やりたい放題のツケ 前編
委員長わからせハワトリア内の高級ホテルにて
サバフェスを取り巻く一連の事件をすべて解決した日の夜、役目を終えた正常化委員会会長、AAAは、事態の解決に尽力したマスターを労う、という名目でホテルの一室をおさえ、そこでささやかなディナーを催した。
もちろん本来の理由は別にある。この夏、大まかな環境、ルール整備を初日にサクッと終えた彼女は、マスターたちが事態の解決に向けて悪戦苦闘している影で、嫌がる赤髪の刀鍛冶を無理矢理連れ出し、視察の名のもとにハワトリアの娯楽をことごとく堪能していたのだった。
このディナーもまたその一環であった。サバフェス期間中は、分離したもう一人の自分に遠慮したこともあって、マスターたちとの顔合わせは最後の最後になってしまったが、こうして全てが終わった今であれば遠慮をする必要はない。ループ期間中にほとんどの娯楽をやり尽くしたAAAにとって、マスターとの会食は、最後に残ったお楽しみであったのだ。
故に、彼女は目の前の状況に困惑を隠せずにはいなかった。テラスの環境は魔術によって快適さを保っている、部屋から見える景観は目を見張るほど美しく、テーブルに並ぶ料理の出来栄えも見事なものだ。だというのに、彼女の目が、他者の心を映す瞳が捉えているマスターは、どこか居心地が悪く見えるのだ。目線は常にやや下を向いており、こちらを見たかと思えばすぐにまた目を反らし、口数も少なく、会話の最中でも上の空であった。
決してディナー自体に不満があるわけではない。食事の際や、景色を見渡したときは喜びの感情が増していたことからも、それは明らかだった。反対に負の感情が増していたのは、彼女がハワトリアでの体験を話していたときだった。
妬み、憤り、自嘲、それらがないまぜになったような、澱みのような心情。それがいったいどのような理由で生まれているのか、AAAは理解できないでいた。
それでも、待ちに待ったこのひとときを、後味の悪い思い出にはしたくはない。だから彼女は、意を決して踏み込んだ。
「あの…立香?何か気に病むようなことがあるのですか?」
「うん、まあ……。あるかな……。」
そう、歯切れの悪い答えを返して、マスターはまた、AAAから目を反らした。申し訳なさげに、罪悪感に満ちたような笑顔を浮かべながら。
(分からない…何が彼にこんな……こんな思いを抱かせているのでしょう……。)
考えても考えても、AAAはその答えを導けなかった。そして……
(ううん、でも……)
「そうですか。ですが、せっかくの祝いの席ですから。どうか今は、憂いを忘れて、このひとときを楽しんで頂きたいのです。」
ひとまず、置いておくことにした。その悲痛な顔があまりにしのびなかったから。その憂い事が、そのような態度をとらせているのなら、一旦忘れてしまった方がよい、と。そう思ったから。
その判断じたいは間違いではなかった。マスター自身、自らが抱いている感情が八つ当たり、逆恨みそのものであることを自覚していたから。そのせいで目の前の彼女に気を遣わせてしまったことに責任を感じていたから。忘れてしまう、という方向に舵を切ったまでは、AAAに過失はなかったのだ。その直後に放った言葉こそが、その夜の流れを決定付けたのだ。
「それに、せっかくこうして着替えたのです。そう目を反らされては、この装いになった甲斐がありません。気付いていないかもしれませんが、これは、立香が望んだ姿なのですよ?……っ!?」
瞬間、再び負の感情が増した。しかも今度は、先ほどまでの比にならないほどに濃く、激しいものだった。あまりの変容ぶりに、AAAはただ戸惑うしかできなかった。
「……アルトリア、ちょっといい?」
常と変わらない口調で、それでいて有無を言わせない雰囲気で、マスターは席を立ち、AAAは戸惑ったまま、彼の背を追って部屋の中に戻った。
「あの…いきなりどうしたのですか?何がそんなに、気に障って…?」
先ほどまでの優雅さは消え失せ、腫れ物に触るように、AAAは訪ねた。
「……オレが望んだ姿だって、さっき言ったよね?ということはさ、オレのために、その姿になってくれた、って思っていいんだよね?」
「は、い……。」
マスターは口調を変えずに、AAAに問い返した。普段の彼女であれば得意げに肯定しただろうが、目の前の少年の内にある激情に気圧された状態では、ぎこちなく頷くしかできなかった。
「だったらさ…なんで会いに来なかったの?」
「え…?」
「2日目からはずっと観光してたんだよね?村正を連れ回して、何週間も島中の娯楽をたっぷり楽しんでさ。だったらオレに、オレたちにだって会いに来れたはずじゃない?どうして顔のひとつも見せないでいたのか、聞かせて欲しいな。」
「え、えーと……それは、ですね…」
(これは…もしかして……嘘でしょぉ)
ここに至って、AAAはようやく、マスターの不機嫌の原因を察した。それはおよそ正当性のない、他者への劣等感から来る『嫉妬』。彼女にとってこれはあまりに想定外の事態であった。確かに、かつて妖精國で、彼女がマスターの内面を垣間見た際、劣等感に該当するものはあった。しかしその感情は、既に自己の内で完結したものであり、こうして露になるようなものではなかった。初めて見る反応に内心大慌てになりながら、AAAは弁明を試みる。
「この夏は、妖精國の『あの子』のためのものでもあって…。だから、あなたとの時間を邪魔する訳にもいかないと思ったから、敢えて顔見せはしないようにしていたのです。ええはい、それだけです」
嘘ではない。彼女は本心からそう思い、自身から分離したキャスターを想い、マスターたちの前に現れることを極力控えていたのだ。
「それはきっと、本心なんだろうね。あの子のことを想ってのことだろうけど…。でもさ、それでも避けすぎじゃない?あと1日遅かったら、何もかも台無しになってたんだよ?」
だが、マスターの心には届かない。いくら本心からの理由であろうとも、道理を弁えたものであっても、それが納得に繋がらなければどうしようもないのだ。
「ああ、違うな。こんなことを言いたいんじゃない。オレはただ、イヤなんだよ、アルトリア。」
「な、何がイヤだというのでしょう」
精一杯の強がりを見せるAAA。しかし、冷や汗を垂らし、声を上ずらせながらでは、虚勢にさえならなかった。
「きみに避けられるのがイヤだ。きみとの時間が、この一晩だけで終わるのがイヤだ。オレのために誂えた衣装で、オレのことをそっちのけで、オレ以外の男と楽しく過ごしているのがイヤだ…!みっともなくて、情けない、逆恨みで、八つ当たりだ。勘違いで筋違いな、恥ずかしいだけの嫉妬心だ。」
怯えた顔を浮かべる彼女をじいーっ、と見つめながら、負の感情に満ちた言葉を吐きながら、マスターは一歩ずつ、近づいていく。
「でもさ、オレだって、人並みに独占欲があるんだよ。好きなひとには側にいて欲しいし、いつだって一緒にいたいし、オレだけを見ていて欲しい。」
「で、ですがそれは……!」
「それは、何?」
「それは……その感情は…あの子との交流で生まれたものでしょう。だから、私ではなく、どうか彼女へ愛を注いであげてください。」
マスターの気迫に圧されながら、なおもAAAはキャスターの話を持ち出し、どうにか穏便にことを収めようとしていた。が、結果として、その悪あがきは無意味に終わった。
「注いでるよ。毎日たっぷり。」
「へ?…………ゑっ?」
「2週目の夜中に作戦会議してたら、なんか話が逸れてそういう雰囲気になってさ…。その流れで告白して、そのまましちゃったら、お互いどハマリしちゃって。それからは毎日、時間を見つけては場所を選ばず、って感じ。」
「嘘ぉ!?」
(ちょちょちょちょっと!どうなってるの私ぃ!?いくら相手が立香だからって爛れ過ぎじゃない!?)
善意で別った分身が初心な恋路を歩んでいるかと思いきや、インモラル全開だったことにショックを隠せないでいたAAAだが、マスターはお構い無しに追い打ちをかけた。
「ねぇアルトリア。自分で言ってたよね?『中身はあの子と同じ』、『あの子と同じように接して欲しい』って。」
「あぅ…それは、そうですが……」
混乱で回らない頭で必死に反論を考えるAAA。しかし、それらしいことを言うには、時間の余裕も、心の余裕も、あまりに足りなかった。
「だから、その通りにする。あの子を想っているのと同じように、キミのことも想っているから。さんざん自分でアピールしたんだから、今さらナシとか、言葉の綾とか……言わないでね?」
「あ…あぁ…ま、待ってください立香、こういうのはちゃんと、然るべき流れの────んむうっ!?」
往生際の悪い口を、マスターは強引に黙らせた。そのまま流れるように舌を彼女の口腔に挿し込み、言い訳ばかり紡いでいた舌をねっとりと絡めとり、丹念に舐め回す。
「んー!んむっ!んんぅ…!ん…んふ…」
(あぁ…ダメ…抵抗しなきゃ、なのに……。舌が触れるたびに、頭がふわふわして……何にも考えられなくなる…骨抜きにされちゃう……)
AAAは押しのけようと腕を伸ばすが、初めて味わう濃密な口付けの快感に力を入れることも叶わず、ただ為されるがまま、唇を差し出すしかできなかった。
そのまま20秒ほど経ったときだ。それまで弱々しくマスターの胸板を押していたAAAの腕が、今度はマスターの背中に回り、ぎゅう、と彼の服を握りしめた。
(立っていられなくなったんだな…。キャスターとそっくりおんなじ仕草しちゃって、ほんと、なに別人気取ってるんだよ。)
彼女が限界を迎えつつあることを察したマスターは、その華奢な身体を抱きしめたまま、目の前のベッドに倒れた。
「んむ…んんっ……ぷはっ……あ…」
繋がっていた唇が離れ、AAAは蕩けた顔で、茫然と目の前のマスターを見上げていた。映し出された色を見て、言葉を失っていた。
「本当は、今晩だけじゃなくて…明日も、明後日も、ずっとこうしていたいんだけどね。それでも、きみが一緒じゃなかった時間よりはずっと短いけど。」
嫉妬、執着、支配、恋慕、愛欲。それらが、彼女の目に映ったもの。自身に有無を言わせない言動のすべて。それらがひとえに『愛』ゆえのものであると、彼女は理解せざるを得なかった。
「そうする訳にもいかないからさ。だから、今まで一緒にいれなかった分と、これから一緒にいれない一週間分まで、きみのことを愛して、愛して、愛し尽くしてあげる。悪いけど、イヤって言っても、絶対に止めないから。」
「あ…あぁ……や、まって、りつ───」
そうなれば、キャスターと同じ、『春』の思い出を持つAAAには、彼の愛を受け入れるしかできなかった。