう書かれた最後のページを読み終えた後、暫くその文字を眺めることしかできなかった。
身体が石みたいに固まって、動けなかった。日記のページを読み進めて行く内に、次第に殴り書きの様だったりぐちゃぐちゃだったり、筆圧が弱くなったりしていた兄ちゃんの字。最後のページのそれは、しっかりと気合いを入れて書いたかのような存在感があった。
ようやく腕が動かせるようになってきたから、手元にある日記を閉じて既に床に置いてある古い日記と並べる。
一つはボロボロになって、表紙に拙い字で日記と書かれているもの。
もう一つは先程までページを開いていた、比較的紙が破れたりしていないもの。こっちの表紙の字は拙くない。
落ち着かない気分を誤魔化す様に、前髪をかき上げて溜め息をつく。
はぁ。と吐き出した音が、静かなこの部屋には厭に響いた。日記を読み進めていく内に耐えきれず戻してしまったものが入っているポリ袋の口を結ぶ。つんとした臭いが気になったからだ。
気分が悪かった。先程かなり戻してしまったのもあるし、純粋にこの日記を読んで良い気はしなかったから。
気分が悪くなるものだと分かっていて、俺はこの日記を読んだ。読まなくてはいけないものだと、直感的に思ったから。きっと、これを読まないと……兄ちゃんの本当の気持ちは分からない気がしたから。
隠されていたぼろぼろのノートに書かれていたのは、兄ちゃんの苦しみと、痛みと、悲しみと……そんなものばかりで。
『大丈夫だからな』
兄ちゃんがよく、あの家で暮らすようになってから言っていた言葉。俺が不安な顔をする度に。寂しそうに笑って、そう言ってた。
でも、あのノートには。
“いたい”
“くるしい”
“きもちわるい” …………
“たすけて”
そう、ぐちゃぐちゃになった拙い字で書き殴られていた。
「全然、大丈夫なんかじゃ……ない。なかったんだ」
ぽつんと呟いた独り言から、あの頃の記憶が頭の中でぐるぐると反芻する。
料理を始めたての頃、切り傷でぼろぼろになっていた兄ちゃんの手。
転んだだけ、とガーゼで誤魔化していた片頬の傷。
何度も何度もトイレで胃の中のものを戻していた後ろ姿。
夜更かししただけだと、目の下にできた隈をこする指先。
それらを全て『大丈夫』で片付ける兄ちゃんが、俺は胸がはち切れて血が吹き出しそうなほど心配だった。
全部、強がりだった。嘘だった。俺を安心させるための、優しい嘘。
ぎり、と食い縛った歯が音を立てる。
残酷な程、優しいそれは……いつしか兄ちゃんの本当の気持ちまで覆い隠していたんだ。
ある時、兄ちゃんは作り上げた貼りつけたような笑顔で、『大丈夫』だと言うようになった。
俺はそれが恐ろしくて堪らなくて、初めてその顔を見た時に暫く立ち尽くしていたのを覚えている。
とうとう兄ちゃんが心の髄まで壊れてしまったみたいで、怖かった。ホラー映画で見た不気味な人形と兄ちゃんの顔が重なって、怖くて仕方がなかった。
でも、あのノートを読んで分かった。
兄ちゃんは……俺の為にああなったんだ。壊れてしまったのは本当だけれども、その行動源には優しさがあった。
ノートに書いてあることを未だ、兄ちゃんが守っているなら。
俺が心の底から笑えるようになるまで、兄ちゃんはあの仮面を被り続けることになる。
その下にある表情を失くした顔を隠しながら。
「兄ちゃん……」
溢れそうになる涙をぐっと堪える。ずっと兄ちゃんに守られてきた俺に泣く資格なんて無い。冬に兄ちゃんがずぶ濡れにされて家を締め出されていた中、ぬくぬくと暖かいベッドの中で眠っていたような俺に、甘ったれたガキみたいに泣く権利なんて必要ない。
きっと、兄ちゃんは俺が笑うまでは昔のような笑顔を見せる気はないのだろう。
兄ちゃんが泣き叫んでいた中、何も知らず笑っていたような俺が、今さら笑って良い筈がない。
でも。
兄ちゃんには、繕わない表情で笑ってほしかった。
スペインへ旅立つ時。見送る俺に見せてくれた穏やかな笑顔は、嘘なんかじゃない。
押し殺して沈めて、凍らせてしまっただけで。
まだ、あの頃の兄ちゃんは……今の兄ちゃんの中にも残っている。
サッカーをしている時は、時々昔の兄ちゃんの顔を見せてくれたこともあった。
サッカーでなら、兄ちゃんは本当の自分を出すことができる。
そう、信じたい。
信じて、突っ走って、二人で世界一になる。
あの頃からの夢を叶えたら……兄ちゃんがまた、心から笑ってくれると思いたいから。
いや、違う。
思いたいじゃない。
笑顔にさせるんだ。
幸せにするんだ。
守るんだ。
もう貼り付けた笑顔なんて作らなくていいって。
俺はもう、兄ちゃんが安心させないといけない怯えている弱い弟なんかじゃないって、証明するために。
俺はサッカーをする。きっと、これぐらいしかあの頃の兄ちゃんに報いることはできないから。
兄ちゃんは、命懸けで俺を守ってくれた。
だから、俺も命懸けで兄ちゃんを助ける。
兄ちゃんに守られる弟じゃなくて、兄ちゃんを守るヒーローになる。
俺が人生を掛けてサッカーをする理由は、それでいい。
たとえ、その果てに身体が壊れても、サッカーに捧げた人生がぐちゃぐちゃになってもいい。
涙が滲んだ視界を拭って、トロフィーと共に棚に飾られた写真の中の兄ちゃんを見据える。
“世界一になって、本当の兄ちゃんを取り戻す”
「頑張るから、俺」
だから……ちゃんと見ててね、兄ちゃん。