イタミ
痛み。それは忌避すべきものでありながら、時にそれだけに留まらない意味を持つ。
特に、おれにとっては。
きっかけは大したことではなかった。不注意が原因でウマホを大樹のうろに落とし、たまたまボタンが押されてしまったのか、電源が切れただけのこと。
拾い上げて再起動しても即座に立ち上がったし、運のいいことに画面に傷などもなかった。その後は胸を撫で下ろし、親友たちとカフェテリアに向かい、他愛のない会話をして。チャイムが鳴る頃には、トレーナー室にいた。
『それ』に気づいたのは、業務が長引いてしまい申し訳ないが少し遅れる、というトレーナーさんからの連絡に返答した後だった。ホーム画面、親友たちと撮った笑顔の写真の上に表示された丸いアプリのアイコンの中に、見慣れないものがあった。
黒い背景にショッキングピンクの線で描かれた、デフォルメ化された瞳のようなアイコン。下に表示されたアプリ名は、文字化けしていて読むことができない。
見るからに怪しい。危険だ。詳しい人物か、トレーナーさんに相談してから消してしまおう。そう意識していたはずなのに、震えるおれの指は、何故かピンクのアイコンを押してしまっていた。
アプリが起動され、画面上部に『催眠アプリ』、中央にはアイコンのものと似た形の瞳が、下部に『ON/OFF』というスイッチのような表示がされる。
嫌な予感が背筋を駆け上がり、危険だという意識上の警告が脳内に響き渡るが、吸い込まれるかのように無機質な瞳から目を背けることはできなかった。それどころか、瞳を眺めていると心が落ち着くようでさえあり、次第に脳内の危機感は薄れていった。
おれはいつの間にか、そのアプリをどう使えばいいのか、どんな効果があるのかを『知っていた』。説明書きも何も無いのに、画面上の瞳を見るだけで、わかっていた。
それと同時に、おれの中でなにかが────欲望が、雨雲のように膨れ上がっていた。心の奥深くに潜んでいた、暗く、滅多に口にすべきでもないような、歪でくろぐろとした欲望が。
「お疲れさまです、トレーナーさん」かすかに響いていた軽快な足音を捉えていたため、トレーナーさんがドアを開くと同時におれは言った。トレーナーさんは息を整えながら、遅れてすまないと頭を下げ、少し不思議そうな表情を浮かべてから微笑んだ。
「嬉しそうだね、何か良いことでもあった?」
指摘されて初めて、頬が緩んでいたことに気がついた。だが、そんなことはどうでもよかった。これからトレーナーさんは、そんなことも気にしなくなるのだから。むしろ、好都合だった。
「はい。さっきカフェテリアでヘリオス達に見せてもらった写真がとても素敵で、つい思い出してしまっていたんです。ほら、これ」
「どれどれ……」
腰掛けていた椅子から立ち上がり、指先をアルバムで写真を選ぶように動かし、催眠スイッチを『ON』にする。正面から歩いてきたトレーナーさんの(当然だが)無警戒な姿に心のどこかが抵抗を覚えそうになったが、もう遅かった。
画面を見せると、トレーナーさんは一瞬訝しげに眉をひそめたが、即座に表情筋どころか顔面の全ての筋肉の力が抜けたかのように表情を無くした。瞳は焦点が合っておらず、寝て起きてすぐのようにも見えた。
操り人形のようになったトレーナーさんとは対照的に胸が高鳴り、鼓動も早まるのを感じる。だが、逸る気持ちを抑えながら、最初に下す『命令』を冷静に考える。催眠にかかったように演技している可能性は(限りなく低いが)ゼロではないだろうし、その場合にこの欲望をぶち撒けるのはその後の関係のことを考えても避けたい。
あまり過激な内容の命令をしても同じことだし、かといってトレーナーさんなら(演技をやめてでも)拒否するものでなければいけない。少し悩み、ふと思いつく。
「……トレーナーさん、これ、おれのリップクリームです。使ってください」
ポケットの小さなリップクリームを差し出すと、トレーナーさんは無言でそれを受け取り、なんの躊躇いもなく自らの唇に塗り始めた。もうやめていいです、と命令を解きつつ、確信を得たことで自身の昂りが高まっていくのがわかった。
普段のトレーナーさんなら、担当ウマ娘であるおれとの信頼関係に問題が生じかねない行動はまずしない。正気を保っている時にこんなことを言われたら、演技をやめてでも静止してくるだろう。そうでない現実が、催眠の効力を物語っていた。
息を一つ吐き、次の命令を口にする。
「トレーナーさん、抱きしめてください」
歩み寄りながらそう言うと、トレーナーさんも両手を広げながらこちらに歩いてきた。そして、おれを迎え入れるように、包み込むように、脇の下から腕を入れて抱きしめてくれた。こちらも首に腕を回し、抱きしめ合う形になる。
隙間なく合わせた胸からシャツ越しに伝わってくる、薄く筋肉の付いた胸板の硬さ。部屋に入ってくる前に使ったのか、鼻をくすぐる制汗シートの芳香とわずかな汗のにおい。そして、早鐘を打つおれとは真逆に、ゆっくりとした心臓の鼓動。
全身から伝わる安心と幸福が、罪悪感と欲求を加速させる。黒く、異常とも言えるようなモノが。
「トレーナーさん……強く抱きしめて下さい……もっと強く……その、まま……いいって、言うまで……」
トレーナーさんは指示に従い、格闘家がする絞め技のようにギリギリと強く抱きしめてきた。肋骨や背骨、その奥の肺などの内臓に痛みと圧迫感が走る。
あの時と同じだ。痛み。苦しさ。肺から空気が漏れ、視界がぼやけていく。首に掛けた手から力が緩み、だらんと手が垂れ下がる。死の予感がじわじわと鎌首をもたげる中、苦痛に混じって、悪魔のような快感が体を貫く。
普段、おれを痛みから遠ざけるために、細心の注意を払ってくれているトレーナーさんに。まるで壊れ物を扱うかのように、丁寧におれに接してくれているトレーナーさんに。おれの命の灯火を、空虚な瞳で消させようとしている。
高潔な尊厳を踏み躙る感覚と、全身を苛む苦痛に酔いしれる。狂気的で、異常にも程がある。しかし、それも『おれ』だ。
友人と他愛のない談笑をしている学生も、今までお世話になった人にレースで恩返しをしようとする競技者も、誰にも明かせない狂気を内在させた異常者も、全て同じ『おれ』だ。
「もう……い……い……」
朦朧とする意識の中でなんとか声を絞り出すと、体にかかっていた力がふっと抜け、そのままべたんと床に倒れ込んだ。咳き込みながら呼吸を整え、涙の浮かんだ眼で見上げると、トレーナーさんは即座に直立不動の体勢になっていた。
「…………あ、は」
痛くて、苦しくて、辛くて堪らないのに。おれは、涎と涙を垂らしながら、笑っていた。
催眠は、まだ解けていないのだから。