むかえにきて と ゆったから

むかえにきて と ゆったから


冬のある朝のこと。

いつも妹の髪を結ってやる手先の器用な弟が、高熱を出して寝込んだ。

元々赤い鼻をさらに赤くして。

仕方がなく慣れない手つきで子供特有の細くて柔らかい髪を結ってやった。

わがままな妹はその出来栄えにすこぶる不満そうだった。

妹がわがままなのは今に始まったことではない。

小さい体に反比例する程クソデカい態度で、今日も妹は見下すつもりで見上げてくる。

おれの双子の片割れの口調を真似した喋り方で。


「もう兄さまはおぐしに触るな!でも!きょうの兄さまは!おむかえのときに!わらわのことをいちばんにむかえにくるのじゃ!」


ハイハイ、と。適当な返事をしつつ機嫌をとりながら、なんとか幼稚園に送ってやり、大学に行く。

しばらく弟の熱は下がらないかもしれないので、他の兄弟が毎朝妹の髪の毛を梳いてやったり、結ってやらなければならない。

講義が終わった後、よく機嫌を損ねる妹のことを考えた。

入ったことの無い雑貨屋に入って、いかにもガキが好きそうな髪留め……ではなく、大人びた髪留めを買って早々に帰宅した。

妹のやつは年齢の割にマセているし、恐ろしいことに身につけるモノに関してだけは子供だましが一切通じない。

妥協を知らず、自分を一番魅力的に引き立たせる、“モノ”のまとい方を既に知っている。

考え方が顔面の割にちっとも可愛くねェし、末恐ろしい程に生意気なガキ……とは思ったが、まぁ身につけるもの選んでやってんのは大体がおれだし、そもそもおれ達の妹だし、まぁそういう風に育つなと納得した。


帰りが遅くなり、しまったと思ったが、一番に迎えに行くなどという会話も忘れているだろうと思った。

そろそろ誰かが迎えに行って、とっくに帰ってきているだろう。

また兄弟の誰かが下の弟妹どもを甘やかして買ってきた3連プリンを一人で全部食べて、悪びれもせずに「わらわ可愛いからゆるされる!」などと生意気にのたまいながらテレビの前で海ソラでも観てる時間だ。

夕飯が入らなくなるから、おやつを独り占めするのはやめろと言いたいが、結局夕飯の席で説教するのは鋭い目の弟だ。

妹はあいつの言うことだけは素直に聞くからいいが、行儀の悪い女には育てたくない。

そんなことを考えながら、家の中で妹の名前を呼ぶが返事は無い。

それどころか、いつも騒がしいはずの家に誰もいない。

オレンジ色の廊下に長い影が伸びる。

熱の出た騒がしい弟は誰かに連れられ病院か?

産まれたばかりの大人しい末弟は?

わがままな妹は誰かが迎えに行ったのだろうか。

メッセージアプリで、誰か妹を迎えにいったか全体に聞くと、長兄から「お前がいけ。早くいけ」と返ってきた。

末弟の検診に行っているらしい。


家を出ようとすると電話が鳴った。

今どき家の固定電話にかけてくるのはセールスか、行政か、学校か。弟がまた学校で何かやらかしたのか。

どっちにしろ気持ちのいい電話ではないことは確かだ。

無視することもできたが、何となく胸騒ぎがして受話器を取った。


「……はい」


それは、なんの変哲もない誘拐犯からの電話だった。

曰く、妹の身柄は預かった。返して欲しくば金を用意しろ。家族の誰にも知らせるな。指定の場所に一人で金を持って来い。


「……おれの妹は生きているのか」


無事かどうかは聞かなかった。

とりあえず生きている事を確認したかった。

受話器の向こうから「喋れ」と聞こえた瞬間にピアスが硬い音を鳴らす程勢いよく受話器に耳を押し付けなおす。


「……兄さま」


毎日耳障りだと思う程に聞き覚えのある声なのに、聞いた事のない震える妹の声がした。

あぁ、まだ妹の首が繋がっているなと息をついて冷静に考えた。

素直に助けくらい求めればいいのにと思った。

人間あまりの事があると、感情も何も通り越して冷静になるものだろう。

相手はこの家のことを知っている。

一人で来いと言うのも、この家の兄弟たちが怖いのだろう。

おれ1人なら何とかなると思っている。

随分と舐められたものだ。

穢れた手で妹を拐かしたことを後悔させてやる。



兄さまが迎えに来てくれる。


幼稚園で友だちが一人、また一人と、手を引かれて帰ってゆくのをハンコックは苛立たしげに眺めた。

あんなに、あさにゆったのに!おそい!と思って腹を立てるが、段々と日が沈むにつれて心細くなってきた。

もうずっと迎えに来てくれなかったらどうしよう。このままひとりはさみしい。はやくお家にかえりたい。

朝、いくら髪の毛を結うのが下手だからといって、あんなこと言わなければ良かった。

怒ったのだろうか。とうとう嫌われてしまったか。

ハンコックは不安で仕方がなくて、先生の手から離れて門扉の所でしゃがんで迎えを待っていた。

ふと、頭の上から知らない男に声をかけられた。


「お迎えのお兄ちゃんの代わりに迎えにきたよ」

「兄さまが?」


朝、兄達の中で一番厳しい兄に、結われた髪が揺れる。

ハンコックの小さい頭のうしろで高く結われた髪の毛先が、首を振る度にうなじに触れてくすぐったい。


「いやよ。兄さまといっしょでないと行かぬ。いつもやくそくしてるのよ。かえる時はぜったいに、兄さまと、ごいっしょだと」

「その兄様が、向こうで怪我して倒れてるんだよ」


男は困ったように言う。


「!!……兄さまはどこじゃ!はよう連れていけ!!」


背中を反らし、指をさして男を見上げる。

見上げた男の表情は 後ろの夕日のせいで暗くてわからなかったが、確かに笑っていた気がした。

後ろで名前を呼ぶ先生の声を聞かなかった。

ハンコックは男の手を引っ張って駆けだしていたはずなのに、いつの間にか腕を強く引っ張られ、車に押し込められていた。

しまった、と思った時には遅かった。


「さわるな!おけがをした兄さまはどこじゃ!」


これから迎えに来る、と男に言われて、ウソだと激昂した。

黙れ。と目の前にひかる刃物を出されて凄まれ思わずひるむ。

あれはきっと痛いもの。肌に押し当てられたら……と想像する。

兄の一人がキッチンで夕飯を作る時に指を少し切っただけなのに、ハデに痛いと叫んでいた所を思い出してハンコックはゾッとした。


男の持つ携帯電話の向こうから、聞いた事のないほど冷たい兄の声が微かに聞こえる。

男は電話口で兄と何度かやり取りをした後、携帯電話と刃物をこちらに向けてきて、思わず身震いする。

痛いのも、怖いのも嫌だ。

刃先をハンコックの血の気の失せた柔らかい頬に強く押し当てながら、男は「喋れ」と言った。


「……兄さま」

「……!」


迎えに来てとは言えなかった。

一体どの顔を見せて、どの口で、迎えに来てなどと言えただろうか。

目に涙が滲む。

脳裏に兄の顔を思い浮かべた瞬間、とうとう泣くことを我慢出来なかった。

泣き疲れて寝て目を開けたら、目の前に兄がいて、抱えられていた。

見上げると、月明かりと街灯の下でもわかるほどに赤いものを顔からダラダラと流していた。

朝日の差す道すがら、しかめっ面でなだめすかしてきた顔だ。

兄さまが、おけがを。

思わず抱きつくと、いつもなら後頭部の位置にくるはずの兄の手が回ってこない。


「兄……さま?」


錆びた臭いがする。生臭い。


「見るな、ハンコック」


冷たい声で言われて、ハンコックは怖くなって目を閉じた。

もう涙は出ないと思っていたのに、もう声は涸れたと思ったのに、もう怖いなどと感じることすらないと思ったのに。

恐ろしくて泣くことしか出来なかった。

空気を求めてしゃくり上げる度に、園庭の片隅にある錆びた鉄棒の臭いがした。


兄は迎えに来てくれた。

しかし、あの夜から兄の手つきは永遠に変わってしまった。

あの朝、髪を結ってくれた不器用な手は永遠に失われてしまった。

あの朝、迎えに来るといった顔には醜い傷が残った。

起こったことの半分も理解が追いつかず、訳も分からず、ただただとても恐ろしいことが自分と兄に降りかかった。

自分のせいで引き起こされた。

全て自分を迎えにきたせいで。

なんどもなんどもごめんなさいと兄に、兄達に、産まれてきた弟に、あやまった。


「お前のせいじゃない」

「怖かっただろう。もう大丈夫だ」

「お前がとにかく生きてて良かった」

「お姉ちゃんだろ?もう泣くなよ」

「むしろ兄貴は派手に男前になった」


兄達はハンコックを責めることをしなかった。

その幼い身に一体どんな恐ろしいことがあったのかと、一番歳の近い兄ですら好奇の片鱗も見せず。

可哀想だと無責任な同情もよせず。

兄達は責任の一欠片も負わそうとはしてくれなかったのが辛かった。

何事も無かったかのように、義手を器用に操り日々を過ごす兄を見て、度々泣き出した。

大丈夫かと優しくされる度に、わらわのことはどうでもよい。と泣くと「どうでも良くねェ」と兄は絞り出すように言った。

その表情が、どうしても思い出せない。


やっと妹が一人で寝られる年になったかと思ったら、末弟が産まれる直前まで赤ちゃん返りを起こして、駄々を捏ねては誰彼構わず布団の中に入り込んでいた。

しかし末弟が産まれて、作り物みたいに小さな手のひらで妹は細い指を握られた瞬間に、手のひら返して一端の姉を気取って、やっと一人で寝られると思ったら今回の件。

妹は悪夢を見るようになった。

火を怖がる弟の一人と同じ様に、頻繁に、苦しそうに。

夜中に呻いている所を不眠症気味の弟の一人とゆすって起こしてやると、まるで当時に戻ったかのように、たまにうわ言を唱える。


「わるいおとこが……さらいにくるの……わらわ、こわい……兄さま、兄さまごめんなさい」


完全に起こすと、不思議そうな顔をしてから、「いやなゆめをみたきがするわ」と呟くのが救いか。

未だに醒めやらぬ悪夢に心を鎖されている幼い妹が 一人で眠れるようになる日までは、屈託なく笑える日が来るまでは。

兄弟で消えない傷が残った小さい背中を守らねばならない。


しばらく登園を控えていた幼い妹に、ある日話があると言われた。

「もう、クロコダイル兄さまは、わらわをむかえにきてはならぬ。おぐしもゆってはならぬ」

あの日のことを思い出して、最近産まれたばかりの末弟のように泣くのかと思ったが、そうではなかった。

どうやら妹はおれが思うほどに弱いガキじゃないらしい。

好き嫌いもしなくなったし、甘える以外の理不尽なわがままも控えるようになった。

しかし頭の方はめっぽう弱いとため息をつく。

そこはおれに似てないなと残念に思う。

この妹は、自分を迎えに来たせいでこの事が引き起こされたのだと思っているのだ。

馬鹿な妹だ。

おれが、早くお前を迎えに行かなかったからだ。

おれが、不器用だったから。

おれのせいでお前は楽しい夢を見られなくなったんだ。

妹の手と声は震え、目許は赤く、肌は紙のように白い。

「何度だって迎えに行くし、髪だっていくらでも結ってやるよ」

だからもう泣かないでくれ、ハンコック。

そう言って、まだ体温のある方の手で涙を拭ってやった。


以下蛇足。

蛇と鰐にピアス


「ただいま」


遠くで扉の音がして、姉が帰ってきた。

現在受験前、なおかつ反抗期真っ盛りだが、姉は何故だか「いってきます」と「ただいま」だけは欠かさない。欠かしたところを見たことがない。


「おかえり姉貴」


プライドが高く、傲慢な姉は、弟のおれにまで姉という権限を駆使して口やかましく干渉してくる。しかし実際の所、言ってることは過保護で、いつまで経ってもおれのことを幼稚園児のような扱いをしてくる。


「ロー、そなたまさか夕飯前に3連プリンなど食べているのではあるまいな。夕飯が入らなくなって背が伸びなくなるぞ」


うるせぇ、勉強前には糖分がいるし、身長の事は大きなお世話だし、大体うちが規格外すぎる……と言いかけたが、リビングに入ってきた姉の顔をみて思わず叫ぶ。


「ちょっと待て姉貴、顔面に血がついてるからみせろ!」


怪我でもしたのかと慌てて指摘をする。

姉は眉ひとつ動かさずにカバンから鏡を取り出した。


「あぁ、なにかと思えば、今日の下衆の汚い血か」


姉は眉根を寄せてポツリと鏡に呟いた。

とうとうこの美しき肌に、ニキビとやらが出来たのかと……などと呑気に言いながら、ハンカチで優雅に顔面を拭っている。


「返り血かよ!」

「ロー、そなた何ゆえ返り血をつけて帰ってきたくらいで驚くのじゃ。変質者騒動は今に始まったことでは無かろう」


この姉は幼い頃からしょっちゅう変質者やストーカーを引き寄せてくるのだが、もはや慣れきっている。

遠くから見てるだけなど、目立った実害が無ければ本人が放置しているし、実害が出始めてポストに怪文書が入れられる頃には、兄達が本人の気付かぬうちになんとかしているらしい。

しかし、恐れを知らずに待ち伏せて、突発的に姉の肌に指一本でも触れた男は、小学校の頃から身体を馬鹿みたいに鍛え回した姉に返り討ちにされて、現代アートのようにされるのがオチだ。

姉はそれを兄達に気づかれぬように素知らぬ顔で帰ってくるが、大体みんな知っている。

しかし返り血までつけて帰ってくるのは初めてだ。


「おれは医者志望なんだよ。家族が顔面に返り血つけて帰ってきてビビらねぇのは兄貴達くらいだよ……」


実際この家は血の気が多いやつが多すぎる。

幼い頃、物心ついたおれが最初に教わったのは、「誰が最強か」という話題はこの屋根の下では絶対の禁句だということ。

年末年始にテンションの上がった兄達が最強決定戦などと称して、馬鹿みたいな力でテーブルの脚と一緒に誰かの上腕骨を折るまで腕相撲をする光景は最早風物詩だ。


「ほう、ローは医者になりたいのか。初めて聞いたが」


姉は椅子に座り、こちらを興味深そうに見た。


「……うちは怪我が多いし、ガキの頃にクロコダイル兄にうっかり言っちまったからな。左手生やして顔面のキズ治してやるよって。……笑いたきゃ笑えよ」


姉は目を丸くして、おれの目をじっと見た。

しばらくの沈黙の後、姉は目を細めて口を開いた。


「……それは本当に……良い志じゃな。学費はわらわが出してやろう。せいぜい勉学に励め」


笑えとは言ったが、そんな寂しそうな笑い方をされるとは思わなかったので、毒気が抜かれる。

いくら医療の道を極めても、現代医学では傷を完全に消すことも、失くなった手首を生やすことなど不可能だと言われているのに。


「いや、いらねぇよ。どうせバイト帰りにまた知らない男の返り血引っつけて帰ってくんだろ」

「ふふ。心配はいらぬ。クロコダイル兄様が職場の手伝いをさせてくれると仰ってくれててな……」

「……姉貴は本当にクロコダイル兄のこと好きだよな」

「は?兄様たちは全員等しくみな好きよ。弟風情が姉に生意気な口を叩くな。……もしかして、嫉妬か?愛いやつめ」


勘違いを正す気力もない。

昔からこの姉は口が立つ。

黙っていたら、姉が笑って首を傾げた。

長い黒髪の隙間から金色のピアスが揺れてひかる。

おれが知る限り、幼い頃から姉はピアスをあけている。

中学から校則に厳しい女子校に通っている姉の周囲からは、わがままだ、不良だ、反抗的だ。などと言われる事もある。

もっとも本人は周りの目など全て無視しているが。

しかし、そのピアスをあけた理由は、顔面に傷のある兄の影響だと家族だけが知ってる。




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