よいこはみちゃだめなやつ
~わるいこもみるな~「大丈夫だよ、全部なんとかする」
「なんとかって、」
「怖がる必要はないよ、任せて。あなたのためなら、なんだってできる」
グエルの背に、冷や汗が伝う。
やる。
この弟はやる。
なぜ自分はあんなことを言ったんだ。今更ながらあの時謎の全能感に身を任せて誘うような真似をしたことを後悔する。引き攣った笑みを浮かべながらちらりと視線を横にやり、あ、あー、あー、と白々しい声をあげてみせた。
「お、俺、シャワーを浴びてくる。ほら今汗かいてるか」
ら、と同時に、ぶつり、と音がした。
視線だけでそちらを見やる。
ラウダを拘束していたハーネスが、ぶつりとちぎれていた。
ラウダはくるくると手首や肩を回して、闇の中では金色に輝いて見えるひとみで、じっとグエルの方を見やった。眦が紅く上気している。くちびるが、ゆるやかに弧を描く。
「お、前……どうして……」
「無理矢理拘束具なんかにしたら、変な力がかかるに決まってるでしょう?そこに力を入れれば、案外いけるものだよ」
頬に触れた、ラウダの手のひらは熱い。ひとみは熱い。くちびるは、熱い。何が起きているのかわからない。思考が、追いつかない。ダリルバルデパジャマのボタンが、ひとつ、ひとつと外されていく。心臓が高鳴る。せっけんのにおいのむこうに、甘いにおい。ラウダのにおいだ。
グエルの腹筋からあばらにかけて、そうっと指が添えられる。可愛い、かわいい手のひらだと思っていたのに、こうして掴まれると存外、大きく感じる。ぽかんとしてくちびるを開けていると、ラウダは少しだけ顔を顰めた。少し、痩せた?
「いや、そんなこと、ないとおもうが……」
「そう」
静かなてのひらは確かめるように腹を探る。逃げられない。嘘は、つけない。つう、と背中をなぞる。慈しまれている。弟に。グエルの脳は、これはいけないことだ、と理解しているはずだというのに、皮膚は、勝手に上気して、震える。ないはずの内臓が、心臓と共にゆるやかに脈打つ。眼球の裏がじんじんする。グエルが半ば無意識にからだを預けると、今度は耳にくちづけてきた。とろけ崩れた花弁にそうするように、優しく、丁寧に。
「、あ、う、」
温い舌先と微かに触れるエナメル質が、不器用にグエルの肩口に触れた。あまく吸いたてると、爪先が震える。グエルはいやいやと言うように首を横に振り、自分のからだを抱きしめるラウダの背に爪をたてる。ラウダはそうっとくちびるを離す。健康的ないろをした肌に、やけに婀娜で不釣り合いな、あかい痕がついていた。
「兄さん……」
「……ぅら、……」
グエルは半ば無理矢理ラウダの頬を掴み、縋る場所を求めるようにくちづけた。少し開いた歯列の隙間から、ラウダの舌先が侵入して、臼歯を、粘膜を、口蓋をなぞる。口の端からのみこきれない唾液があふれて、しかし拭うことすら許されない。呼吸が、できない。
ラウダの頬に添えられていた手から、ゆっくりと力が抜けていく。ようやくくちびるが離れたときには、グエルのひとみは酸欠とそれ以外の感覚とで溶けてしまいそうなほどに潤んでいた。呼吸が、荒い。項が真っ赤に上気している。力を抜いたら、グエルの全体重がラウダの膝にかかってしまう。わかっているのに、力が、入らない。
「こ、……んなの、知らねえ、わかんねえよ……」
「知ってたら困る。今から全部、教えてあげる」
「らうだ、」
グエルの身体を支えていた手が、そうっと指先に触れる。手と手を絡めるようにつなぎ合わせて、ラウダはわざとらしく上目遣いをした。
「兄さん、ぜんぶ、ほしいな」
心臓が高鳴ったのは、未知の感覚への恐怖だということにした。
幸運にも__あるいは不幸にも__つい先ほどまで、ラウダの名を呼び、ダリルバルデぬいぐるみを抱きしめながらひとりあそびに耽っていたグエルの、日にあたらないくせ赤い肌は、火照りを帯びて濡れてる。ラウダがそれに気づかないはずがない。くちびるを舌先で濡らしながら、ラウダはわざとらしく尋ねる。
「どうしたのかな、これ」
「わ、……わか、ちが、これは、」
「なんでもいいけど」
ラウダの指先が的確に肉を抉る。臓腑すべてがかっと熱くなる。血が、沸騰したようにぽこぽこといって、耳の裏が、じんじんどくどく、低い音を立てている。仰向けに倒れこみそうになったグエルのからだを、ラウダが支えた。苦しいの?
そんなわけないのはわかりきっているだろうに。文句を言おうにも、くちを開けば出てくるのは喃語じみた声だけだ。人差し指の関節、中指の腹、薬指を呑み込んだところで、ラウダはふっと思い出したようにいった。
「これね、おねえさんゆびって言うんだよ。知ってた?」
「し、しら、しらなあ、」
「兄さんって今は姉さんなのかな。それとも兄さんは兄さんなのかな。どっちにしても変わらないけど」
四肢が、グエルの意志とは関係なく痙攣する。耳をふさぎたいのに、グエルの腕は勝手にラウダを抱きしめる。何故か無駄に存在する肉のかたまりが、むみゅりとラウダに押し付けられた。ラウダは一瞬顔を歪めた後、すっと息を吸って、吐いた。自身が身に纏っていたものを、ゆっくりと脱ぐ。
__ラウダのかたちはこんなだったのだ、とグエルは現実逃避のように思った。
以前は自分のからだについていたものだ。見慣れているはずのものだ。ようするに無感動であったはずが、それも一瞬のこと。これが、今から、グエルの腹の中を蹂躙するのだ。それに気づいた瞬間、ひ、と喉の奥で息がこすれるような音がした。ほぼ咄嗟に逃げ腰になったグエルの腹を、ラウダは左の腕だけで引き寄せる。
「……さんざ我慢したんだ。ここまで来て逃げられるとでも?」
「い、いやでもだな、ラウダ、」
「大丈夫」
「何がだ!?」
どこにどう力をいれているのか、グエルの身体がひとりでに持ち上がる。どうやら膝立ちにさせられているらしい。見えない。見えないが、自らのからだに押し当てられたものが何なのか、察せないほど馬鹿ではない。
「待て。待てラウダ」
「嫌だ」
「せめて」
「今、何を言われても、無理。……あのね、……」
自分によく似た顔が、歪む。熱い息が、かかる。ひとつぶ、ふたつぶ、落ちてきた温かい雫が、汗なのか涙なのか、考えないことにした。
「あのね、にいさん、すき。いっぱい、すき」
「ラウダ……」
「全部、すき。おねがい、愛してるんだ、兄さん。あなたもそうだって、言って……」
「……ラウダ。ああ、俺もお前のことがすき、」
だ、と言い切る前に、肌がぶつかる音がした。
何が起きたのか、理解が追い付かない。血管の浮き出た足が、痙攣しているのが見える。腹の奥が熱い。熱い。隘路から僅かに血が溢れだしている。眩暈が、する。
「痛い?」と。
問われた瞬間、グエルの喉が勝手に絶叫めいた嬌声を吐き出した。
あまりに、現実感がない。どこか夢のようだ。それなのに脳を焼く感覚は、どこまでも現実である。ラウダは宥めるようにグエルの背を撫で、はらの奥を撫でる。ひどい、音だ。生きているものがたてる音だ。傷つけたくないと思っていたはずのグエルの指先に、勝手にちからがこもる。ラウダの背に爪をたてる。ラウダは少しだけ顔を歪めて、苦しそうに首を振った。
「無理は、させたくない。これだけで幸せのはずなのに……これじゃ足りない……」
迷子の子どもめいた泣きそうなひとみに、グエルは体を震わせる。そうして半ば無意識に柔らかなくちびるを重ね、舌先で頬に浮いた汗を拭ってやり、いい子いい子するように、慎重に指から力を抜く。ラウダは応じるように、薄温かに上気した耳を舐めた。閉じそうになる瞼を瞬かせ、懸命に「兄」ぶろうとするグエルの涙ぐましい努力は、逆説的に、悦楽の渦へと沈んでいく泥船のようだ。
「兄さん、絶対、絶対離れないで。約束して、お願い」
「あ、ひい、ああ、いう、やくそくする、やくそくするから、い、いったん、やめ、」
「やめてって? 兄さんもよさそうにしているくせに」
「らうだ、」
再び、くちびるを合わせる。何度も、何度も。こうして、触れ合った部分から境目が曖昧になって、どろどろ、とろけて、ひとつになる。互いに互いを取り込みあって、いづれおなじものになる。そんな錯覚に陥る。熱い。……熱い。
びくり、と。グエルの全身が痙攣する。しばらくもしないうちに、ラウダも顔を歪ませて、グエルの背をぎゅっと抱きしめた。
腹の奥、臓器が、あまく熱を持っている。
ややあって、グエルのからだを酷い倦怠感と虚脱感が襲った。肩で息をして、ぬいぐるみにそうするようにラウダを抱きかかえたまま、沈黙する。
はふはふと、ようやく呼吸が整い、なんとか状況を冷静に俯瞰したところで、グエルはふと気づいた。はらのなかのものが、未だに熱をもっている。
「にいさん、まだ、たりない……」
どさり、と視界が反転する。
自分を見下ろしたラウダが楽し気にわらうのを、ぼんやりと聞いた。