も元社長と元エージェント
元社長と元エージェント
ATTENTION
・目指せ鰐癒
・実質的セカンドレイプ
・捏造
・看守の人が書きましたがそういったシーンは少ないです
・カップリングの意図はありません
──思えば今日は最悪だった。
昼過ぎから降っていた雨は結局やまず、窓を雨粒が打ちつける音が聞こえる。ため息をついてベッドに腰かければ、ヴィンテージ物と言い訳もできないほど傷んだベッドはミシリと鳴った。
ろくに体を拭いていないから風呂上がりの体は濡れていて、水滴が垂れては布団に染みを作る。タオル地のバスローブを羽織っているのはいいが、安物であるため水を全く吸い取ってくれない。
あまりにも座り心地が悪いので座り直せば、バスローブが直に乳首を擦って腰が痺れた。
「……っ!」
最低だ。
葉巻でも吸いたい気分だが、手持ちは雨にやられてダメになってしまっている。
水。
サー・クロコダイルの弱点の1つ。
能力の制限というのはやはり大きい。クロコダイルは水が好きではない。もちろん雨なんてもってのほかだ。
だから今日、急な雨に降られて気分は底辺近くまで落ちた。
インペルダウン脱獄後、クロコダイルは金を集めていた。決して借金などではなく、入獄前に隠しておいた財産の回収である。
見つかってしまっては大変なので細かく分けていたのだが、それが良くなかった。一度に入る金が少なく、宿代にも苦労する始末だ。
何とか葉巻を買ったはいいものの、それも雨でおじゃん。ついでに唯一の火種であるマッチもダメになってしまった。以前湿気でダメになった葉巻を能力で乾かしたことがあったが、あれは酷かった。風味が完全に損なわれてしまったのである。
かくしてクロコダイルは唯一の嗜好品を失った。クソったれと心の中で呟くが、その愚痴に魔法などなく濡れて重たくなった服と葉巻がどうにかなるわけでもない。
機嫌の悪い元社長を見て、部下は財布に手をやる。
「街に戻って、葉巻買ってきますか?」
「いや、いい。金は残しておけ。それに葉巻を買うくらいなら傘を買う」
クロコダイルとダズは雨の中、野道を歩いていた。素性がバレて騒ぎになるのも面倒なので、街ではなく低い山を越えた先にある村で宿を借りていたのである。その村の識字率は高くないと見えて、紙面を賑わせた海賊が身を隠すにはもってこいだったのだ。
スーツを着た大男2人が傘もささずに濡れているというシュールな光景だが、致し方ない。節約の文字を胸に刻み、雨の不快感を甘受する。
新世界に備え、資金は持てるだけ持っておきたい。一度は捨てようとした夢に何を求めるのか。もう勝てなくなってしまった男のいない海で何を目指すのか。それがわかっているのに、諦めるような真似をする気はない。
2人は黙って進んだ。雨の音と、時折鳥獣の声が聞こえる道を踏む。ぬかるんだ道が2人の革靴を沈ませては、スラックスを泥はねで汚した。
2人が身にまとっているスーツはかなり上等なものである。「おれと来るなら服くらいちゃんとしろ」と、クロコダイルがわざわざ買ってきたのだ。それが金欠の一因でもあるのだが、部下として認められたような気がしてダズは嬉しかった。
そのスーツを汚してしまったことにダズは不甲斐なさを感じる。
「失礼します」
「あ? おい何してる」
断りを入れるやいなや、ダズはしゃがんでクロコダイルのスラックスの裾を折り込んだ。気休めにしかならないが、何もしないよりいいだろう。
クロコダイルはその様子を見てため息をつく。
「気にするな。まとまった金が入ればクリーニングに出すなり新しく買うなりどうとでもなる」
「……はい」
ダズは自分のスラックスも折って、また歩きだす。
降り始めはいつか弱まるのではと期待していたが、むしろ雨は強くなる一方だった。
山を越えると村の酒場が見えてきた。この村には酒場が多い。昼でも夜でもどこかしらで呑むことができる。
もう午後だが、2人は朝から何も食べていない。宿は村の反対側にあるので、体を休めるより先に食事をとることにした。
一番近くにある店の戸を開くと、客が酔いに任せて大騒ぎしている光景が目に飛び込んできた。中には盛っているカップルや、娼婦らしき女もいる。クロコダイルの片眉が不快感に釣り上がった。
しかしこの辺鄙な村で贅沢は言っていられない。それにいまさら、雨の中引き返す気もない。
「いらっしゃい。何にしやしょう?」
カウンターの奥にいるよぼよぼの老人が2人に声をかける。彼が店主なのだろう。
バカ騒ぎをする男どもをかき分けて、カウンター席に腰を下ろした。濡れたクロコダイルたちを見ても何も言わないあたり、タオルを貸してくれそうな雰囲気ではない。
濡れた男は2人、壁に貼られたメニューを眺める。店の治安は悪いが料理には力を入れているらしく、なかなかの品揃えだった。
何を食べるか決めたらしく、クロコダイルが視線を壁から戻す。
「ドライトマトとサンドイッチ。……お前は?」
訊かれたダズは一瞬困ったような顔をして、
「……フィッシュアンドチップスで」
たっぷり間を空けてから答えた。
「酒はいいんですかい?」
「要らねェ」
「へい、わかりまして」
注文を書き留めた小柄な店主は、いそいそとバックヤードに向かう。よく見ればエプロンは古びているものの目立った汚れはなかったし、髪は丁寧にバンダナにしまわれていた。これでも衛生面には気を配っているらしい。
「思ったよりちゃんとした店ですね」
「あー、そうだな……」
気の抜けた返事をするクロコダイルに、ダズは怪訝な顔をする。気にかかることでもあるのだろうか。
「どうかしました?」
「いや……」
言葉を濁したクロコダイルは壁のメニューを一瞥すると、突然店主を呼び止めた。
「おい! プロシュートのイチジク盛りも頼む」
「へーい」
適当な返事をして、店主はバックヤードに消えた。
「アンタが生ハム頼むなんて珍しいですね」
その言葉にクロコダイルが露骨に顔をしかめる。
「違う。お前の分だ」
そしてさっきのように大きくため息をついた。
「金は残しておけとは言ったが、そんな気遣いするんじゃねェ」
「バレてたんですか」
注文の時に悩んでいたことは見透かされていたらしい。空回りしたようで恥ずかしく、ダズは軽く赤面した。
その気持ちを推し量ってか、クロコダイルは話題を変える。
「さっさと食ってここ出るぞ。変な奴らもいるしな」
風紀が乱れた酒場にびしょ濡れのスーツの男2人という組み合わせは少々浮いていた。何人かが指を指してはヒソヒソと話し合っている。卑猥な単語も飛び交っていた。
結局2人は昨日の夜ぶりの食事を10分足らずで食べ終えた。腹もそれなりに膨れたし、味もそこそこで、この店を選んで正解だったようだ。
会計を済ませ、店を後にしようとしたその時、ダズが気まずそうにクロコダイルに耳打ちした。
「あの、便所行ってくるんで先に宿向かっててください」
そして返事も聞かずそそくさとトイレに行ってしまった。
互いにいい歳した大人なのだし、置いていっても何も問題あるまい。そう判断して出口に向かい──腕を引かれた。
「アンタ、いい身体してんね」
見れば、呑んだくれの金髪男がクロコダイルの右腕を掴んでヘラヘラ笑っている。バカ騒ぎをしていた集団の1人だ。
「あ?」
不躾な言葉に対し威嚇してみるも、酔っ払いの男は笑みを崩さない。むしろ楽しくて仕方ないといったふうにバンバンと肩を叩いてくる。
「ねーえ、イイコトしようよ」
この男は相手を探しているだけか。それともそういった商売か。
男はクロコダイルの前にまわってベタベタと体を触りだす。
「ケツもおっぱいも大きいじゃん」
どちらにしても、下品で不愉快極まりない。
「こんなにおっぱいデカいんだったら、開発とかもしてるでしょ?」
そして無神経にも触れられたくない話題を出してくる。
──切り裂いてやる。
短絡的で刹那的な殺意が灯る。
「そんなに怖い顔しないでよォ」
──鉤爪を振りかぶって……。
「仲良くしたいだけだもん」
呼吸が乱れて、ヒュッと掠れた息が漏れた。
『そりゃあ、仲良くしようってだけさ。なァ?』
いつかの男の言葉が、姿が、目の前の男と重なる。
──逃げなくては。
本能が警笛を鳴らす。いつもより速くなった鼓動が危機感を脳に運ぶ。吹き出す汗の不快感が記憶の扉を開いていく。そして現状を理解する。
この店はそういう場なのだ。さっきの盛っていた男女もおそらくはカップルではなく行きずり。合意でもそうでなくても、この店では性行為が許されている。
そんな場に、自分がいるのは危険だ。たった一言で思うように息もできない自分がいては、まずい。
1歩、右足を後ろにやり、1歩、左足を後ろにやる。また1歩、右足を後ろにやろうとして、右足が左足と絡まった。
「うあっ!」
尻もち。
その隙に金髪男はクロコダイルの腹に跨る。仲間であろう他の男も寄ってきて、手足を押さえつけた。
身動きを許されない不自由さが、記憶を鮮明に蘇らせる。会議の前、思いどおりに動かなくなった体を辱められた。体を隅々まで晒され、絶頂させられ、その全てを見られた。痙攣だとか、涙だとか、全て。
呼吸が乱れる。
脳の危険信号のままに男たちを振りほどこうとするが、力が入らない。
「おしゃれさんだー。洋服もかっこいい」
当の金髪はニヤニヤとしたままクロコダイルのアスコットタイを乱暴に引き抜いた。そのままベストのボタンも外し、シャツのボタンに手をかける。
シャツの下には絆創膏を貼った乳首がある。それだけは見られたくない。
「や、やめろっ!!」
「えー。やだよ」
ボタンが1つ1つ外されていく。抵抗したいのにそれは叶わない。
雨音が聞こえる。水の音。水。例えば、シャワーだとか。
「や、やめっ……」
震えが収まらなくなる。目に膜が張って視界が歪む。言葉が喉で詰まったみたいに上手く話せない。
金髪はボタンを外し終え、シャツに手をかける。そしてそれを一気に開こうとして、金髪は、吹っ飛んだ。
つい1秒前までクロコダイルの上にいた男は、床で伸びていた。
クロコダイルが状況を把握するより先に、頭上から聞き慣れた声がする。
「てめェら、何してる」
ダズの声はいつもよりやや低く震えており、静かに怒っていることは明らかだった。
これが命の危機であることを理解した男たちは、クロコダイルからさっと飛び退く。
四肢が自由になっても仰向けのまま放心するクロコダイルに、ダズは手を差し伸べた。
「大丈夫ですか?」
クロコダイルの反応は、ない。
ダズは例の事件を噂程度ではあるが知っていた。そして、クロコダイルの体質がすっかり変わってしまっていることも。そればかりかイキ散らして動けなくなったクロコダイルを介助することだってある。しかし、今までこうなったクロコダイルを見たことはなかった。
ダズは床に背をつける上司の肩に手を回す。そして抱くようにして起こそうとした瞬間、クロコダイルが腕の中からはじけ飛んだ──そう形容できるほどの勢いだった。
そのまま床に転がったクロコダイルは怯えるような目付きでダズを睨み、ダズは傷ついたような顔をしてクロコダイルを見つめる。
しかしそれは一瞬のことだった。次の瞬間にはクロコダイルの表情から恐怖は消え、驚きが浮かび上がる。
クロコダイルは混乱のあまり、部下からの助けを手酷く拒絶したことを理解した。
宿までの道中、2人は何も喋らなかった。
宿に着くと、クロコダイルは風呂場に駆け込んだ。洗い流したい気分だったのだ。何を、というわけでもないがとにかく綺麗になりたかった。
脱衣所で服を乱雑に脱ぎ捨て、浴室でシャワーを浴びる。そしてシャンプーをし、体を洗い……ルーティン的に作業をこなしていく。
勃っている乳首に絆創膏が貼られていること以外は、普通の人のようにふるまった。シャワーを浴びるだけで感じてしまい、勃起していること以外は普通の人のようにふるまった。
異常な体質などないかのように体を洗い終え、クロコダイルは絶望する。鏡には乳首に絆創膏を貼り、陰茎を反り勃たせた惨めな男が映っていた。
──何が普通だ。
シャワーだけで何度痙攣した? なぜ体を洗うだけで下半身に熱がこもる?
どうして自分より遥かに弱い相手に抵抗できない? 部下を拒絶する必要はあったのか?
鏡越しに自分を睨みつけ、右の絆創膏に手をかける。
爪をひっかけ端だけ剥がす。そしてそれをつまんで勢いよく剥がした。
「あッ! ~~~ッ!!」
嬌声と射精、どちらが先だったか。
快感が身体を貫いて、クロコダイルは膝から崩れ落ちた。精液の上に転がる形になったが、痙攣はやまない。
みっともないと、心底思う。しかし体質は一向に改善しない。精液の熱が鬱陶しい。
クロコダイルは荒い息のまま左の絆創膏にも手をかけた。
震える手で絆創膏をつまみ、深呼吸する。これを剥がせばどうなるのか理解しながらも、また勢いよく絆創膏を剥がした。
「んあッ!! ……っ!」
声も痙攣も性感も制御できず、蹲ったまま体を震えさせる。
せっかく洗った体は汚れてしまった。
酒場では口先だけで拒絶した。しかし、どうだろうか。体は思うようにいかないのだ。どうして快感なんてものがこの身を走る。
そのまま動かないでいると、ドアが開く音がした。
いつものようにダズがタオルを持って入ってくる。普段ならここでクロコダイルが体を起こすのだが、今日は蹲ったままだった。
訝しみながらも、ダズはタオルで拭くことにする。湯冷めして風邪でも引いては大変だ。
優しく撫でるようにして体を拭けば、クロコダイルはぴくりと体を震わせた。そして、口を開く。
「……お前はおれをどう思う?」
「え?」
体を拭く手が止まった。ダズはただ当惑する。質問の意図が全くもって理解できないのだ。
「みっともないと思うか?」
「そんなことっ……!」
自嘲するように問いかけるクロコダイルの顔は見えない。嫌な予感だけがダズの心を埋める。
「なァ、本当のところどうだ? あんな男たちにいいようにされる弱い男をどう思う? シャワーでイッてるなんて哀れだろ?」
僅かだが語気が強まっていく。
そこに込められているのは、怒りか失望か。
「しかもそれの後始末までしてもらわなきゃならねェ……いや、本当に可哀想なのはお前か、ダズ」
興奮したようにまくし立てていたクロコダイルが、急に静かに呟いた。
「は? アンタ何言って──」
この続きを聞いてしまえば、互いの関係が変わってしまう。本能に近い何かがダズに囁いた。
どうか言わないでくれと願うが、ダズの祈りは届かない。だってこれは端から会話などではなく、とても暴力的な自傷行為だったのだから。
「だってそうだろう?」
クロコダイルがゆらりと上半身を起こす。
「わざわざインペルダウンまで付いていって、脱獄にも戦争にも巻き込まれて……それでやることがその男の体から精液を拭き取ることか?」
クロコダイルは、笑っていた。
愉快だと言わんばかりの笑みを浮かべている。
自棄になっていることにダズは気づくが、彼にはどうしようもない。クロコダイルは問うようにして、ずっと自分自身に語りかけていた。互いの言葉はきっと断絶されている。
乱れた髪の間から覗く瞳には、狂気にも近い光が宿っていた。
「雑魚どもに襲われるおれを庇って、帰ったら女よろしく感じてるおれの後処理して。これだけ聞くとお前が娼婦みてェだな」
「そんなつもりは、全然……」
何とか言葉を返すが、ダズには正しい答えがわからない。何を伝えたらいいのか皆目見当もつかなかった。
対してクロコダイルは「クハハッ」と声を上げて笑いだす。
「おれは殺し屋だったお前を、海賊に誘ったわけだ。それで誘いに乗ってみればイッた上司の後始末。本当に不満に思ったことはなかったか?」
「おれは、一度もそんな……」
気迫に押されてダズがまごつく。
その様子を見たクロコダイルは、互いの地雷を踏み込む。
「一度も不満に思わなかった? じゃあ、満更でもなかったわけか」
「何をっ……」
「なら、抱いてみるか?」
そう言って、ニヒルに笑う。
瞬間、ダズは激しい怒りを覚えた。
理性など全て消え去り、残った激情のままクロコダイルの肩を掴む。
「ふざけるなっ!!」
そのまま唾が飛ぶほどの勢いで怒鳴った。
「おれはそんなつもりでアンタに付いていったわけじゃねェ!!」
声帯が激しく震え、怒りの丈をぶつける。
爪が肩に食い込む。
「おれが! 夢見たのは!! アンタの──」
「やめろ!!」
クロコダイルの叫び声がダズの理性を呼び戻した。そして理性は無情にも、ダズが何をしでかしていたのかを伝える。
ダズの目の前にいたのは、裸で肩を掴まれ、怒声に怯え震えている上司だった。
怒りはうち消え、後悔と自責が後釜に収る。
クロコダイルの状態は承知していたはずだ。酒場での騒動だって、忘れるはずもない。だというのにダズは、クロコダイルのトラウマを刺激してしまった。
「あ……」
青ざめたダズが手を肩から離す。
ダズは後ずさりして、クロコダイルから離れた。そして「すみません」だとか何とか呟いて、逃げ出すように風呂場から出ていった。そして必要最低限の物だけ持って、宿から出ていってしまった。
ドアの開閉音でクロコダイルはダズが去ったことを悟る。
クロコダイルは八つ当たりで部下を追い出してしまった事実に、愕然としていた。
古びたベッドの上で、クロコダイルは一連の騒動を思い返していた。
どう考えても悪いのは自分である。
部下を拒絶し傷つけたことに飽き足らず、その心を踏みにじった。許されない。許されたいとも思えない。
雨はまだやまない。ダズはどうしているだろう。ダズが出ていってそれなりの時間が経っている。他の宿でも取っていてくれたらいいのだが。
そこまで考え、いまだにダズの上司面をしているという事実に辟易する。
ダズは出ていったのだ。もう帰ってこない。財布だってなくなっていたし、何よりこんな男のところに戻りたいはずがない。
金のことは手痛いが、当然の報いである。
むしろその方がダズにとって幸せかもしれない。こんな情けない男の下にいるべきでない。
殺し屋に戻ってもいいし、賞金稼ぎをしたって、どこかの船に乗って海賊をしたっていい。スパイダーズカフェに務めてもいいかもしれない。
とうの昔に冷えてしまった体で考えていると、階下から足音が聞こえてきた。
雨の中の駆け込み客かと思ったが、それにしてはどうもおかしい。足音はどこかで止まる気配がない。それどころか行き先が決まっているようである。
足音の正体に思い至り、しかしすぐさまその仮説をうち消す。
まさかそんなわけがない。きっと客の1人が外出していただけだ。
だから期待するな。
まとまらない思考と取っ組み合いをしていたら、足音が止まった。この部屋の前だ。
次に解錠音とドアを開く音がした。
足音が廊下を通り、クロコダイルがいる部屋の前で止まる。
──ガチャリ。
開かれたドアから見えたのはよく知る男の顔だった。
「すいません、今戻りました」
クロコダイルは部屋に入ってきた男を静かに見つめる。
ぐしょ濡れのスーツ姿の男は紛れもなくダズ・ボーネスである。
驚きのあまり何も返せないでいるとそれを怒りと受け取ったのか、ダズは言い訳を始めた。
「買い物しようとして、リラックス効果とか、で、金持って出てったまでは良かったんですけど店の場所はわからないし、実際見てみたら高いし、それで安い店探して──」
「待て。買うって何をだ」
「あ。これ買ってて……」
ダズがクロコダイルの前に差し出したのは、薄紫色のアロマキャンドルだった。子どもの手のひらほどのサイズしかない。
そのアロマキャンドルは雨の中持ってきたにしては奇妙なほど濡れていなかった。しかしダズにバッグを持っている様子はない。クロコダイルは思わず、ダズがアロマキャンドルを庇うように抱いて夜道を歩く姿を想像した。
とても間抜けで、とてもシュール。だがそれはおそらく正解だろう。
財政難に気を遣い安い品を探しただけでなく、傘すら買わなかったようだ。
そして1つ、気になる点を見つける。
「おい、ダズ。買い物はそれだけか?」
「はい」
「このキャンドルだけ?」
「そうですが、どうかしましたか?」
何も気づかず首を傾げるダズにとうとう耐えきれなくなったのか、クロコダイルは吹き出した。
「クハハハハ。お前、雨でマッチがダメになったの覚えてねェのか?」
「あっ!」
火種がないのにアロマキャンドルが使えるはずがない。
ずっと緊張した面持ちだったダズは途端に顔をしかめる。
「やらかした……」
呻くように呟いたダズの手から、クロコダイルがひょいとアロマキャンドルを取り上げた。
「……火種は明日にでも買えばいい」
それは、明日も部下でいていいということだろうか。
「そうですね」
ダズは言葉の裏を勝手に想像し、それに返事をする。
気づけば喧嘩はなかったかのようになっており、2人は二言三言話して就寝準備を始めた。
ちなみに、翌日クロコダイルからダズに謝ったのはまた別のお話。