アトラ・ハシースの審判、あるいは創世記
かつて、ミレニアムと呼ばれた廃墟。
そこには1人の少女と幾つかの墓標があった。
長い沈黙、何かを噛みしめるようにそこに留まる彼女だったが、やがて立ち上がる。
右手にはタブレットを、左肩には巨大な大砲を手に。
「…それじゃあ、行ってきます」
そして“彼女”は、最後の冒険を始める。
廃墟の街を歩く。
ここは以前は、キヴォトスと呼ばれた街。
今は、朽ちることを待つ廃墟群だ。
かつて、戦争があった。
人と人の戦いであり、人と麻薬との戦い。
“砂漠”、アビドスから湧き出る『砂糖』と呼ばれる麻薬は、キヴォトスを徐々に蝕んだ。
数多く発生した中毒者による医療資源の圧迫、中毒者の暴動による治安の悪化、働き手が中毒者になったことによる人手不足…。
『砂糖』は社会不安を生み、不安に屈したものは『砂糖』に手を出し、社会不安を拡大する。
負の無限ループに終わりは見えず、そして決定的な出来事が起こる。
三大校の連合軍の敗北と、『砂糖』の製法の流出。
キヴォトスの中でも特に有力であり、また『砂糖』の被害の激しかったトリニティ、ゲヘナ、ミレニアムの三校。
アビドスへの懲罰と『砂糖』の流出阻止のために立ち上がった彼等連合軍とアビドスの戦いはアビドスの勝利に終わった。
決戦に敗北した三大校はそれまでに受けた『砂糖』による損害も合わさって完全に機能不全に陥る。
アビドス周辺の三校の内、トリニティとゲヘナは最早『砂糖』に呑まれ、最後の一校、ワイルドハントに至っては密かに『砂糖』の供給ルートを確立し他校に向けて売り捌いていた。
ことここに至って『砂糖』に対する抑止力は消滅し、その流通は加速度的に増大。
中毒者の増大はインフラを蝕む。物流や経済は滞り、物価が上がり、治安が悪化する。
負の連鎖はやがてアビドスから『砂糖』の供給が減ったことでかえって加速した。
『砂糖』不足は中毒者達の凶暴性を大幅に引き上げ、暴れ狂う中毒者達によってキヴォトスの都市機能完全に麻痺する。
その狂乱は、アビドスから『砂糖』の製法が流出したことで、終わりを迎える。
中毒者たちや誘惑に屈した者達は各々火を携えてアビドスへ向かい、それを知ることすらできなかった者達は『砂糖』を求めて街を徘徊する。
『砂糖』の誘惑に屈しなかった者達もまた、狂暴な中毒者が徘徊し最早自分達の手に余る規模の都市を捨て、ある者は山、ある者は海で自給自足の生活に回帰し、またあるものはレッドウィンターを始めとしたごく僅かの健在な学校に身を寄せた。
後には、廃墟の街と彷徨う中毒者だけが残っている。
こうして、キヴォトスという都市は滅んだ。
滅んだ街を、ただただ歩く。
今日は運良く辺りを彷徨う中毒者には出くわさなかった。
更に歩き続けると、砂が積り始めそれを舐めるためただただその場に這いつくばる生徒達が見える。目的地だ。
ここはアビドス。そう呼ばれる地獄だ。
三大校への勝利、それはキヴォトスの終わりの始まりだったが、アビドスの終わりの始まりでもあった。
戦勝を祝した砂祭の後、アビドスはある問題に直面する。
アビドスにおいて最も重要なもの、『砂糖』の不足である。
元々砂漠化、過疎化が進んでいたアビドスには産業と呼べるものは殆どなく、『砂糖』が唯一の外貨獲得手段だ。
そして同時に必須の生徒の統制手段でもある。
そもそもこの学校の生徒とは『砂糖』欲しさで集まった存在だ。
その供給が滞るとなれば即座に暴動に発展するだろう。『砂糖』欲しさで母校も友も裏切り、犯罪に手を染めた薬物中毒者———そんな者達に我慢などという概念が、ある訳がないのだから。
つまりアビドスとは『砂糖』によって成り立つ学校であり、その不足は即座に学校の破滅を意味する。
当然ながらアビドスもそれは認識しており、『砂糖』の供給能力の強化に熱心だったが、それでも解消できない問題が一つあった。
『砂糖』の原料の片割れ、熱源の自給である。
先程も述べた通り、アビドスに産業と呼べるものは殆どない。
そのため『砂糖』製造のための熱源はライフラインからの供給か外部からの輸入に依存していた。
無論解決のための議論が持たれたものの、結局は原油かガスが発掘でもされない限りは解決は不可能、また仮にそれができたとしても増大する学内需要と輸出需要を早々に満たせなくなり外部依存に逆戻りするという結論に至った。
こうして分かっていながら放置された問題が、アビドスの致命傷となる。
『砂糖』の流通によるキヴォトスの崩壊、それにより熱源の調達が徐々に困難になっていったのだ。
値上がりは序の口、中毒者の暴動に巻き込まれ買った筈のものも届かず、やがて経済活動が金銭から物々交換に退化し買うことすらままならなくなった。
ライフラインもまた、とうに中毒者の暴動と整備の放棄によりアビドス外で既に寸断されている。
最早破滅を避けられなくなったアビドスは、外部への『砂糖』の供給を全てカットする。
皆薄々と感じるその予感を備蓄を切り崩して紛らわしながらその時までその場限りの享楽に浸っていた。
そして、ついにその時が訪れる。
ある売店、『砂糖』の売り切れを宣告されたその店最期の客は、その瞬間強盗に変貌を遂げた。
一度付いた火は瞬く間に燃え広がり、終わりを知った生徒達はそれぞれの身の振り方をする。
自らの『砂糖』を守ろうとするもの、他者から『砂糖』を奪おうとするもの、どさくさに紛れて『砂糖』の製法を探る者…。
アビドスは怒号と罵声の飛び交う修羅場と化した。
程なくして『砂糖』の製法がアビドス内に流出すると、混沌具合は更に加速する。
ただ奪い合いの標的に熱源を加えるもの、外部に製法を売り渡して熱源を得ようとする者、今ある火種を最大限生かすべくとにかく大規模な火を起こそうとするもの。
狂乱の日々はアビドスの全てを焼き尽くし、程なくして終わりを迎える。
後には、もうどこにもいけない中毒者の山と、火を得る為に焼き尽くされた焼け跡のみが残った。
得るものが何もなくなっても、生徒達は『砂糖』によって増幅された凶暴性とあらゆる餓えに苛まれ晴れることのない気を晴らすために争いを続ける。
ここまで来ると、皆死しても何ら不思議ではない。
だが、『砂糖』を接種したことによって生じる神秘の強化。
それが、生徒達に死ぬことを許さなかった。
程なくして生徒達は最早動く気力すら失い、その場に倒れ伏して『砂糖』になってすらいない砂で口を慰めるだけの生ける屍となる。
こうして、アビドスという地獄が完成した。
そんな地獄を、“彼女”はただ突き進む。
やがて外縁部を抜け、焼け跡だらけの嘗ての居住区に歩が進んだ。
それと共に辺りを這いつくばる生徒も増えるが、”彼女”には一瞥もくれるものはいない…筈だった。
だが———
「よ………せ………」
近くの生徒が、”彼女”の接近に気づきうめき声をあげる。
そして
「よ”こ”せ”ぇ”ぇ”ぇ”ぇ”ぇ”ぇ”ぇ”ぇ”ぇ”ぇ”ぇ”ぇ”!!!」
驚いたことに立ち上がるだけの力を残していた生徒は最早何が欲しいのかも分からないままあらゆる餓えに支配され、“彼女”に迫る。
しかし
「…大丈夫です」
“彼女”は特に慌てた様子も見せず、何処かに声をかけながら大砲を自分と生徒の間に挟み込み接近を阻害し、トリガーに指をかけた。
狙いは頭頂部、その更に上。
「———ア」
大砲から空に光芒が走り、生徒は糸の切れた人形のように大砲にもたれかかり止まった。
「…おやすみなさい」
歪に見開いたままの生徒の眼を閉じさせ、“彼女”はその体を優しく横たえた。
一足先に自由になった生徒をその場に残して、“彼女”はアビドスを突き進む。
そして、とうとうたどり着いた。
ここはアビドス砂漠、その中心地。
「着きましたよ、アロナさん、プラナさん」
『あ、アリスさん!』
『…ここが、アビドス砂漠の中心』
“彼女”———天童アリスが声をかけると、ダブレット———シッテムの箱から、2人分の声が応じた。
「2人共、準備は大丈夫ですか?」
『は、はい!プロトコルATRAHASIS、サポート準備完了しています!』
『…いつでもどうぞ。アリスさん』
「分かりました。では———」
忌むべき“砂漠”を睨みつけ、アリスは告げる。
「この“砂漠”を、消し去りましょう」
『起動開始』
『コードネーム「AL-1S」起動完了!』
アロナとプラナが、分担してプロトコルを進行していく。
『プロトコルATRAHASISを実行します』
『AL-1Sに接続された利用可能なリソースを確保するため、全体検索を実行!』
『リソース領域の拡大』
『リソース名…あ、「アポピス」…?ひ、必要十分量のデータを確認、余剰リソースを”追従者”の製造に割り当て…え?』
プロトコルATRAHASISがリソース確保まで進行し、”砂漠”と繋がった時、突如として進行が止まり、”砂漠”がアリスを掴むかのように動いた。
『!?プロトコルATRAHASISに対する正体不明の干渉を確認、アリスさん!』
「———大丈夫です」
アロナの警告に静かに応じ、アリスは懐から”カード”を2枚取り出す。
すると、”砂漠”はまるで苦しみのたうっているかのように蠢く。
それと共に、カードの1枚がボロボロと崩れ粉々になった。
「2人共!」
アリスの声に応じ、アロナとプラナがプロトコルを再開する。
『………現時刻をもって、プロトコルATRAHASIS稼働』
『コード名「アトラ・ハシースの箱舟」起動プロセスを開始します!』
全ての準備は整い、そして
『王女は箱を手に入れ、箱舟は用意された』
「名もなき神々の王女、AL1Sが承認します———ここに、新たな“聖域”が舞い降りん」
”砂漠”の砂が宙に吸い上げられるかのように集まり、”箱舟”へと姿を変えていく。
未だ地に残る“砂漠”の一部がまるで生物のようにのたうち、最後の抵抗かのようにアリスに迫るが———
『…させません』
———シッテムの箱が、それを許さない。
最期の抵抗も失敗に終わり、”砂漠”は動きを止める。
程なくして”箱舟”は完成し、地に残る砂も”追従者”へと変貌していく。
こうしてキヴォトスを蝕んだ砂漠の悪魔は、人知れず王女の従僕へとその姿を変えた。
『…終わりましたね』
「はい。後は…”皆”を助けるだけです」
『あ、アリスさん!』
“砂漠”の始末をつけ、最後の仕事にとりかかろうとしたアリスを、アロナは涙ながらに静止する。
『ほ、本当にいいんですか!?だって、こんなことしたら…アリスさんは…!』
「…全てが終わったらきっと、生き残った皆は、アリスのことを魔王だと思いますね」
『だったら…!』
「アロナさん」
翻意を促そうとするアロナを、アリスは静かに静止した。
「…アリスは最後まで「見習い」勇者のままで、世界を救うことは、できませんでした。だから、こんなことを言うのは間違っているのかもしれません」
「それでも…例え皆がアリスを魔王だと思うとしても、どんなにアリスを苦しめるとしても…それしか苦しんでいる誰かを助ける方法がないのなら」
「アリスは、それをしたいと思うのです。それが、アリスの信じる勇者だから」
『…』
アリスの決意にアロナは何かを言いたくて、それでもかける言葉が見つからず、沈黙がその場を支配した。
『…私は、最期までついていきますよ』
『…プラナちゃん』
その沈黙を、プラナが破る。
『私もかつては世界を滅ぼそうとした側…アリスさん風に言うのであれば、魔王の手下だった者です』
『元の鞘に収まるだけ…私にとっては、大した事ではありません』
『———だから、アロナ先輩が無理をしなくても、アリスさんは大丈夫です』
それは、言外に耐えきれないのなら無理をしなくていいという配慮を忍ばせた言葉だった。
しかし…
『い、嫌です!』
『私だって最後までやれます!お手伝いできます!』
『だから…もう…置いていかないで…!』
『アロナ先輩…』
“かつての所有者”がいなくなったトラウマを刺激されて、アロナが泣き叫ぶ。
「アロナさん」
そんなアロナに、アリスは慈しむように声をかけた。
「大丈夫です。もう誰も、貴女を置いて行ったりはしません」
そして———
「行きましょう、3人で、最後まで」
『…はい』
『…了解しました』
彼女たちは、箱舟と無数の”追従者”を連れて動き出す。
アトラ・ハシースの審判が始まる。
彼女は確かに世界を救うでしょう。
古き世界の、罪の全てを洗い流して。