アヤベさんにそっくりな♀アヤトレが闇夜に星を見失う話

アヤベさんにそっくりな♀アヤトレが闇夜に星を見失う話



布団から飛び出して、トイレに駆け込んで。

この体から、怖気の源をすべて吐き出したかった。

叶うのならば、この身から生まれる全ての害意を抉り出したかった。

総身を引き裂いて、この浅ましい願望を白日の元で焼き払いたかった。

だけれど、いくら吐き出そうとしても、悪臭を放つ夕飯だったもの以外には、備え付けの便器に垂れ流されるのは、汚らしい黄色の胃液だけで。


「ごめんなさい…ごめんなさい、アヤベさん…!」


白々しい、中身の伴わない謝罪の嘯きが、息の整わない私の喉で不快な音を立てた。


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「……褒めてくれるって、思う?」

「たくさん走って、たくさん勝ったら、……そうしていつか、あの子と会えたら」

「その時は、私の事」

「褒めて、くれるかな――?」


それに、大きくうなずいて答えた私の、目尻からこぼれた涙を慌ててぬぐう姿を見て。

真昼の光の中で、少しおかしそうに、笑う彼女を。

私にそっくりな顔で笑う彼女を。

思った通り、誰よりもきれいな、私の、すでにこの世に居ない、双子の姉にそっくりな顔で笑う彼女を。


『ようやく、姉のように笑ってくれた』と喜んでいた自分に気づいたとき。

なぜ『笑ったら姉に似ているな』ではないのか理解してしまったとき。

とうの昔に、振り切ったと思っていた、双子の姉への思いが、己の中で悍ましい怪物と化して、機会をうかがっていた事に気が付いたとき。

全てが静かに、音もたてずに砕け散った。


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便器に突っ伏しながら、勝手に流れる涙をぬぐい、荒く浅い息を吐き続けて――大人としてやるべきことを考える。


駄目だ。駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ。

こんな人間が、彼女を、アドマイヤベガを導いて――いや、傍にいていいわけがない。

勝手についていく事など許されるわけがない。

支えるなどと、何様のつもりだ。


自覚があるならば節制も叶おう。悪意があるなら更生も叶おう。

だが、無意識ならば?

私はいままで、教育者という立場を利用して、何回彼女を死んだ姉に仕立て上げようとしてきたのだ?

たかだか容姿が偶然似ているだけの、縁もゆかりもない、まだ学生の、ウマ娘の、不安定で、柔らかな心を思い通りに整形しようと?

そして私はこの後、何回彼女に死んだ姉を求めようとするのだ?


わからない――わからないことが悍ましい。

そして、怖い。あの輝く星を、自分が穢してしまったかもしれない事実が、何よりも怖くて、震えが止まらない。

これまでアドマイヤベガの為にしてきたと確信できた事、成功したこと、失敗してきたことの全てが信じられない。

私のして来た事すべてが、うすっぺらな善意で包まれた、傲慢さと身勝手さの表れとしか思えない。

そして、私に、もし良識というものが残されているのなら。

私は、立場を利用して、彼女の人格を、静かに踏みにじっていたかもしれない事を絶対に許さない。


「今すぐに、たづなさんに連絡して、専属トレーナー契約を解消して、いや、生ぬるい、もっと根本的な解決を――」


もはや、一刻の猶予もない。許されるわけがない。この不義に、速やかな断罪を。


『良いの?』


心の中で、ふいに何かが囁く。


『本当に、良いの?』


いいに決まっている。


『トゥインクルシリーズの最初の三年間は、ウマ娘にとって、大切な時間なんでしょ?』


だから、彼女の大切な時間から、重大な汚点を今すぐに取り除こうとしている。


『専属トレーナーの交代は、慣れ親しんだトレーナーの交代はウマ娘にも少なからず負担を与えるんでしょ?

ようやく新しい道を歩き出したばかりなのに、その邪魔をしちゃうの?』


私が傍に居る方が、よほど彼女の人生にとって長期的な害になるだろう。

選抜レースの季節も終わり、この時期に手の空いているトレーナーはほぼいないが、アドマイヤベガほどの実績があるならば、かならず


『せっかく、トプロさんやオペラオーさん、ドトウさんと心から全力で競えるのに、その機会をあなたが駄目にするの?』


それは。


『お互いの事を何も知らない誰かの力を借りて、走れるの?』


それは――


私の身勝手な願望が、誰かの声を借りて、私を誤魔化そうとしている。

いや、これは幻聴だ。意識が朦朧とする。耳鳴りがする。指先のしびれ。痙攣。過剰な恐怖。

頭の片隅で、過呼吸の症状だ、と冷静な自分が診断を下す。


『……の三年目を、最高の年にしてあげてね』


できるのは、あなただけなんだから。

止まらない幻の声を無視して、無理やり呼吸を整える。

だめだ。意識が途切れる。


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目が覚めると、私は冷たいトイレで倒れていた。

体は冷え切っていて、筋肉は硬直しきっていて、頭の芯は重く、喉はかさかさで、口内は胃液の味が残っていて、気分は最悪だった。

当たり前だ。屋内で全館暖房とはいえ流石に11月下旬でトイレともなれば冷える。

だが、…恐らく、ショックと過呼吸で錯乱して、幻聴まで聞いていたと思しき昨晩に比べれば、幾分か冷静に物事は考えられる。


確認した部屋の時計は、早朝を示していた。

アヤベさんの朝練には、まだ余裕がある。

冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出して、口をゆすぎながら考える。


私に…私に出来ること。

妹さんの…名残を失って、だけど、ようやく前を向いて歩けるようになったアヤベさん。

きっと、これから彼女は沢山のレースを走り、勝って、負けて、泣いて、笑っていく。

彼女自身の望みの為に。彼女のライバルとともに。

だから、私に出来る贖罪は、彼女の三年目を、ようやく訪れた彼女だけのトゥインクルシリーズを、彼女の望みを、全霊をもって支える事。

自分に余計な事を考える余地を与えるな。

静かに行われてしまった非道に対する、罪悪感に焼かれる事など、彼女の未来を想えばどうという事もない。

ただひたすら、彼女という星を輝かせるための装置になれ。

そして、この三年目を走り切った最後に、彼女を笑顔で送り出して、彼女の前から消えることが、私に許された全てだ。

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