ゆり拓ゆい〜思い出のお菓子〜その3
このところずっと悪夢を見ている。
でもそれは怪物に追われたり、事故に遭ったりというような、危険や恐怖を感じる悪夢ではなくて、もっとごく普通の、ありふれた日常のような夢だった。
その夢の中で私は、住み慣れた自宅で、母と二人で暮らしていた。
それなのに食卓には、四人分の食事がいつも用意されていた。
それはお父さんと、妹の分。
私はその二人が帰って来ないことを知っている。でもお母さんはそれを知らない。
だから私は、お母さんと一緒に、食事に手を付けずにお父さんと妹が帰ってくるのを待っている。音のない部屋で、いつまでも……いつまでも……
鉛のように重い空気と、お母さんの輝きを失った暗い目が私の心を苦しめる。
息が苦しい。胸が痛い。泣きたいくらいに悲しい気持ちが溢れてくる。
お母さん、もうやめましょうよ。お父さんは帰って来ないわ。妹が居ることだってお母さんは知らないはずよでしょう?
だって、私はお母さんに何も話していないもの。
お父さんがどうなったのか、妹がなぜ存在していたのかも──
ごめんなさい、お母さん、ごめんなさい、本当にごめんなさい。
謝って済む問題じゃないけれど、それでも言わせて下さい。
許してなんて言いませんから。恨んでくれても構いませんから。
お願いです。これ以上私を苦しめないでください。
もう、疲れました……
「うぅん……」
冷たくて柔らかい感触で顔を撫でられ、私は夢から覚めた。
私の顔から濡れタオルが離され、視界がぼんやりとしたオレンジ色に染まった。
オレンジの光は、自室の常夜灯だった。その薄明かりの下で、一人の少女が私を心配そうな顔で覗き込んでいた。
茶色の髪を肩下まで伸ばした、瞳の大きな可愛い女の子。
あなたは誰? どうしてここに居るの?
そう問いかけようとしたのに、私の口から出てきた言葉は、
「お母さん…」
だった。
私にそう呼びかけられて少女は顔を強張らせた。
でも、
「うん、そうだよ。ゆり、大丈夫?」
少女は強張らせた顔に無理やり笑顔を浮かべてそう問いかけてきた。
……ああ、そうか。私、寝不足が祟って熱を出してしまい、お母さんに心配かけてしまったんだ。
「うん……」
大丈夫よ。母に対する申し訳なさからそう答えたかったけれど、それよりも側に居てくれた安心感と、甘えたい気持ちの方が勝った。
「……なんだか、怖い夢を見ていたみたい」
「そうなんだ。…どんな夢?」
そう問い返されて、私は答えに詰まった。
「覚えてないわ。でも、とても寂しい気分が…今も続いてるの……」
胸を締め付けるような切なさが波のように押し寄せてきて、思わず涙が零れ落ちた。
お母さんは指で私その涙を優しく拭ってくれた。そのままゆっくりと頬をさする。
温かくて柔らかな手のひらに包まれているうちに、胸の奥にあった寂しさが少しずつ和らいできた。
「お母さんの手……あったかい……」
「うん……」
その手の感触に身も心も預けていると、部屋のドアが控えめにノックされて、別の男の人の声が聞こえた。
「ゆい、お粥ができた。もう入って大丈夫か?」
「うん、良いよ。ゆりさ──ゆりも目が覚めたから」
「そうか」
ドアを開けて、見知らぬ少年がお粥を載せたトレイを手に入ってきた。
見知らぬ少年? 私は何を言っているのかしら。
少年がドアのそばにある室内灯のスイッチに手を触れ、部屋を明るくした。
「お父さん…」
そう、あれはお父さんよ。熱のせいでまだ頭がぼんやりしている。だから夢の気分がまだ抜け切らないんだわ。
お父さんが優しい笑みを浮かべた。
「大丈夫か、ゆり。ほら、父さん特性の卵粥だ。食欲…あるか?」
お父さんが作ってくれたの? 私のために?
それが嬉しくて気持ちが弾んだ。
「うん、あるわ。食べたい」
お父さんがニコニコしながらお粥をお椀に注いでくれた。
お母さんが私の背中を支えて上体を起こしてくれる。
お父さんがお椀を差し出してくれたから、私は口を開けた。
そうしたらお父さん、ちょっと驚いた顔をした。
そうね、私はもう子供じゃないわ。でも…あなたの子供で居たいの。ダメ?
不安と懇願を心に抱えたまま口を開けて待っていると、お父さんはお粥を匙で掬って、息を吹きかけて冷ました後、私の口に運んでくれた。
「熱いから気をつけるんだぞ」
そうね、きっと熱く感じるわ。だってあなたの吐息と想いが込められているもの。
心の中でそんなことを呟きながら、私はお父さんのお粥を口に含んだ。
美味しい……
口の中に広がる塩味とほんのりとした卵の甘さが心地良かった。
私の様子を見て、お母さんもお父さんもほっとしているようだった。
「……美味しいか?」
「うん」
心からそう思いながら、私はまた口を開けた。
お父さんはまた吐息で冷ましたお粥を食べさせてくれた。
あぁ、心が満たされていく……
こんなにも幸せな時間があることをずっと忘れていた気がする。
でも、どうしてだろう。この幸せを噛みしめればかみしめる程、私は泣きたくなってきた。
なんでなのかしら……
私は自分でも気付かないうちに涙を流していた。
それに気付いたお母さんは、私を抱きしめて頭を撫でてくれた。
〜〜〜
翌日、体調が回復した私にお母さんが言った。
「ゆり、今日は学校はお休みしよう!」
「でも、もうなんともないわ。休む理由なんて…」
「実はもう学校には連絡しちゃいました!」
「ええ……」
私が戸惑っていると、お母さんは私の手を握って、微笑みかけた。
「勝手にごめんね。でも、今日は三人で過ごしたかったからさ」
「三人……お父さんと、お母さんと?」
「そうだよ」
お母さんは私の手を引いてキッチンへと連れて行った。
そこでは、お父さんがエプロン姿で待っていた。
「ゆりと一緒にお菓子作りをしようと思ってな」
また随分と唐突な話だったけれど、それでも私は嫌だとは思わなかった。
むしろ、私も二人と同じ時間を共有できる喜びの方が大きかった。
「ええ、一緒にやりましょう、お父さん、お母さん」
何を作るの?と訊くと、なんでも、とお母さんが答えた。
「ゆりは何が食べたい?」
困った質問だわ。
「うーん……じゃあ、ホットケーキが良いわ」
「よし、分かった。任せろ」
お父さんが腕まくりをして、張り切った様子を見せた。
「ふふっ、楽しみにしてるわ」
私はそう言って、お父さんの背中を見つめた。
すると、お母さんが私の隣に立って、肩に手を置いた。
「どうしたの?」
「あのさ、ゆり……」
「なに?」
「あたしたちが居るから……もう寂しい夢は見ないよね?」
「……」
その問いかけに答える代わりに、私はお母さんに抱きついた。
お母さんも優しく抱きしめ返してくれる。
「ありがとう、お母さん、お父さん……」
リビングのテーブルに設置したホットプレートに、混ぜ合わせたホットケーキ生地を焼く。
始めはお父さんがお手本を見せてくれた。綺麗な円形に広げた生地にポツポツと泡が浮いてきたころ、二本のヘラを使って素早くひっくり返す。
ムラのない黄金色の焼き色の表面の下で、生地がふっくらと膨らんでいく。
先ずは一枚、焼き上がったそれを皿に移し、三つに分けて、三人で手掴みで分け合った。バターをひとかけら載せると、じんわり溶けて染み込んでいき、芳ばしい香りを放つ。
口に含むと、しっとりとした食感とともに、濃厚な味わいが広がる。
「美味しい……こんなの初めて食べたわ」
「ゆりも焼いてみるか?」
「ええ」
お父さんに倣ってお玉で掬った生地をホットプレートに広げる。
でも思うように円形にできない。少し歪で、厚さも凸凹してしまった。
「けっこう難しいのね」
ひっくり返すと、生焼けの生地が外側にはみ出して形がさらに歪になる。焼き色だってムラだらけ。
出来上がったのは、お父さん製とは比べものにならないくらい不格好なお菓子だった。
「……失敗しちゃった」
そう呟いたら、お父さんが私の頭を撫でて慰めてくれた。
「誰だって最初は失敗するものさ。俺も昔はそうだったよ」
「そうなんだ……」
お父さんでも失敗してたんだ。そう思うと、ちょっとだけ気が楽になった。
「今度は上手くやるわ」
気を取り直してもう一度挑戦する。
お父さんみたいに上手くできた。
「やったわ! ほら見て、お父さん、お母さん!」
私は思わず笑顔で両親に振り返った。
二人は微笑ましそうに見てくれている。
「上手だぞ、ゆり」
「美味しいよ、ゆり」
二人の称賛を受けて嬉しくなった私は、調子に乗ってどんどん焼いた。
「もっと食べてみて、お父さん、お母さん。はい、あーん」
ホットケーキを切り分けて、フォークで刺した一切れを両親の口元に差し出す。
お父さんもお母さんも躊躇なくパクッと食べる。
「どう?」
「ああ、すごく美味しい」
「デリシャスマイル〜♪」
そうやって三人で笑い合う。
懐かしい。なんだかずっと昔も、こんなふうに誰かと笑いあった気がする。
ああそうだ、少し思い出した。
「ねえお父さん、私、また◯◯◯が食べたいわ」
「◯◯◯?」
「うん…ほら、お父さんが昔、フランスから帰ってきた時にお土産で……えっと、なんだったかしら?」
思い出そうとするけれど、何かが引っかかって言葉が出てこない。
お父さんも顎に指をかけて、考え込んでいた。
「フランス…? 円形で、中に甘いものが詰まった…小麦粉の焼き菓子……」
〜〜〜
ゆりさんが言った「フランスのお土産」に、俺は何かを掴みかけた。
この世界から脱出するための方法、それはゆりさんの思い出に深く結びついたお菓子で、本当の両親についての記憶を取り戻してもらうこと。
そのお菓子のヒントは、小麦粉と卵を材料とした、中にペースト状の甘いものが詰まった円形の焼き菓子。俺はそれをずっと日本のお菓子だと思いかんでいたけれど、そうか、フランス料理か!
「ブリオッシュ…!?」
「拓海?」
「フランスのパンだ。バターと卵をたっぷり使ったフワフワな食感のパン菓子だ」
「へー…美味しそうだね!」
ゆいが無邪気に目を輝かせた横で、ゆりさんも嬉しそうに頷いた。
〜〜〜
三人で交代しながら生地をこね、酵母を加えて発酵させている間に中に詰めるペーストを相談する。
オレンジやリンゴのジャム、小豆餡であんぱん風ブリオッシュ、ドライフルーツを練り込んでもいい。
「シャケとか梅干し入れておむすび風とかどうかな!」
「お母さん、流石にそれはないわ」
「お父さんも同意見だ」
「うわーん、お母さん寂しいよぉ〜」
泣き真似お母さんに、笑うお父さんと私。こうして三人でいる時間は楽しくて、幸せだった。
お父さんとお母さんは、まるで本物の家族のように、私のことを愛してくれた。
私はそんな二人に感謝していたし、大好きだった。
だから、だからこそ……
──思い出すな!
心の一部が叫んでいる。何も考えるな、と。それでも、私は、知りたかった。
本当に欲しかったものを。
そして、確かめなければならなかった。
私の居場所を。
やがて生地が十分に膨らんで、ガス抜きをした生地に、私は小豆餡を詰め込んだ。
フランスで知り合った日本贔屓のパテシィエが作ってくれたという、あんぱん風ブリオッシュ。
お父さんがフランスから送ってくれた手紙に書かれたレシピで、お母さんが四苦八苦しながら私に作ってくれた、そのお菓子。
──思い出すな!
オーブンから漂う香りが記憶の底に染み渡っていく。
──思い出すな!
焼き上がったそれを口に運んだ。
優しい甘さが口の中に広がっていく。
美味しい。
でも、どうしてだろう。
胸の奥が痛くて苦しいのは。
視界が滲んでいく。
気がつくと、頬に涙が伝っていた。
温かい雫が、ぽたぽた、と膝の上に落ちていく。
これは、一体何? わからない。
でも、止めどなく溢れてくる。
拭っても拭っても止まらない。
ああそうか、これがきっと、私の本当。
忘れていた、私の想い。
お父さんとお母さん、大好きよ。
大好きなんだよ……! 本当はずっと一緒に居たい! ずっとここにいたい! あの時みたいにお父さんに抱きしめて欲しい! お母さんに頭を撫でてもらいたい! なのに、私は……!
私は、自分の正体を知った。
ああ、あぁ、お父さんは死んだ。私の目の前で死んだ!
私が殺した妹の遺骸を抱いて、そして私を庇って………
お父さん、お父さん、お父さん……っ!
私が、妹とお父さんを殺した!!!
〜〜〜
焼き上がったブリオッシュを三人で食べ始めた時、ゆりさんが泣き出した。
「お父さん…」
そう呟きながら涙を流した時、世界が揺れた。
「地震か…?」
「拓海!」
ゆいが咄嗟にゆりさんに駆け寄りながら、俺に向かって窓の外を指差した。
空にひび割れが生じて居た。ガラスの破片が砕け散るように、空から欠片がこぼれ落ちていく。
この感覚には覚えがある。仮想世界が書き換えられる前兆だ。
空から欠片が溢れ落ち、その向こうに別の空間が広がっていた。そこから、一人の黒い人影が姿を現したのを目にして、俺はベランダへ飛び出した。
「アニマーン!」
「おめでとう、品田拓海。見事に正解を引き当てたわね」
黒いドレスを身に纏ったアニマーンが拍手しながらそう言った。
「アニマーン、ゆりさんは正気を取り戻して世界は壊れる。そうだよな!?」
「もちろん、その通り。この世界は壊れる。ただし、月影ゆりの心と共に!」
アニマーンの言葉と共に、俺の背後で、ゆりさんの絶叫が響き渡った。
「ゆりっ! ゆりさん、しっかりして!?」
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
ゆいが必死にゆりさんを抱き起こそうとするが、ゆりさんは虚ろな表情で謝罪を繰り返している。
崩れて行く世界の空に、黒いドレスを身に纏い、片翼の黒い羽を広げた少女の姿をしたアニマーンの嘲笑が響き渡った……
その1
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その2