ゆり拓ゆい〜思い出のお菓子〜
過去はどれだけ辛く哀しいものでも変えることはできない。
失った命はどれだけ願っても黄泉帰りはしない。
人は遺された思い出を糧にして、少しずつ消化して、やがて心の種から花を咲かせる。
きっとそうだと、信じて、私は今日を生きている。
時は全てを連れて行ってくれる。喜びも悲しみも、温もりや冷たさも、愛も憎しみも。
なのにどうして、寂しさだけ置き忘れていくのかしら……
お父さん……あなたとの思い出も、わだかまりも、私は全部乗り越えて生きているわ……
あなたを思い出しても、感じるのは寂しさだけだから……
〜〜〜
小麦粉、砂糖、卵で練った生地を直径約7cm・高さ約2~3cmの円形の型に流し込み、その中に小豆の餡などを入れて焼き上げる。たったそれだけのお菓子なのに、その名前はひどく曖昧だ。
わざわざそれ用の焼き型を専門店で買い込んできた俺は、集合団地の狭いキッチンで、その名称不明のお菓子を焼き続けていた。
玄関から鍵を開ける音が響き、建て付けの悪いドアが軋みを立てながら開かれた。
「ただいま、お父さん」
そう呼びかけられて、俺は振り返る。
そこには俺とほとんど背丈が変わらない長身の女性が穏やかな笑みを浮かべて立っていた。
「あ、あぁ、ゆり……おかえり…」
ゆりさん、おかえりなさい、そう言いたいのを堪えて、親しげな口調で彼女を出迎えながら、俺は焼き上げたばかりの[今川焼き]を皿に載せてテーブルに置いた。
「お土産に買ってきたんだ。ゆ、ゆりはコレが好きだっただろう?」
「随分と子供の頃の話だし、そんなに何度もねだった覚えはないわよ。もう、お父さんったら、いつまで経ってもその話ばかりするんだから」
「あ、ああ…ごめん」
その子供の頃の思い出を、正しく思い出して欲しくて、俺は彼女に[今川焼き]を手渡した。
「さ、三時のおやつだよ」
「夕飯前なのに仕方ないわね。一つだけ頂くわ」
ゆりさんは苦笑しながらそれを受け取り、控えめに口にした。
「ご馳走様。後はお夜食にでも頂くわ。じゃあ私、少し出かけてくるわね。夕飯までには戻るから、お母さんにも心配しないでって伝えておいて」
ゆりさんはそう言ってすぐに自室へと向かう。
でも、その間際、彼女は振り返って俺にこう言った。
「あ、お父さん、ありがとう。美味しかったわ。でも……私、今川焼きより◯◯◯の方が好き…かな…」
俺を気遣うような笑顔と共に、その言葉に一瞬だけノイズが入る。
それだけで俺は悟る。
今日もまた失敗したのだと。
リビングで呆然と打ちひしがれる俺を残し、ゆりさんは自室で手早く着替えて、玄関に立った。
「お父さん、行ってきます。……私が帰ってくるまで、また居なくならないよね……?」
「あ、ああ……ここに、居るよ……」
「良かった」
大人びた容姿に似合わないあどけない笑顔を見せて、彼女:月影ゆりは、部屋を出て行った。
部屋には独り、俺だけが取り残された。
わからない……何が……何が違うっていうんだよ!?
「くくく、悩み事かぁ、品田拓海?」
その声にハッと顔を上げる。
リビングのテーブル、その向かい席に、奴が座っていた。
「今川焼きかぁ。ざぁんねん。月影ゆりが父からもらった思い出のお菓子は、違ったみたいだなぁ?」
「アニマーン……お前は、何がしたくてこんな狂った世界に俺たちを閉じ込めた!?」
「ゆりが寂しいと訴えていたからさ。あの子の心の穴を埋めてやりたい、みんなそう思うだろう?」
「だからって、なんで俺が!?」
「俺が、見たかったからさ」
奴は悍ましい笑みを浮かべながら、焼きたての今川焼きを頬張った。
口や端から餡子を溢し、手にした残りを握りつぶしながら、奴は言った。
「品田拓海、お前の選ぶ道は二つに一つ。月影ゆりの父との思い出を黄泉帰らせて、この世界を破壊するか。それとも、ゆりの父としてこの世界で生きていくかだ」
「俺は!」
「わかってるさ。壊すんだろう、この世界を。それでいい。たっぷり足掻いて、俺を愉しませてくれ──」
堪忍袋の尾が切れて殴り掛かろうとするより早く、奴は虚空へと消えて行った。
「くそっ……くそっ!!!」
行き場を失った拳がテーブルに叩きつけられ、皿の上の今川焼きを床にぶちまけた。
〜〜〜
扉の向こうから何かが叩きつけられた音が響いて、あたしは慌ててアパートの部屋の扉を開けた。
「拓海!?」
集合団地の狭いリビングで、テーブルに何度も拳を叩きつける彼の姿を見つけた。
その足元に、作ったばかりの◯◯◯が散らばっているのをみて、あたしは事情を察した。
だからあたしは、すぐに拓海に駆け寄って抱きしめた。
「拓海…大丈夫だよ……きっと次は上手くいくから……」
「ゆい……ゆい……っ!!」
「今日のこれも、美味しいよ」
拓海の背中をさすりながららあたしは床に落ちた◯◯◯を手に取り、口にした。
以前作った◯◯◯とは、ちょっとだけレシピをアレンジして作った◯◯◯。
美味しいよ、拓海。ゆりさんの◯◯◯じゃなかったけれど、ちゃんと美味しいよ、拓海……
そう伝えると、拓海はあたしの背中に手を回して、痛いくらいに抱きしめて、声を押し殺して泣いた。
〜〜〜
後輩たちとの用事を済ませて、足早に帰宅する。
ドアの前に立つと、部屋の中から夕飯のいい匂いがする。
「ただいま。お父さん、お母さん」
帰宅を告げると、キッチンに並んで立つ両親が振り返って、笑顔で迎えてくれた。
リビングのテーブルには三人分の夕食。
テーブルの向かいには、お父さんとお母さんが座っている。
いつもの、変わり映えのない、普通の日常。
そう、これが私の、なんの変哲もない、ありふれた幸せ……