アヤベさんにそっくりな♀アヤトレが太陽を見上げる話
トレーナー室へ向かう階段を上っている最中、踊り場をぐるっと回って階上の窓から差し込む光を目に浴びた瞬間。
唐突に眩暈が来て、視界が形容しがたい色に染まりはじめた。
とっさに壁に手をつく。
全身から力が抜けていく。平衡感覚が完全に失われる前に、壁に体を預けてずるずるとしゃがみこむ。
冷えた壁が、気持ちいい。眩暈、頭痛、浅い息、耳鳴り。睡眠不足からくる鉄分不足が遠因の貧血――なんて、わかり切った診断。
対処方法は簡単だ。姿勢を低くして、心肺への負担を減らしながら症状が落ち着くまで深呼吸しながら不快感を我慢すればいい。
根本的な解決は――少なくとも今年中は無理だろう。少しでも深い眠りにつけば、アヤベさんに、詰られる夢ばかりで。
相応しい罰とはいえ、アヤベさんのトレーニング管理に支障がでてはいけない以上、睡眠導入剤で無理やり体だけでも休める毎日だ。
幸か不幸か、今は放課後。ほとんどの生徒や教師はグラウンドや視聴覚室でトレーニング中。
遠くからにぎやかな気配はするものの、この時間帯に校舎内の人通りは殆どなく、この姿を見る者はなく、余計な心配はかけないはずだったが。
顔にかかっていた日差しの熱が薄れたことで、誰かに見降ろされていることに気が付いた。
「大丈夫かい、アヤベさんのトレーナーさん」
「大丈夫、ありがとう…オペラオーさん。ちょっと貧血で眩暈がしただけ」
聞きなれた声に返事をしながら、見上げると、やはり彼女が居た。
テイエムオペラオー。
夏合宿前の、宝塚記念で、アヤベさんを打ち破り、京都記念、阪神大賞典、春の盾に続き今年四連勝目を上げた、ウマ娘。
ジャージ姿で晩夏の光を背負った彼女の表情は、よく見えなかったが、声音と声量からして心配してくれている様だった。
「あはは、年かな」
「いや、少し座っていた方が良いと思う」
「…それじゃあ、お言葉に甘えて」
用意していた言い訳で誤魔化しながら、立ち上がろうとしたのを制されて。そのまま、階段に座り込み、壁に背を預けて彼女を見上げる。
こちらが姿勢を緩めたのを見てから、彼女は口を開いた。
「なにか、助けが必要かい?ボクも忙しいから、大したことは出来ないけれど」
一瞬、どきりとする。
いつも自信満々の笑みを浮かべているその瞳が、いつになく真剣な光を宿しているように見えて。
こちらの心の底を探っているように感じたから。
あるいは、それは私の罪悪感と、陰影が見せる幻影だったかもしれないけれど。
「…いいえ、本当に大丈夫。少しくらっとしただけだから」
「美しいボクの助けを拒むなんて、貴女らしいね」
「ふふ、どういう意味?」
「いやいや、トレーナーさんはアヤベさんとそっくりだから」
不意打ちで、息が詰まりそうになる。顔に出ていないだろうか。声に出ていないだろうか。
「やめて、あの子は…そういうの、嫌がるから。それに、その…ほら、私も女の子なので、ね?」
「おおっと、それは…本当に大丈夫かな?」
水くらい、いくらでも持ってくるよ?なんなら保健室に行くかい?と、奥の手に対して返された言葉に、少し休めば大丈夫、と安心させた。
そして、しばらく、沈黙。遠くから、ホイッスルの音や、掛け声なんかがしばらく響いて。
ちらり、と彼女は左右の廊下を見やってから。
「ボクはね、トレーナーさん。貴女にとても感謝しているんだ」
空白を上書きするように、滔々と彼女は語り始めた。
菊花賞のあと、アヤベさんが酷く落ち込んでいた時も。
その後、ボクの突然の申し出に嫌な顔一つせず、砂浜での一夜に付き添ってくれたことも。いや、その前からずっと。
アヤベさんとトプロさんはね。ボクの望みの為に走り続けていてほしかったのだ、と。
正直に言えば、別にアヤベさんやトプロさんでなくてもよかった。でも、ボクは彼女たちがよかった、と。
「ボクは見てきたよ。貴女が、ずっと陰に日向に、静かに支えてくれていた」
まぁ、ボクの輝きにまぎれてアヤベさんはあまり気づいていなかったけどね!と自分を持ち上げることも忘れない。
「ボクはね、貴女がアヤベさんのタミーノであると確信しているよ」
「そんなに大それた役は私には無理かな」
思わず即答すると、テイエムオペラオーは珍しく、年相応のきょとん、とした顔でこちらを眺めてから、眉根をひそめて。
「…やはり、トレーナーさんは同好の志なのでは?」
「モーツァルトよ?教養の範囲だと思うけど」
「みんなが貴女やロブロイ君くらい歌劇に興味を持ってくれていればボクも嬉しいんだけどねぇ」
苦笑する彼女は、それでも、と前置きしてから。
「でも、やはり貴女は単なる案内人ではないとボクは信じるよ。覇王たるボクのお墨付きだ、誇ると良い」
「ありがとう。でも、そんなに褒められると照れちゃうかな」
やはり、何かある事に気づかれているのかもしれない。
忙しいと言いながら、こんなに長々と話す。道化の仮面をかぶりながら、この子は聡すぎる。
休息と会話で頭もだいぶすっきりして来たし、本格的に剥ぎ取られる前に、切り上げた方が良いだろう。
「そろそろ貴女のトレーナーさんが待っているんじゃない?だいぶ回復したから、私も急いでトレーナー室に寄ってアヤベさんのところに戻らなきゃ」
「おっと、ボクの美しさで貴女を癒そうと思っていたが、思いのほか話し込んでしまったようだ!」
立ち上がって、スーツの尻やひざの埃を払う。すこし皺になってしまったが、まぁこれ位なら帰ってアイロンをかけておけばいいだろう。
「十分癒されたよ。付き添ってくれて、ありがとう、オペラオーさん。また、アヤベさんと併走してあげてね」
「やはりボクの美しさは万病に効く!いずれ癌にも必ずね!そして、お安い御用さ!ボクもアヤベさんと走るのは楽しいからね!」
はっはっは、と腰に手を当てて笑う彼女の声を聞きながら階段を上り切り、
「トレーナーさん」
すれ違いざまに、声を掛けられて、足を止める。
「ごめんね、アヤベさんを待たせているから…なにかしら?」
「やはり、……いいや!これ以上は貴女の矜持に傷をつけてしまうね!」
その言葉に振り返ると、大仰に、芝居じみて首を振って、髪をかき上げてから、こちらに手を伸ばすしぐさ。
彼女が何かを宣言するときによく取るポーズだ。
その通り、彼女は不敵な笑みを浮かべて。
「ただ、アヤベさんに先駆けて、貴女に宣言させてもらおう。次のレース、秋の盾も、ボクがいただこう!」
「…いいえ、次こそはアヤベさんが勝つ。勝たせて見せる」
「実に耳に心地良い宣戦布告だ。でも、トレーナーさん、貴女にはこれだけは知っていて頂きたい!」
ばっ、と今度は腕を振るう仕草。彼女が勝負服を着ていたら、マントがたなびいて、金細工がきれいな音を奏でていただろう。
それは、私に彼女が、まぎれもなく『覇王』である事を幻視させて。
「アヤベさん一人では、この美しき覇王には決して届かないと!ハーッハッハッハ!」
そのままくるりと一回転して一礼してから、高笑いしながら階下へと消えていくテイエムオペラオーに、聞こえないように呟く。
「大丈夫。アヤベさんは、一人じゃない。トップロードさんも、ドトウさんも、何より、彼女自身の強い想いがあるんだから」
アヤベさんのトレーニングの負荷管理も、体調管理も、私に許される限り完璧にこなしている。
彼女は、アヤベさんは、勝てる。
////////////////////////////////////////////////////////////
(作者注:負けた)