アラマキ×ヒモ(性別不詳)SS
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肌寒さで目を覚ました。
肌がすべらかなシーツに擦れる。目をうっすらと開けて、布団と、その向こう側に続く畳を眺める。い草の香りとはほど遠く、むしろ男の汗や芥なんかが染み込んでいるかのように畳は日焼けしていた。……腹の据わりが悪い。
部屋で起きるということに、まだ慣れていなかった。屋根の下で眠ることに馴染んでいない。
物心ついたときから家も家族もなかった。周りのやや年嵩の少年や彼らが倣う大人たちの真似をして、路地裏や、風雨が厳しい日には橋の下あるいは橋に造りつけられた飾りのアルコーブでばかり寝てきた。だから起床するときとは――眠気に不快さが勝ったときで、それは砂石の硬さに耐えかねた身体をそこから逃がすための行為だった。
いまが「大海賊時代」と呼ばれる時代であることは、酒場や宿屋に行けば耳にする。
毎日の暮らしが苦しいからと海に出て生き抜けるほどの力が自分にあるとは、パンの取り合いになったら殴り負けてばかりきたから思えなかった。だから――日々を過ごす金や食料のために、夜遅くまで目につく範囲にある仕事をし、ドブさらいやゴミ山さらいといったことを日が出ていないうちからした。働き者だったわけでも世界政府が教科書に載せるような倫理観が備わっていたわけでも――そもそも学校には通えていない――なく、非力な者が生きるためにそうした暮らしをしていた。命が絶たれることがあればいっそ楽になれるのかもしれないと思うこともあったが――そこに到るまでには計り知れない苦しみがあるような気がして、ただ、苦痛や不快さから逃げるために、ひたすら生きた。
そうした生活を長く続けてきたものだから布団には慣れないのだ。垢まみれじゃない、清潔なシーツとやわらかな布団で自分が寝られるとは思っていなかった。肌寒さに気が止まるのはほかが快適であることの証左でもある。……春島の早朝は夏期に差しかかっていてもやや寒い。
頭を動かすとこちらが唯一ここに持ち込んだ女羽織を羽織った男がいた。火をつけたばかりの煙草を手にしている。染めが鮮やかな羽織は色街に立っていたときに拾ったものだ。客と逃げた女郎が着ていたものだという。桃色に染められた地に草花が描き込まれたそれはあきらかに安物で、趣味ではなかったが、元が襤褸のような洋装しか持たなかったから冬場などは重宝した。
それをいま、裸の上に羽織って出窓から外を見下ろしている男こそがこの家の持ち主であり、布団の上に身体を起こした者を飼った人間だった。――奴隷にしてもらったほうが楽なんじゃないかとドブさらいで得た1ベリーに満たない銅貨すら腕っ節が強いだけの男に奪われたときには地面を強く睨み付けながら思い詰めたけれど、
奴隷といった形ではなく、飼われることがあるとは思わなかった。
この人はこの家の管理を自分に任せた。だから自分は犬のようだものだ。
「返してください」
「ああ、悪ィ。無精した」
「何も……着てないから。普段から……」
この家に元から置いてあった――この人が保管したいと思うほどの相手の服が着られないのなら、自分の服を置いておいたらいいのに、と。思うけれど、飼い主に聞かれないことや飼い主が望まないことを犬は発言しない。そのためにいまも覗いている、左半身に入れられた刺青の意図を自分から訊ねるつもりはなかった。――「心中」。色街ではよく聞いた言葉だ。
犬が見たことがないほどの金を持っているような身分であるはずなのに男はいつも軽装だった。それで犬の唯一の持ち物を取るのだからいただけない。
この家の窓からは何も見えない。正確には――男がその特殊な能力で生やした大木がカーテンの代わりを務めて家にやわらかく差し掛けた木漏れ日のみが見える。花を咲かせてやってた、と男は言った。
絵物語に出てくる神様みたいなことをするんだなとその能力をはじめて見たときに思った。元いたところで神様(天竜人とも言うらしい)は気まぐれでとんでもないことをするという陰口めいた噂を耳にしたことがあったから、その知識に頼ってもしかして天竜人かと訊ねたけれど、それを聞いた男はあきらかな不快を一瞬その顔に浮かべて、それから「おれはそんな大層な身分じゃない」と彼の豊かな髪を大きな手でぐしゃぐしゃとかき混ぜた。悪魔の実の能力だと説明されたからそれじゃあ悪魔なのかと聞いたらそっちのほうがまだマシだと言われたので天竜人という神様をこの人はよほど嫌っているんだなと、犬は理解した。
男はアラマキと名乗った。海軍という組織に所属していてかなり急な昇進をしているらしい。昇進は、本人が望んだことかどうかはその口ぶりからは伺えない。おそらく男は、仕事について詳しいことを犬に知られることを望んでいない。ただ――この家にくるときは、怪我や病気の気配はなくともかなり深いところが疲れているようで、その慰みこそが自分に期待された――自分がここに置いてもらえている理由なのだろうと、覚っているからこそ、男が気まぐれにこの家をおとなったときは、犬は何も聞かずに抱きしめてやる。
布団の上で、温かに脈打つその背中を、頑健な首から頭にかけてしっかりと抱いて、音を上げ、息を失う点に放り上げられ、それから虚ろができてしまったはだかをはだかの彼に寄せて眠る。
男の来訪は間が一週間もないときもあれば数ヶ月まったく姿を見せないこともある。暇つぶしと、無知のおそろしさを知った犬は生存するための勉強を兼ねて新聞を、子供向けの辞典を引きながら読んでいるから、海軍という組織がとても大きいことやアラマキがそこで大将を務めていることや天竜人とは偉い人間を指すことを学んでいったが、男にそういった面を見せることは避けている。
自分は非力だ。男のように特別な力をもたない人間にすら殴り合いで負ける。そんな自分をこの家に置く男が自分に期待していることは――決して大それたことではない。
この家にあるものをきちんと管理すること。そして、男の事情を知らずとも彼の生に寄り添うこと。
そのふたつさえ守ったら布団の上で眠ることができる。明日は何を食べようかな? と悩むこともできる。ドブさらいやゴミ山さらいのほかにも孤独にやった仕事で得たいくらかの銅貨を奪われて石畳の上で寝ていた経験があるから、男が育んだ森にあたりを囲まれた島に閉じ込められるくらいは苦にならない。
「温泉がこの近くにある島で出たんだと」
「温泉……?」
「いったことねェだろ。連れてってやるよ」
煙草を消し、体温のある声で男は言う。こちらに羽織を差し出したあとでその手は窓の外に垂らされた。おそらくはそのモノスゴイ能力を、一階にある酒蔵へ触手を伸ばして酒を飲むというモノグサなことに使っているのだろう。
「温泉街は、色街の色が濃いところですか」
そうではなかったら自分が持っている服はボロの洋装も女羽織も浮いてしまう。自分一人で歩くぶんには正直なところ一切気にかからない。が、男に恥をかかせたくなかった。
「そりゃ、そういう店もなくはないだろうけど。まァ、ついたら浴衣買ってやるよ。それなら浮かねェだろ」
「――、」
犬の故郷に浴衣で外を歩いているものはなかった。犬の洋装は最下層で営む古着屋が捨てたゴミから盗んで着ていたものだから、そこで暮らしている人間は全員が洋装で、羽織なんかを着ているのは春をひさぐ者だけだった。新聞でも和装の人間はそう見ない。だから――たぶん、浴衣はその温泉がある島の外で着るにはあまり相応しくないものなのだろう。
この家かその土地で着ることしか想定されていない服装ばかりが持ち物に増えていく。
けれども男が時折こうして連れ出すところ以外に出かける予定は犬にはないから、そうした一切合切を承知で犬は「ありがとうございます」と応じ、伸ばされた手に頬をすり寄せた。頬を撫でられると、出会ったばかりのころはその筋張った男の指で直接歯をなぞられているような感触を口内に覚えたのだ。頬の肉に厚みが出たのだと思う。痩けていないせいで、昔のようにはその指を直に感じられない。
「健康的になってきたじゃねェか」
らはは。機嫌良く笑う男の、触れている手から感じる根っこのやさしさに犬は意識を沿わせた。