もうお婿に行けません

もうお婿に行けません


フロント──宇宙において水は大変貴重である。ゆえに、水泳などという運動は水の星である地球出身者以外にとってなじみもなければ必要も無い。全くの無駄なものといってよいだろう。

しかし……

「あんた、水泳とったの!?」

「ううぅぅ……間違えちゃったんです……」

「なにやってんの……」

「水泳とったんだ! 楽しんできて」

「えっ! ニカさんもとってない……ですよ、ねえ……」

スレッタは端末を持ってうなだれていた。先日、選択科目をどれにするか、というアンケートをとらされたのだが、うっかりスレッタは希望の科目ではなく水泳を選んで提出してしまったのだ。そして、「希望通り」に水泳の授業を履修することが正式に決まったのを知らせるメールがたった今来た。確認のつもりで何の気もなしに開いたが、口をぽかんとスレッタは開ける羽目になった。間違いにたった今気づいたのだ。ご丁寧に準備するもの、またそれの入手方法まで記載されている。今からでも教師に間違ったものを選択したと言おうかとスレッタは考えてすぐに諦めた。この学園の教師がこんなことに取り合ってくれるわけが無いし、手続きやら何やらに時間がかかることは明らかなのだ。ほかの選択科目だって多少おのおので準備をする必要がある。

「そもそもなんで水泳なんて授業があるのかしら」

「ね! しかもプール、すごく大きいって聞いたことある。でも水泳とる人全然いなくて、ガラガラなんだって」

「ううう……」

おまけに普段から仲の良い地球寮の女子は誰もとっていないということも聞いて余計にスレッタはうなだれた。

学園は、実はパフォーマンスのような目的でプールをつくった。水をじゅうぶんに用意することができる学園だぞ、と。ぜひお宅のご子息ご令嬢をうちの学園に!と。しかしまったく人気が出なかった。プールの取り壊しを求める声も上がったが、いかんせんお金をかけすぎたのだ。せっかく作ったのに……というだけの理由でいまだに稼働しているが、維持費もまた大変な額だ。デリング・レンブランは近々プールを取り壊すかもしれない。が。それも半年以上先であることは間違いが無いだろう。

「しかも選択科目って半年じゃなかったっけ? ほかの履修科目より長かったよね」

「うううう〜〜」

「週2回もあるし、半年後にはスレッタ、かなり泳げるようになってたりして」

もっとアンケートの回答ボタンを大きくしてくれたらタップミスなんてしなかったのに……なんて教師への理不尽な怒りを覚えつつも、確認を怠ってはいけない、そう学んだスレッタだった。


「え、え、エランさん……!」

回答ボタンを小さく作ってくれた先生、ありがとうございます!

スレッタは、タップミスをした自身と教師、ひいては世界に感謝をした。

なんとエランがいたのだ。購買で水着を買うまでが大変だったなどということも、もう良い思い出になった気がしていた。

「スレッタ・マーキュリー。君も、水泳をとったんだね」

「は、はいっ……」

眩しい。インナースーツよりも肌の露出面積がずっと大きく、エランのたくましいからだが空気にさらされている。太い首、鎖骨、胸筋、腹筋、へそ……

(えええ、え……っち、です!)

舐めるように見てしまった。スレッタはサッと視線を上に向けるも、じっと見つめられていることに気付いて(彼からはいつもそうだが)また視線を落としてしまった。すると、エランの肌が当然見えるし、スレッタは困り果てた。目のやり場がない。思わず両手を顔にあてた。

「どうしたの。具合が悪い?」

「い、い、いえ! 大丈夫、です!」

「そう。無理はしないほうがいい。水泳は、はじめて?」

「あ……その、はい」

エランの前で、水泳は間違って履修しただけで、取るつもりが無かったことは言わないでおこう、とスレッタは思った。とってよかった!という気持ちしか今は無いので。

「え、エランさんは……どうして、水泳をとったんですか?」

「……人、少ないと思って」

周りを見回すと、授業の5分前だというのに、10数人ほどしか見当たらない。つまり、半年間授業をともにする生徒はこれだけだということだ。人気の選択科目では200人近くになるものもあるというのに、簡単に数えられるくらい少ないなんて、とスレッタは目を瞬かせた。しかも、スペーシアンがいないどころか、女子も一人すらいない。おそらく肌の露出を嫌がったのだろう。

「エラン、水星ちゃん。水泳とってたんだな」

「シャディク・ゼネリ」

「シャディクさん。こんにちは!」

金髪をお団子にしてまとめた彼がスレッタたちに声をかけた。スレッタはこっそりと、いつもの制服姿よりもこちらの方が潔く露出している分、さわやかに見えるなあ、と思った。

「エランは前にもとっていたのを知ってたけど、水星ちゃんが取るなんて意外だな。前から興味があったとか?」

「そ、そういうわけでは、ないんです、けど。で、でも、頑張ります。一応、どういう運動かちょっと調べてみたりして……」

「へえ、偉いな。まあ、運動神経は悪くないだろうし、すぐ慣れると思うけど。もし困っても、エランに教わればいいんじゃないか?」

「僕?」

「へっ! あ、あの、エランさんがよければ、その……教えてほしい、です!」

スレッタはここぞとばかりにエランに詰め寄った。エランとは学年も寮も違う。彼と会える貴重な機会を逃したくないのだ。

「僕でよければ」

「あ、ありがとうございます……!」

えへへ、とスレッタは頬を緩ませた。

からだを動かすことには多少自信があるので、すぐに慣れてしまっても、自分はエランに教えてと半年間ずっとねだってしまうかも……と少しずるいことを考えて、もう一度両手で顔をおおってにまにまと緩む頬を隠した。


「え、えらっ! はなさ、がぼぼ、な、ぼぼぼ」

「スレッタ・マーキュリー、僕につかまって」

「えらん、げほっ、げほ、」

授業が始まるまでの自信はすべて無くなった。

教師が全員の実力をおおまかに見るため、50メートルあるプールを好きに泳いでみろと言ったのだ。飛び込んで泳ぐ者ばかりだったが、初めてなんだし、と壁に手をついてからスレッタは泳ごうとして、溺れた。皆の見よう見まねで足をばたつかせてみたが、その度に沈んでいく。5メートルもしないうちにスレッタのからだは奥深くに沈み、ぽこぽこといくつかの泡がのぼって弾けるだけだった。スレッタをじっと見ていたエランは奥深くでじたばたと暴れて全く進まないどころか沈んでばかりのスレッタを見、思わず飛び込んで腕を引っ張り、腰を抱いて上昇した。

「げほっ、こわい、エランさん、がぼぼ」

「水着ではなくて、僕の腕や首をつかんで」

ぐぐぐ、とスレッタに水着を引っ張られてしまい、エランはその手をそっと外した。

スレッタは完全に気が動転している。エランはスレッタの腕を自身の首に巻き付かせ、抱えるようにして背中をさすった。

「ケレスー! マーキュリーをしばらく見てやれー!」

「……はい」

遠くから教師の投げやりな指示が飛んできた。スレッタ以外は全員泳げたのだ。水泳を選んだのは地球出身者しかいない。スペーシアンはこれからの人生に水泳なんて必要ないし、興味も無いと誰一人としておらず、泳いだだけで単位がもらえるとかラッキー!と水泳が得意な者が集まったのだ。アーシアンたちは何故シャディクとエランなんていう上級も上級のスペーシアンが水泳を選び、普通に泳げているのだろうかと不思議に思ったり、肩身がなんだか狭いとビクビクしていたりしているが、彼らも純粋なスペーシアンではないことは預かり知らぬことだった。とにかく、全くのズブの素人はスレッタだけだったのである。

エランはこくりと教師にうなずいてスレッタにもう一度声をかけた。

「深呼吸できる?」

「ううっ、ふぅ、ふう……」

皆は楽しそうに泳いでいるその端っこで、スレッタはエランに慰められながらも半泣きになっていた。(地球の小学校でこういった光景は見られるかもしれない)ひっしとエランを抱きしめて息をなんとか整える。

「息、できなくて、あわてたら、もっとからだ、しずんで……」

「うん」

「エランさん。ごめんなさい、私のこと、押し付けられて、めいわくですよね……」

「いいよ。意欲的に授業に参加するつもりはなかったから。でも、君と授業に出られて嬉しいと思う」

「エランさん……!」

スレッタはいつもならば絶対にできないが、もう命を救ってもらったような気持ちになってたまらずにもっとぎゅうう、とエランを抱きしめていた。

「…………」

エランは一度だけ衝動に抗えず抱きしめ返し、真っ赤な髪を撫でてしまったが、ゆっくりとスレッタの腕をほどいた。

「!? い、いやです! エランさん、離さないでください! こわいです……!」

なおも強く抱きしめてくるスレッタを横目で見、エランはふむ、と思案した。スレッタは完全に水に対して怖気付いているのだ。

「スレッタ・マーキュリー。僕にすべてを委ねて。ゆっくりと力を抜いて……」

「で、でも」

「大丈夫だよ。僕はここにいるから」

「あ……」

というドラマチックなようにも不埒なようにも聞こえる会話をしながら、スレッタは意を決したようにエランからそっとからだを離した。ぷかりと両足が浮き、スレッタは慌てるが、エランの両手をつかみながら、浮力に身を任せた。

「そう。次は、足を交互に蹴ってみて」

ばしゃばしゃと水しぶきがたつ。

「上手だね。息をたくさん吸い込んでから、頭を水につけたまま、足を動かして」

「で、でもっ……」

「手を握ってるよ、ずっと。10秒だけ、やってみて」

スレッタはめいっぱい息を吸い、意を決して顔を水につけた。ばしゃばしゃと足を動かし、10秒きっかりに顔を上げる。ぶはっ、と息がもれてやはり咳き込んでしまうと、エランはすい、と近寄ってスレッタの背を撫でた。

「エランさん……」

「大丈夫?」

こくりと頷いて息を整えている。

エランは、無重力空間が身近だろうから水泳もそこまで変わらないだろうと思っていたのだが、スレッタの様子を見るに全く違うものとして感じているようだ。水中では呼吸はもちろんできないけれど、真空がすぐそこの宇宙のほうが何倍も恐ろしいのでは、と考えていたが、スレッタにとってはそうでは無いのだろう。まあ、宇宙におけるトラブルはイコール死であるからいっそ危険はわかりやすいが、水は楽しいのに死ぬこともある、という、あやふやなところが怖いのだろうか。

エランはそんなことを考えながらしばらくスレッタの背中を撫でていた。

「潜る練習をしようか。息ができないことに慣れたらいいかもしれない」

「息が、できない……。や、やっぱり怖い、です」

エランがスレッタと両手の指を絡め合わせる。動く度にぱしゃん、と音がなった。

「大丈夫。僕もいっしょに潜るよ」

「……っは、はい」

「さっきよりたくさん息を吸いこもうか。……せーの」

ざぷん、と二人で潜る。スレッタは目をぎゅっと閉じて、心の中で一、二、三……と静かに数えてみた。エランの長い指を感じながらカウントをしているとほんの少し余裕ができ、水中で目を開けたらどうなるのだろうという好奇心までわいてきた。そうっと、スレッタは目を開けた。

「〜〜〜っ! ぶはあっ、げほっ、げほ、げほ」

「……水、飲んでない?」

「あ……だ、だ、大丈夫、です」

目の前にエランの顔があったのだ。エランと顔が近い……スレッタは頬が熱くなるのを感じるとともに、今までのことを冷静に思い返すことができてしまった。

今、自分は好きな人と、あのエランと何をしている?

「…………!!!! え、エラっ」

「 !」

慌ててからだを離そうとしたスレッタのからだをエランは片手で引き寄せた。すぃー、と簡単にスレッタのからだはエランの上半身にぴとりとくっついてしまう。

「ひゃあああぁっ」

(ち、近……!こ、こんな裸みたいな格好で、さっきも、私、抱きついたりしてなかったっけ!? あああ、嘘っ! 手を繋いだのも、今日のこれ、が、初めてだし、なのに私……!でも、え、エランさん、本当に、すごくからだがたくましくて……、かたくって、腕とか首とか全然ちがう……あああああ、もう私は何を考えてるの! そういえば、私、エランさんの水着、引っ張ってたような……は、は、はしたない女とか引かれてないよね!?)

エランがスレッタを引き寄せたまま、前髪を煩わしそうにかきあげた。ぽたぽたと髪や顎から水滴が落ちている。

(ウ……ッ、全然、印象、ちがう……エランさんのまっすぐな視線が、いつもよりよく、見えて、……)

スレッタの頬が今日一番に真っ赤になった。慌てて顔を逸らそうとするも、エランがひたりとスレッタの頬に手を添えた。

近い、どころではない。こんなのはまるで、キスをする前の……

思わずぎゅっと目をつぶってしまってから、自分は何をしているのだと混乱した。エランからのキスをのぞんでいるのがこれではバレバレだ。

しかし。

「スレッタ・マーキュリー。本当に具合が悪そうだ。顔がすごく……熱い」

「へ……」

「授業が始まる前も、具合が悪そうだったのに、悪化させてしまったかな。ごめん」

「そ、そんな! エランさんは……わ、わ、わ」

水中でスレッタの膝の裏にエランの手がまわった。

エランの手が、ちょくせつ自分の足に触れている。そして耳元で、「腕を、僕の首に」と言ってくるものだから、スレッタは本当に自分は体調が悪くなったのかと錯覚するほどに頭がゆだっていた。

もう何も考えたくない。

スレッタはぎゅっとエランの首に手を回し、頭を首元にあずけた。

なにがなんだか分からないけれど、エランとこんなにもくっつけているのだ。なんの文句があるのだろう、と。

(あ……エランさんって本当に、すてき……優しくって、たくましくて、やさしくて……)

すう、と気が遠くなっているスレッタをよそにエランはプール内の階段をのぼって、スレッタを抱えたままざばりと上がった。大量の水が2人から滴り落ちる。エランは教師に向かってぺたぺたとプールサイドを歩いた。

「スレッタ・マーキュリーの体調が悪いようなので、養護室に行きます」

「…………おう、たのむな」

教師はいろいろと放棄した。御三家の考えることはよく分からないし、口を出さないのが吉だ、と。風評被害である。ついでにエランたちのそばにいたシャディクやその他数名の生徒もぷかぷかと浮いてなんだったんだろう……と作られた日差しを眺めている。


その後、いつも乱れなく制服を着こなすエランが適当に制服を着たまま、(制服を着ているものの)タオルにくるまれたホルダーを抱えて校内を闊歩する姿が見られ、氷の君が授業中に堂々とホルダーを抱いたとかなんとか尾びれのつきまくった噂が流れたという。

スレッタはエランの腕の中で、一生水泳ができなくてもいいかも、とうっとり頬を寄せていたのだった。

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