アシュヴァッターマンの誓い

アシュヴァッターマンの誓い


 怒りと嘆きが入り混じり噛み殺せなかった嗚咽を漏らしながら、隼の如き俊敏さで戦場を横断する。無残な容(かたち)となったドゥリーヨダナを抱え、天幕へと駆け込んだアシュヴァッターマンは半ば崩れ落ちるように膝をついた。

 震える手でそうっと腕の中の重みを布の上へ横たわらせる。下半身は再起不能なまでに砕かれており、頭部、とりわけ顔面の損傷が酷い。その姿の痛々しさに心胆が冷えていく。感情が激しく乱れるあまり、胸をねじ切られ続けているような感覚が止(や)まない。


(旦那が死んだのは自業自得だ)


 無邪気に悪鬼羅刹の所業を為す男である。欲しいものを手に入れるために他者を巻き込み踏みつけにすることに躊躇がない。

 長年のパーンタヴァ兄弟への仕打ちを思い返せばビーマの屈辱も憎悪も想像に難くない。元来鷹揚で寛容な男を激怒させたドゥリーヨダナが全て悪い。


(何度も忠告した。引き返せる機会は幾らでもあった。奴らも辛抱強く手を差しのべてくれていた。それを振り払ってこの結末に突き進んだのは旦那だ)


 だが、ああ、しかし。

 これほどに辱められていいものか。卑劣な悪辣漢で、この壮絶な戦争を引き起こした元凶であっても、逆恨みに近いと理解してなお。

 曲がりなりにも決闘に臨み斃れた戦士を、その死を弔う事すら困難なまでに壊したビーマに怒りと失望が溢れ出る。


(───笑って、いた)


 天幕に逃げ込む前に目の当たりにした光景を思い返す。

 あの時、あの男は激憤に狂乱しながら哄笑を轟かせていた。既に息絶えたドゥリーヨダナを、何度も踏み砕いた。戸惑う周囲の声も、静止する兄の声も聞こえていないようだった。

 逆鱗に触れて嬲り殺される覚悟の上で乗り込んだアシュヴァッターマンが、ビーマの足元からドゥリーヨダナを奪い返しその場を離脱しなければ、カウラヴァ党首は本当に骨の一つも残さず大地の染みにされていたかもしれない。

 ビーマは、後を追って来なかった。


(ここまで旦那を憎んでいたのか……いや、無理もねえ。当然だ。最愛の家族と妻を侮辱し、幾度も苦境に貶めた男だ。何度殺したって飽きたらねえだろう)


 アシュヴァッターマンの理性はそう語る。

 だが。

 目の前に横たわっている、常に騒がしい筈の男の全ての感情が抜けた死に顔が。

 どんなに遠目でも己を見かければ、威厳も何もない取り繕わなさで嬉しげに駆け寄ってきた人懐っこい男の、太陽のような笑顔の記憶が。

 アシュヴァッターマンから冷静さを奪っていく。


(旦那が居ないんじゃあ、生きる甲斐もない)


 先に逝ったカルナが怨めしい。あいつは、ドゥリーヨダナのいない世界を知らずに逝けたのだ。自死せんばかりにその死を嘆いてもらえた幸福者め。

 カウラヴァの太陽は、太陽神の子であってもカルナのことではない。ドゥリーヨダナが光だったのだ。─────太陽を喪った世界はこんなにも凍えている。


「なあ旦那、満足だろ?死ぬまで止まらなかったけどさ、九十九人の弟だって全員アンタに殉死したんだ。もういいだろう?散々心配かけた御両親の下に帰ってやろうぜ」


 嫉妬心に狂い、多くを喪った凄絶な戦争を引き起こしたドゥリーヨダナを憎む者は多い。けれど、悪性でしか生きられなかったこの男を深く愛している者もいるのだ。

 アシュヴァッターマンもまた、どうしようもない男を愛している一人だった。


「豪勢な葬式を挙げてやるよ。アンタ、派手好きだもんなあ。贅を尽くした墓標も建ててさ、それから、……俺も、アンタのところにすぐ逝くよ。少しでも足りないとすぐ不機嫌になる旦那のことだ。俺が居ない寂しさで癇癪起こして、今頃カルナを困らせてんだろうなァ」


 ドゥリーヨダナの抜け殻に優しく声をかける。冷たく強張る手をそっと撫でて、体温を分け与えるように握り込む。

 あの世にいるだろうドゥリーヨダナがアシュヴァッターマンの名前を叫び、早く来い!わし様を待たせるな!と地団駄を踏む様子を夢想することだけが、この虚ろな現世に残された楽しさだった。


「もう少しだけ待っててくれ、旦那をこんな冷たいところに置いて行くわけには行かないから────」








めきり。

甘い夢想を突き破るように、ドゥリーヨダナの遺骸に異変が起きた。









「─────は?」


びきびき。ぐちゃり。

めきめき。ずるずる。


 春のような男から根腐れの魔性が芽生え、花のように華やかな器に腐乱花が芽吹こうとしている。

 踏み潰された顔面から、樹木のような太い角が生えた。砕かれた下半身から、のたうつ蛇のような肉塊が何本も這い出る。服から覗く皮膚が見る間に赤紫の鱗に覆われて、肌がヒトにはあり得ない青に染まっていく。

 半神にも並び立つ程の才と鍛錬の結晶である棍棒術を操る手にも不可逆の変化が起きていた。常に短く整えている爪が黒く長く鋭く伸びる。卓越した技量の源の指が破壊の容(かたち)に歪まされていく。


「どういうことだ、何で旦那にこんなものが!」


 この人は人間のはずだ。不吉な生まれから凶兆の子、カリの化身と呼ばれてはいても、ドゥリーヨダナは間違いなく人間だった。

 半神のパーンタヴァと比べれば、悲しいほどに人間でしかなかったのに。


 パーンタヴァ────恐るべき戦士、ビーマ。

 ドゥリーヨダナが強く憎悪しながらも見つめ続け、強欲さから誰をも懐に入れる男が唯一拒絶した、特別なお前。


(てめえはこの事態に気付いていたのか?だからあんなことを?)

(好敵手が魔性に貪られ、ドゥリーヨダナという人間が消え去り、ただ英雄に倒されるべき怪物に堕ちることを赦せなかったのか?この人を執拗に踏み砕いたのは魔性を壊すためだったのか?)


 この場にいないビーマに問うても答えは返らず。

 確かに息絶えていた男の口から無機質な言葉が紡がれる。


「───⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎・オー⬛︎⬛︎、規⬛︎数:未⬛︎⬛︎」


「大地救⬛︎⬛︎置人⬛︎⬛︎整用殺⬛︎⬛︎⬛︎、⬛︎造⬛︎⬛︎称:ス⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎、承⬛︎⬛︎続全⬛︎略緊⬛︎起⬛︎───」


 アシュヴァッターマンは直感的に、ドゥリーヨダナに何が起きたのか悟った。

 祭祀を司り、神の声を聞き届けるバラモンの血筋ゆえか、ドゥリーヨダナが神々の機構に成り果てつつあるのだという理解が脳髄を抉る。


「冗談じゃねェぞォ!!」


 ドゥリーヨダナを喰らい、苗床とせんとする光景に戸惑いが消し飛び、怒りが脳髄を焼いた。

 なんたる冒涜!

 憤怒が肉体を焦がし、怒りの火花が目尻から弾け飛ぶ。俺たちが愛した王は魔性(おまえ)なぞではない。

 怒りに駆られるままドゥリーヨダナの額から伸びる角に手を掛け、


 アシュヴァッターマンの掌の中で白い閃光が迸った。


「ギャアアァァッ!!」

「旦那!!」


 魔を拒絶する光に焼かれ、苦悶の悲鳴が途切れることなく響き渡る。体内から存在規格を魔性へと変転され、それに抗う瀕死の人間性ごと炎に焼かれているのだ。そうと察したアシュヴァッターマンは思考するよりも迅く退こうとする、も。

 それは叶わなかった。


 生きながら焼かれる当の本人が、魔を焼く手を引き留めていた。


「……………ァ、…」


 通りのいい蕩けるような美声は見る影もなく嗄れている。

 額に宿る魔除けの宝玉がドゥリーヨダナの存在を許さない。触れた部分から白光が灯り、魔性化した肉体が浄化の炎により塵に還っていく。


「離してくれ!頼むドゥリーヨダナ!アンタの身体が!」


 ドゥリーヨダナの貪欲な人間性が、機構へと造り替え、消失へと押し流さんとする権能に抗う。

 戦争を引き起こすほどの頑なな我欲は、魔性へと転臨する端から崩壊する肉体。その裡に展かれた黒孔に呑み込まれまいと醜く足掻いていた。


「………アシュヴァッター、マン……」


 欲望に正直で、際限なき欲しがりで、そうしたいと思ったら躊躇わない男だった。

 世界の修正力に圧縮される苦痛にひび割れ、砕かれながらも、ドゥリーヨダナには、どうしても言いたい言葉があった。











「お前が……生き、ていて…くれて…嬉しい─────………」













それを聞き届けた

アシュヴァッターマンは。

たった一つを心に定めた。
















 ごうごう、火が燃え盛る。

 気でも違えたか、と誰かが言った。殺した。


 魔性は、惑乱、錯乱、魅了を腐臭のように周囲に撒き散らす。しかし、父親から授かった魔除けの宝玉が額に輝く限り心身は守られている。

 だから、これは己の意志で為したことだ。


 子供の泣き声。殺した。

 女の悲鳴。殺した。

 寝ている者。殺した。

 呻く負傷者。殺した。

 この子だけは、という声。殺した。

 なぜこんな事を。殺した。

 助けて。殺した。


 殺、殺、殺、殺、殺、殺、殺。

 殺、殺、殺、殺、殺、殺、殺。

 殺、殺、殺、殺、殺、殺、殺。


 ごうごうと火が燃え上がり昼間のように明るい。

 太陽を無くし凍える世界を焼くに相応しい熱量だ。

 ぐちゃり。振り下ろして、また一つ肉塊が生まれる。


 死の総数が足りぬというなら女子供も殺戮しインドの地を焦土に帰してやる。更なる絶命を求める神々の天秤の片側に屍血山河を築こう。

 当然その咎、罪業はこの身ひとつで受ける。誰かのせいにはしない。

 俺だけの決断だ。


 踏み出した足裏に肉の感触。

 一歩、進むほどに死の乱舞。

 まだまだ殺し足りない。

 堕落を許すな。


 死に瀕し機構へと塗り潰されて。

 苦しいことが大嫌いなくせに、想像を絶する苦痛であろう魔を否定する炎に耐えて。

 白光ごと我が手を取り、嬉し涙をこぼしながら微笑んだお前を想う。


 ぐちゃり。

 ぐちゃり。

 ぐちゃり。


 せめて人として終わらせてやりたい。お前の悪徳はお前だけのものであるべきだ。

 結末が敗北であったとしても、嫉妬に突き動かされた男の愚かな物語でも。人の身のまま、半神に挑み続けたお前の矜持を守ってやりたかった。

 その為なら何だってすると決めた。


 英雄(ビーマ)ではお前を救えなかった。

 正しさでは救えぬ者どもを、その心身の邪悪さで救い惹き寄せ続けたのがお前だ。お前自身も同様に、正しさでは救われぬのだろう。


 ごうごう、ごうごうと。

 燃え盛るのは火か。

 それとも我が怒りか。


 正義では救えぬお前を、悪の傍らを選んだ俺の過ちで救おう。

 俺は、お前だけの味方でいてやる。

 たとえ、贖罪の旅路を三千年彷徨おうとも。



















「アシュヴァッターマン!」


 ────懐かしいお調子者の声がした。


 黙ってさえいれば優美な風格を纏う王子が、威厳も何もない取り繕わなさで嬉しげに駆け寄ってきた。

 カリの気配はすれども、人間のままの容(かたち)で白い廊下を飛ぶような勢いで走り来る。


(もし、時があのクルクシェートラでの戦争に戻ったとしても、俺は何度でも同じ事をするだろう)


「むっふふふふ、勝った!この戦い、勝ったぞォ!」


 太陽のような眩い笑顔は、何一つ変わらず一片の翳りもない。

 三千年の放浪の果てに得る報いには───未だ贖罪は終わらずとも───十分過ぎるほどだった。

 とめどない感慨が身の裡に無数の波紋を呼び起こし、ツンと痛む目の奥を隠すように瞼を閉ざす。

 我らの再会に涙は相応しくない。

 太陽を取り戻した世界の暖かさを噛み締め、大きく息を吸い込んで肺を膨らませる。欲しがりの友に向かって、万感の想いを篭めて叫んだ。



「久しいなァドゥリィーーーヨダナァーー!!俺が居ない間も元気にしてたかよォーーー!!」


fin

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