もしものもしかしたら、の話

もしものもしかしたら、の話


  日誌と妖刀と、自由な男と眠り続けた獣と。


吹雪と呼ぶには緩やかな風と雪の中を、それでも雪原には似つかわしくない服装で進む。

どこまでも真白な景色をただひたすら真っ直ぐに進み、そうして唐突に止んだ音に歩調を緩めた。

『よぉ、まだ起きねえのか』

かける声に応えるものはない。

『俺の方が動き回るのに慣れてるとはいえお前のが年下だぞ、寝すぎだろ』

なあ、と目の前に壁の如く佇む黒い塊に触れる。

ふわふわとした手触りのそれには確かに生命としての温もりがあった。

ごく浅い拍動が触れた箇所から伝わってくる。

雪が積もる僅かな音も、風鳴りの音も、彼が踏みしめてきた音もここでは等しく無となる。

男は――ロジャーはそれでもその塊に話しかける事を止めない。

『いつまでここに居るんだよ。あいつはとっくにそこにはいないのに』

手を離し、塊を見上げる。

空から見ればこれが巨大な黒い狼が丸くなっているものだと判るだろう。

その中心にある古びた木箱を守るようにしっかりと囲み、僅かにその周囲に黒い幕のようなものが張られている。

丁度ロジャーの真上辺りに顔らしき場所が見えるが、ここで見つけてから一度として開いたところを見た事が無い目はどんな色だろうか。

『いつまで空箱を抱えてるつもりだ』

僅かに漏れた覇気に反応したのか耳がぴくりと動く。

だがその目が開かれる事はない。

当然か。

なにせこの獣は少なくとも十年以上、ここで眠り続けているのだ。

空の木箱を抱き込んで、誰にも渡すまいと閉じ込めるように。

箱の中身を、誰にも傷つけさせまいと護るように。

『護りてぇならとっとと起きやがれ。あいつは……ローは、このままじゃお前に引っ張られて先に行けない』

自分が処刑された後に支えとなった相手がこれほどまでにローを想い、護ろうとしている事は有難い。

だがやり方が駄目だ。

『宝箱の中にはもう納まらねえよ、あいつもう190越えてんだぞ?』

あのちびっこが伸びたもんだよなぁ、と笑い、ふと目を鋭く細めて睨み上げる。

『護られるだけのガキじゃなくなった今、それは只の執着だ。あいつの自由を妨げる枷だ』

凪いだ空気が弾かれるように、ロジャーの覇気に押されて罅割れる。

『俺ぁローの自由を望む。それを邪魔立てすんならいっそもう成仏しちまえ!』

手元に現れたカットラスを頭上の獣に突きつけ、そう高らかに叫ぶ。

ロー。

自由。

どちらに反応したのかは判らない。

判らないが、獣の頭が僅かに浮かされた。

『……、ロ゛、ォ……』

酷い声だった。

眠り続けていたせいか、その閉じられたままの瞼から滝の様に零れ落ちる涙のせいか。

『やぁっと起きやがった、この寝坊助め』

鼻を鳴らしてカットラスの峰で肩を叩く。

無音が破られ、静かに降る雪に嗚咽だけが響いている。

『おら泣いてる暇ねえぞ』

『いでっ!?』

足元を蹴り飛ばせば丁度前足だったのか固い触感と悲鳴が返って来る。

初めて拝んだ目は水平線に沈み消える直前の夕陽の色だった。

『たっぷり寝溜めしたんだ、こっからはきりきり働けよ』

『いやあの、まずあんた誰……いやまさか?』

ずいと狼の顔が近づき、手配書が聞いてた容姿が、と一人混乱しながら首を傾げていたが思い至ったのか恐る恐るといったようにロジャーに向き直る。

『海賊王……ゴールド・ロジャー、とか言ったりする?』

『おう』

『ええええ~~~!?!?』

身体に見合った巨大な口から特大の悲鳴が放たれ、衝撃破すら伴うそれを「うるせえ」の一言と耳に指を突っ込むだけで交わす。この程度なら新世界の海王類の方が強い。

思わずとばかりに立ち上がったその大きさに感嘆の声が漏れる。

巨人族と並んだら丁度同じくらいになるだろうか。

今まで丸まっていたせいで見えなかったがその四肢にも強靭な筋肉がついている。

『じゃあローが言ってた日誌書いた本人!?』

『ローが日誌の事話したのか?』

『ああ!すっごく大事にしてたから気になって聞いたら教えてくれたんだ。と言ってもだいぶ経ってからだったけど』

その言葉にロジャーも嬉しそうに笑う。

つまり、この狼の大元にはそういう信頼関係を結べたという事だ。

『っと、本当に時間がねえ』

僅かに天を照らす光が薄くなっている事に気付き、双方共に真剣な顔つきになる。

『お前がここに宿ったのは多分ローとの繋がりがあったからだろう。俺が入れたのもローとの繋がりからだったからな。そんでお前が起きた以上こっからはそれがあいつの助けになる』

そうして消えたカットラスの代わりにロジャーの手元に現れたのは大太刀――ローの愛刀である鬼哭だった。

ただし本来のものより希薄な存在感で、今にも消えてしまいそうな淡さでそこに在った。

『妖刀なんていつの間に手に入れたんだか…』

『強い武器ってのは護身にもいいぜ、ついでにあいつの能力の補佐としても有用だしな』

『…こいつがローの所にあったから俺も意識があるわけだから感謝しなきゃいけないのは判るけど…』

なんともしょっぱい顔をしている。

彼の中でローは十三年前の、自分の膝にも満たない小さな子供のままなのだ。

今の状態でなら彼自身も大きくなっているのでその身長差は同じままだろうが。

『まさかローも自分が持ってる妖刀の核に自分の知ってる相手が飲み込まれちまった挙句意思上書きしてぐーすか寝てるとは思わねえだろうよ』

『言わないでくれるか!?』

ただでさえ今まで夢だと思っていたローの動きが全部現実で、しかも手助け出来る状態だったのに眠り続けていたと知ったのは自分に呆れてしまう。

『その分働けって事だよ、『鬼哭』』

『そう呼ばれるの嫌だなぁ…』

『じゃあ何か他に呼ばれたい名前でもあんのかよ』

ロジャーが聞けば狼は笑った。

にんまりと、あの頃のメイクのように裂けた大顎で。

『コラさん、とでも呼んでくれよ。海賊王』


抱えていた鬼哭が僅かに気配を増した事に気付いて鞘を掴みなおす。

戦闘時には妖刀らしく騒がしいが、休んでいる時に気配を増すような事は無かった。

両手で捧げ持ち、柄頭からじっと見て行けば違和感はあっても嫌な気配はない。

「(なんだ…?変なものを斬った覚えはないが…)」

首を傾げるがそもそもローは刀に詳しいわけではない。

一度専門家に見てもらうか同じ妖刀を持つゾロにでも相談してみるかと決め、再びベッド脇に鞘を預ける。

そろそろログも溜まる頃だ。

出発までに必要な物資の積み込みも終わり、今日も宴だと騒ぐ麦わらの一味にごく自然に混ざっているクルーの姿に頭を抱えるのもこれで終いだ。終いであってほしい。

それが無駄な願いである事を知らない故の望みである。

「キャプテン、積み荷全部積んだと思うんですけどチェックお願いできますか?」

「ああ、今行く」


閉まった扉の向こうで鬼哭がカタカタと音を立てる。

喜ぶような、興奮を隠せないような、笑い声にも似た音だった。

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