みしらぬひと

みしらぬひと





「おじいさん、だれぇ…?」

 涙で頬を濡らした少女が、傍らの老人に問いかける。

 声も、表情も、しぐさも…。何より言葉の内容が自分の知っている彼女とは全然違う。

 まるで中身が別人に入れ替わってしまったようで、自分の思いつきにゾッとする。

 夢の世界で見た光景を思い出す。

 暗い部屋。

 ペイルの調整室。

 自分とそっくりの少年に騙されて来た少女は、部屋の中でだんだんと心を壊していった。

 助けを求めても無視されて、助けを呼ぶたびに傷ついて、暗い暗いどこかへと消えていった彼女の心。

 そうして残った体には別の誰かが入り込み、まったく違う存在が目を覚ました。

 自分はそれをただ見ていた。

 見ている事しか出来なかった。

 エラン・ケレスは、未来の世界でスレッタ・マーキュリーがどんな風に失われていったのかを知っていた。




「お嬢さん、大丈夫だ。ここにはお嬢さんを苛める奴なんかいないからな」

 衝撃を受けて棒立ちをするだけのエランとは違い、傍らの老人はすぐに立ち直ったようだった。

 鋭い目をできるだけ柔らかいものに変えて、優しい声音で少女に声をかけている。

 少女…スレッタは、近づいて来た老人にびくりとして、警戒したようにベッドの奥へと逃げ出した。

「おお、すまんな。怖がらせるつもりはなかったんだ」

 クーフェイ老はこれ以上スレッタを怯えさせないように、ベッドの手前で片膝をついた。そうして、スレッタより低い位置に身を留めたまま、根気よく話しかけた。

「俺の名前は『イロクモ クヘイ』と言う。『イロクモ クヘイ』だ。分かるかな、お嬢さん」

 まるで初めて会う少女にするような対応だ。けれど異様な空気の中、それをおかしいと指摘できる人物はいない。

「いりょきゅも…。く…くふぇ…?」

 スレッタは老人の名前を初めて聞いたかのように、たどたどしくオウム返しをしている。

 自信がないのか眉を下げて、小さく首を傾げていた。

「おう、『イロクモ』が苗字、『クヘイ』が名前だな。呼び方はクフェでもクーフェイでもいい。覚えられなければ、ジジィでいいぞ」

「くふぇ…おじいさん」

「それでいい。じゃあ今度はお嬢さんの番だ。このジジィがお嬢さんの名前を呼べるように、自分の名前を声に出すことはできるかね?」

 クーフェイ老の言葉に、自分でも身が固くなるのが分かる。

 彼女の名前。

 未来の世界では、目を覚ました体の持ち主は違う名前を名乗っていた。

 けれど。

「す、すれった・まーきゅりー…です」

「ふむ……。よろしくな、スレッタお嬢さん」

 スレッタの返事に、ほんの少しだけ空気が弛緩したのが分かった。

 彼女はきちんと自分の名前を口にした。少なくとも体を乗っ取った夢の中の存在とは違う。

 それが分かったエランは、思わずスレッタの元へと近づいていた。

「スレッタ・マーキュリー、本当にどうしたの。頭に細工されたと聞いたけれど、僕の事は分かる?」

「ひゃ…っ」

 エランが近づくと、途端にスレッタは怯えたように体を縮こませてしまう。彼女の防御態勢だ。

 自分に対しての初めての仕草にショックで固まっていると、間髪入れずにクーフェイ老が窘めてきた。

「こら、エラン。急に近づくな。スレッタお嬢さんがビックリするだろう」

「で、でも。クーフェイさん」

「でももヘチマもない。お前はしばらく部屋から出てろ」

 それは嫌だと思ったが、こちらを見上げて震えているスレッタを見てしまうと、さすがに折れざるを得なかった。

「…部屋のそばで様子を伺っています。それくらいはいいでしょう?」

「ああ、しっかり聞いて…いや、ちょっと待て。その前に何か飲み物と、顔を拭けるタオルでも持ってこい」

 聞き耳を立てるのはその後だ。クーフェイ老は小さい声でそう言うと、部屋の外に追い立てるような仕草をした。早く行けと言うことだろう。

 飲み物も、タオルも、確かに今のスレッタには必要なものだ。起きたばかりで喉が渇いているだろうし、泣いた分の水分補給は必須だろう。それに涙が流れて赤くなった頬は、そのままでは腫れたり痛んだりしてしまうかもしれない。

 クーフェイ老がスレッタを宥めて話を聞き、エランがスレッタに必要な物資を調達して届ける。

 綺麗な役割分担だ。

 冷静に、自分にそう言い聞かせる。

「わかり、ました」

 今度は逆らうことをせず、大人しく扉に手を掛けた。

 だが扉を閉める前に、もう一度だけ「…怖がらせてごめんね、スレッタ・マーキュリー」と声をかけてみた。自分でも往生際が悪いと思う。

 スレッタを怖がらせないように出来るだけ穏やかで優しい声を心がけたが、ベッドの上で縮こまっている彼女からは何の返事もなかった。

「………」

 廊下に出ると、大きなため息が出る。何だか胸の奥が熱いのか寒いのか分からなくなって、大声でわめきたい気分になる。

 でもそんな事をすればスレッタがますます怯えてしまう。エランは閉めたばかりのドアの横に座り込み、ぐしゃりと前髪を掴んで目を閉じた。

 そうして何度か深く呼吸をした後、音を立てないようにゆっくりと身を起こした。

 部屋の中では、少しずつ会話が始まっている。

『スレッタお嬢さん。怖がらせて悪かったな』

 そんな言葉を耳にしながら、エランは幽鬼のような足取りで台所へと歩いて行った。

 家の中はすでに明るい日の光が差し始め、なんだか先ほどまでのすべてが夢の中の出来事のようにも思えてくる。

 エランは台所に立つと、しばらくの間ぼんやりと辺りを見回した。

 料理道具や食器は揃っているが、調味料などの類はほとんど見当たらない。でも、お茶のパックやコーヒーの粉などは置いてある。

 昨日は凝ったものを作られるような状況ではなかった。材料を買う余裕すらなかったので、食事は出来合いのものを適当な店で買っていた。

 でも飲み物だけは温かいものが良いと、クーフェイ老とスレッタが用意してくれていた。

 その中にはココアの粉もある。見覚えのあるパッケージで、袋がへこんでシワがついている。

 毎日のように飲んでいたから、中身が減っているのだ。

 食事の後に。あるいは前に。エランはこの袋を開けて、スレッタが笑顔になる飲み物を作っていた。

「………」

 エランは大きなケトルに水を入れると、火をつけてお湯を沸かし始めた。その間に棚を探り、小さめの鍋を見つけて水で洗う。

「…ホットココアと、ハチミツのキャンディをひとつ」

 ミルクはない。蜂蜜のキャンディも、持っていない。

 けれど少しでもスレッタの心に響いてくれたらと、祈るような気持ちで彼女の好きな飲み物を作り始めた。


 コンコンコン、と小さく扉をノックする。

 すぐに扉が開き、皺を深くしたクーフェイ老が顔を出した。

「おう、ありがとよ」

「………」

 スレッタが怖がるといけないので、声を出さずに目線だけで問いかける。老人も心得たもので、微かに頷くと、目線を下げて廊下で待つように指示を出した。

 今のエランに出来ることは何もない。

 だからクーフェイ老の指示に従い、部屋の外からスレッタの言葉を拾うことにした。一言も取りこぼさないように、彼女の話に耳を傾けるつもりでいる。

 老人はスレッタの中にいるモノが悪さをしたのだと言っていた。おそらくそれは、エアリアルと白い光たちのことだ。

 彼らがそうするだけの理由がきっとあったのだ。

 だから情報をできるだけ揃える必要があった。今の彼女の状態を把握して、原因を特定して、解消して、彼女の状態を元に戻してもらう。

 昨日までのスレッタに。

 エランと共に過ごしていた大切な少女を、取り戻さなければいけなかった。


『おおい、スレッタお嬢さん。喉が渇かんかね?』

 エランが思い詰めている間にも、クーフェイ老は改めてスレッタに接触を試みていた。

 老人には似合わないような朗らかな声で、小さい子に相対するように話し始めている。

『うー…。………』

『なんだ、遠慮なんかするな。ジジィも喉が渇いたから茶でも飲もうと思ってな。よければ一緒に付き合ってくれ。お嬢さんの分は…これは、ココアだな』

『ここあ!』

『おお、ココア好きか、そりゃあ良かった。でも少し熱いから一旦冷ましておこう。その間にこれで顔を綺麗にしような』

『…それなあに?』

『手ぬぐい…タオルだな。温かいお湯で濡らしてあるから気持ちいいぞ。これで顔をゴシゴシするんだ。できるか?』

『やってみる』

『おお、上手だな。泣いた跡が消えて別嬪さんになった』

『べっぴんってなぁに?』

『美人で可愛いっていう意味だ。うん、ココアも少しは冷えただろう。そこじゃあ零したら大変だから、ベッドの端にきちんと座って飲みなさい』

『…うん』

『ほれ、タオルを預かろうな』

『はい』

 ゴソゴソとベッドの上から動く音がしたので、スレッタは移動したようだ。しばらくして、二人が飲み物を飲んでいる音が聞こえてきた。

 まったく本題に入る気配すらないが、それがかえって功を奏したのか、彼女はクーフェイ老に対して少しだけ心を開いたようだった。…いや、悲鳴を上げるほど拒否をしたのはエランに対してだけで、最初から老人相手にはそれほど怖がっていなかったような気がする。

 改めて沈み込むような気持ちになっていると、『おかあさんのとちがう…』とぽつりとスレッタが呟く声が聞こえた。

『見たところ牛乳が入っていないからなぁ。昨日買っておけばよかったな』

『ぎゅうにゅう?』

『ココアによく入れるものだ。スレッタお嬢さんが今飲んでる飲み物は、お母さんのと比べて色が濃くないかね』

『ん、と。くろっぽい』

『じゃあきっと原因はそれだろうな。後で牛乳を買っておいてやろうな』

『ぎゅうにゅうって、しろいこな?』

『いや、普通に液体だな。ああ、お嬢さんのところは粉ミルクを入れていたのか』

『ぅ…?』

『いやいや、そんなに考え込まんでいいぞ。ジジイがただそう思っただけだ。ところで、そのココアは最後まで飲めそうか?』

『うん』

『そうか、甘いか?』

『うん』

『そうかそうか、ゆっくり飲みなさい』

『うん』

 それからしばらく、二人の間に会話はなかった。ただ時折聞こえる物音の様子から、穏やかな空気が流れているんだろうことは想像できた。

 ふいに、エランも自分の飲み物を持ってくればよかったと後悔した。そうすればたとえ壁で区切られていても、部屋の中にいる彼らと少しは同じ時間を共有できただろう。

 考えてみれば今日は起きてから何も口にしていない。顔もきちんと洗っていないし、髪すら梳かさずボサボサのままだ。

 エランは髪を手櫛で整えて、顔をごしごしと手で擦った。…みっともなくて、恥ずかしい。

『ごちそーさまです』

『全部飲めたのか。えらいぞ』

『うん』

 温かい会話。けれど自分が中に入れば、その空気はすぐに壊れてしまうだろう。

 はぁ、と何度目かのため息を吐く。

 冷たい廊下に取り残されている自分が、なんだかとてつもなく滑稽で、惨めな存在のように思えていた。


『じゃあスレッタお嬢さん、このジジイにお嬢さんの事を教えてくれんか』

『…スレッタのこと?』

『そう、お嬢さんのことだ。こちらからすると突然お嬢さんが現れたように見えてな、正直困惑しとるんだ』

『こんわくってなあに?』

『うーん、困ってしまって、どうしたらいいのかさっぱり分からん…という感じかな』

『……こまるの?スレッタがいると、やっぱりじゃま?』

『いいや、スレッタお嬢さんが邪魔なんて、そんな事言うヤツはここにはおらんよ。ただお嬢さんの事を知りたいだけだ。…そうだな、お嬢さんはこの部屋にあるモノを見た事はあるかい?』

『ううん、ないよ』

『そうか、じゃあ起きる前はどこにいたか覚えてるかい?』

『えっとね、おかあさんといっしょにねたの』

『ほうほう、お母さんの部屋で寝たのか』

『そうなの』

『……。ふうむ、じゃあスレッタお嬢さんの家は、どこの地域にあるか分かるかな?』

『ちいき?』

『家のある場所ってことだな。地域番号か、名前が分かればいいんだが…』

『あ、スレッタわかるよ!すいせーきち!だよ』

『すいせーきち…水星基地か?もしかしてスレッタお嬢さんは、宇宙の、水星に住んでいるのか』

『そうなの。そこでね、えっと。みんなでパーミィトをとってるんだよ』

『パーメット…。スペーシアンとは思っていたが、とんでもない所からのお客さんだったんだなぁ。天女さんは』

『おかあさん、おしごとにいってるの?』

『ん?…ううむ、なんと言っていいのか…』

『エアリアルは?スレッタ、エアリアルといっしょにアニメがみたい』

『エアリアル…これもまた分からんな。ちょっと調べてくるから待っててくれるか。ついでにお代わりも貰ってこよう、ココアでいいか』

『うん』

『えらいな。そういえばお嬢さんはまだ小さいように見えるが、自分の年は言えるかね?』

『3…。ううん、4さいになったの』

『四歳か。お姉さんだな』

『うん!』

 だいぶ元気が出てきたスレッタの声に押されたように、クーフェイ老が扉を開けて廊下に顔を出した。すぐに扉を閉めずに、振り返りながらスレッタに話しかけている。

「部屋の中のモノは好きに触っていいからな。ちょっとだけ待っててくれるか」

「うん」

 チラリと部屋を覗き込むと、スレッタはもう一度ベッドの真ん中に戻り、ポンポンとベッドを叩いて感触を確かめているようだった。

 ぱたりと扉は閉じられて、無邪気な様子は見えなくなる。

「ほれ、行くぞ」

 ここに居たままだと会話を聞かれる。エランはこくりと頷いて、もう一度台所へと引き返した。

 老人の持っていた空のカップを洗い、ついでに気になっていた自分の顔も洗っておく。

 人心地付いた後、もう一度鍋を用意するとココアをお湯で練り始めた。

「会話は聞いてたか」

「はい」

 ココアを作っている間だけの、情報共有が始まった。

「今朝がたお嬢さんを見た時から感じていたが、ほぼ間違いない。お嬢さんは記憶を子供の頃のものに戻されているな」

「記憶喪失ということですか?」

「俺は医者じゃないから断定はできんが、記憶を失っている…という意味ではそうだろう。お嬢さんからしたら母親と一緒に安全な場所で寝ていたのに、ある日起きたら知らない場所で知らないジジイと大男に囲まれていたんだ。そりゃビックリして泣き出しもするだろうさ」

「大男って…」

「横は細いが縦に長いだろうお前は。子供からしたら十分に巨人だ」

「意識は子供でも体は大人のものでしょう。僕と彼女とでは、頭ひとつ分も身長は変わりません」

「そう思うか?だがな、感情の動きを見ていて気付いたんだが、お嬢さんの認識は違うようだ」

「と言うと?」

「お嬢さん自身は自分の体を四歳当時のものとして認識してるだろうってことだ。たぶんお前は天を衝く大男に見えているし、部屋の中のものも本来より大きく見えてるだろうな」

「…でも彼女は問題なく動けていました。体の大きさにズレがあったら、思うように動けていないと思います」

「お嬢さんの中にいるモノが調整してるんだろう。それくらいの事は器用にやってみせそうだ。…それより」

「…はい」

「お前さんたちの事情を簡単にでも説明してくれんか。特にエアリアルって奴について何か知っていたら教えてくれ。話したくないところは話さなくていいが、何も知らないままじゃあさすがにな」

「………」

 クーフェイ老の要求に、ココアを練る手が少し止まる。

「…そうですね」

 迷ったのは一瞬で、すぐにエランは指の動きを再開させて、どうやって説明するかを考え始めた。

「…僕らはベネリットグループに所属していた学生でしたが、そこから抜け出して地球に来ました。僕はあるモビルスーツの実験台として、彼女はある人物の身代わりとして、それぞれが使い捨てにされそうになりました。だから地球に逃げて来たんです」

「…いいのか」

 聞いておいて今更な言葉に、エランは苦笑しながら振り向いた。

「まったく事情を知らないのでは、対処のしようがないでしょう」

 ココアが出来上がるまでの短い間。エランは本当に簡単にだが、自分の知っているスレッタの生い立ちを語る事にした。老人に必要な情報だと思ったからだ。

「彼女は水星で隠されるように育てられました。成長してからは、ある特別なモビルスーツに乗るようになりました。『ガンダム』という種類の機体で、名前はエアリアル。本来は過度のパーメット接種で体を壊す恐ろしいモビルスーツなのですが、彼女は平気で乗っていました」

「『ガンダム』は知ってる。人の中身を吸い取るモビルスーツの事だな。…本当に、お嬢さんの体は何ともなかったのか。それに、お嬢さんの言っていたエアリアルってのは…」

「はい。彼女が言っているのは人ではありません。モビルスーツです。正確には、その中身と言っていい。彼女が無事だったのは、ひとえにエアリアルが特別な機体だったからです。彼は人間のような自我を持っていて、彼女をパーメットの被害からずっと守っていました」

 そこで言葉を切ると、エランは少し声を潜めて、続きの言葉を言いきった。

「…僕は、彼女の今の状態は…、エアリアルか、その仲間たちの仕業だと思っています」

 エアリアルやビット達は、エランの体に自らのパーメット粒子を侵入させて接触を試みた。現実世界ではなく夢の世界だが、実際に自分たちは出会って情報のやり取りをしている。

 似たような事をスレッタに対して出来ない筈はない。彼らは彼女の中にも潜伏している、ずっとそう思っていた。

 クーフェイ老からの言及がある度に、その考えは確信を強めていった。

「お嬢さんの中にいるあの綺麗な雲がモビルスーツだっていうのか…。ううむ」

「あなたの目からはどう見えているかは知りません。でも彼女の中にいる存在は、彼ら以外に考えられません」

「俄かには信じられんが、嘘は言っていない事は分かる。…そうだな、お嬢さんは自分の中にいるモノの正体を知らないようだったが、お前さんはどうして断定できるんだ?」

「彼らに直接会って話をした事があるんです」

「ん?」

「僕は一度、夢の世界でエアリアルたちと会った事があります。彼は自分のパーメット粒子を人の体に入れて、体の持ち主と夢を通じてコンタクトを取れるんです。その時に色々と話をしました」

「んん?」

「僕はエアリアルからの忠告を受けたおかげで逃げ出せました。協力者は他にもいましたが、エアリアルがいなければ僕はあっさりと処分されていたでしょう」

「………」

「荒唐無稽な事を言っているとは分かっています。でもエアリアルは僕の処分を予知し、彼女の破滅を予知しました。何もしなければ訪れるだろう未来を、僕とエアリアルは逃げることで回避しようとしたんです」

「……予知か。まぁそっちは高度な演算機能の結果という事なら理解できる。夢の世界の話はちょっとよく分からんが…育ち切ったパーメットなら脳を通じて干渉できるのかねぇ」

「信じるんですか?」

「お前の心には狂人特有の淀みもないからな。勘違いや思い込みと言う線も捨てきれんが、感情の流れを見る限りではほぼ真実だろう」

「便利ですね、その能力」

「欲しいのか?苦労するぞ」

「遠慮しておきます」

 雑談に入りかけたところで、二杯目のココアが出来上がった。まだ熱いのでスプーンでくるくるかき混ぜて熱を飛ばしていく。

「さっきも言いましたが、幼い頃の彼女は、水星基地で隠されるように育てられました。家族は母親とエアリアルだけです。特にエアリアルとは、小さな頃から彼のコックピットに入って一緒にゲームをしたり、ライブラリを見たり…。まるで兄妹のように過ごしていたそうです」

「分かった。詳しい事情はまた後で聞く。俺の方の事情もその時話す」

「はい」

「……超特大の流れ星とほうき星だったなぁ」

 参ったと言わんばかりにポツリとぼやく老人の声に、エランは今日初めての笑顔を浮かべていた。


「スレッタお嬢さん。ココアを持って来たから入るぞ」

 一言断ってからクーフェイ老は部屋の中へ入っていった。エランは閉じた扉の横に陣取り、また聞き耳を立てることになる。今度は自分用のコーヒーも用意したので、無駄に疎外感を感じることも無いだろう。

 クーフェイ老と今後の事についても簡単に相談したが、できるだけスレッタには嘘はつかない方針で行くことにした。

 ここは地球で、水星ではない。だから母親やエアリアルにはすぐには会えないと、きちんと伝えるつもりでいる。

 数時間で治る記憶障害なら嘘を付いて誤魔化すこともできるが、もしかしたら長時間に渡って治らない可能性もある。あからさまな嘘をついて後で信用を落とすよりも、ショックを与えてでも最初からある程度本当の事を話した方がいい。

 とは言っても今のスレッタにはすべて話しても理解できないだろう。なのでエランとクーフェイ老は、自分たちのいる場所に突然小さな女の子…スレッタが現れた、という簡易的な説明をする事にした。

「子供は神隠しに遭いやすいからな。天女さんともなれば猶更だろう」

 方針が決まった後のクーフェイ老は勝手にひとりで納得していた。エランにはよく分からないが、老人の中には根拠となるものがあるのだろう。

 ただ、それを本人がきちんと理解してくれるかは別の話だ。老人の言葉を借りるなら、相手は小さな女の子なのだから。


『スレッタ、おかあさんとエアリアルにあいたい…』

 案の定、クーフェイ老の説明を聞いている内に、スレッタはぐずり始めてしまった。ここは地球で、だから水星にいる母親とエアリアルの所へはすぐには戻れないと言われてしまったせいだ。

 エランの耳に、ぐすぐすと鼻を鳴らすスレッタの声が聞こえ始める。

 …このままクーフェイ老に任せるべきだ。

 理性では分かっているのに、どうしても我慢できずにそっと扉を開けてしまった。

 ベッドの上で赤髪の少女が目をゴシゴシと擦っている。目の端から涙がポロポロと零れて、拭ったはしから下に零れていく。

 先ほども泣いていたせいだろう。彼女の顔は赤く染まっていた。

 警備隊から解放された朝のことを思い出す。学園から脱出した先での船の中のことも。学園で泣かせてしまった時のことも。最初に会いに行った時のことも。

 思えばエランは、スレッタを泣かせてばかりいる。

「目元が腫れてしまうよ」

 無意識に声に出していた。

 エランの言葉にビクリとして、スレッタは一瞬泣き止んだ。けれど次の瞬間もっと大きな声で泣き始めて、逆効果だったことを思い知る。

「やーっ!…ふぐっ、あ゛ぁ~~ッ」

「あ、ご、ごめ…」

 オロオロしていると、クーフェイ老が呆れたようにため息をついた。

「またお前は…」

「す、すいません」

 急いで部屋から逃げようとすると、その前に老人が床に座れという合図をした。

 スレッタは相変わらず泣き続けている。このまま自分が部屋に居座ったら彼女は溶けて消えてしまうのではないか。そんな事を真剣に考えるくらいには彼女は泣き続けている。

 だから躊躇したのだが、老人は更に床に座れと強く指示してきた。

 仕方なく、出来る限りスレッタから離れた場所におそるおそる座る。一応完全には腰を下ろさず、すぐ立ち上がれるようにはしておく。

 エランがすぐに近寄れない位置に座ったことで、ほんの少しスレッタは落ち着いたようだ。けれどまだグズグズと鼻を鳴らし、引きつけを起こしてしまうんじゃないかと心配するくらいには呼吸も乱れている。

「お嬢さん。スレッタお嬢さん」

 クーフェイ老が名前を呼びながら、スレッタの近くに移動した。そのままベッドの端に腰かけて、スレッタの顔をタオルで拭う。

 先ほどエランが持って来たお湯で濡らしたタオルだった。もう時間が経ってすっかり冷えているだろうに、それがかえって気持ちいいのか彼女は大人しく受け入れている。

「ここにはお嬢さんを苛める奴はいない。怖がらなくても大丈夫だぞ」

「うう~っ!!ひっぐ…」

 スレッタが抗議をするように唸った。どうしてだろう、どうして彼女はここまで自分を怖がるのだろう。

 エランは項垂れながら、今までのスレッタとの会話で、何かヒントはなかっただろうかと考え始める。

 水星での生活。

 優しい母親やエアリアルと、意地悪な老人たちとの生活。

 生鮮食品は食べた事がなく、ジュースは滅多に飲めず。たまに母親がくれるココアとハチミツが大好きな幼いスレッタ。

 色々と話してくれたはずなのに、本当に些細な事しか覚えていない。

 エランが不甲斐ない自分に対して落ち込んでいると、クーフェイ老の声が聞こえた。

「こいつは馬鹿だが、お嬢さんにイジワルするほど馬鹿じゃない。スレッタお嬢さんはこいつの何が怖いんだ?……顔か?確かにまったく愛想がないが」

 割と失礼な事を言っている。これが整形ではなく素の顔の事を言われていたら、もっとダメージがあったかもしれない。

 クーフェイ老の言い草に半目になると、エランはむすっとした顔のままそっぽを向いた。

 つい先ほどまで死にそうになるほど沈んでいた気分は、いつの間にか老人への憤りに変わっている。これがわざとなら、大したものだ。

 エランがひとりで拗ねていると、スレッタが小さい声で何かを呟いた。

「───なの…」

「ん?もう一回言ってくれるかい、お嬢さん」

「ツルツルなの…」

「つる…なんだって?」

「おじいちゃんたちとちがうの。ツルツルしてるの…。こわい」

「ツルツル…。…お前、禿げてねえよな?」

「禿げてないです」

 すごく失礼な事を聞かれている。将来的にどうなるかは分からないが、今現在のエランの髪と頭皮は健康そのものだ。

「おっきいのもこわい」

 スレッタからの追撃が入った。

「とにかく怖いのは分かった。……エラン、お前はもう袋でも被って小さくなってろ」

「………」

 無茶苦茶な言い分に、だんだんと自分の眉間に深いしわが寄ってくるのが分かる。

 これ以上怖い顔をしたらスレッタがますます怖がってしまう。そう思ってはいるのに、止められない。

 けれど、予想に反してスレッタは新たに泣き出す事はなかった。

 不機嫌そうに深い皺を眉間に作るエランの顔を見て、目を丸くして顔を傾げている。

 つい先ほどまで視線を避けるようにしていたのに、今は不思議そうな顔で真っすぐにエランを見ている。

「んん、今は平気なのか。…なんでだ?」

「おしわがある…」

「おしわ?」

「おじいちゃんたちとおんなじ。むにむに~ってしてるの」

 エランの方を必死に指さして説明している。少し元気が出てきたようだ。

 それはいいのだが、スレッタの言っている言葉の意味がよく理解できない。

「おしわって『皺』か?…皺がある方が怖いんじゃないか?」

 クーフェイ老の疑問の声に、閃いたものがあった。

「そうか、水星には老人しかいないんです。若い人は外に出るまで見た事がなかったと以前に聞いたことがあります。…もしかして、だから、僕が怖いの?」

 原因が分かれば、対策がとれる。この状態をどうにか出来るかもしれない可能性に、エランは目の前が開けた気がした。

 急に話し出したエランの様子に驚いたのか、スレッタがさっとクーフェイ老の後ろに隠れる。

 しばらくして、恐々と覗き込んできた。

「ツルツルになった…」

「………」

 ムリヤリにでも皺を作るべきか、エランが真剣に考え始めると、老人が耐えられないように笑い始めた。

「ぶははは…ッ!あ~腹が痛い!お嬢さん、大丈夫だ。こいつは変なナリをしてるが、害はない。そうだな、ツルツル星人だ」

「ツルツルせいじん…。ゆーふぉーなの?」

「そうそう、宇宙からユーフォーに乗って地球にやって来たんだ。こいつは弱っちいから、例えばお嬢さんがパンチ一発でもしたらすぐに倒れちまうぞ。だから怖い事なんてない」

 ものすごく適当な事を言い出した。

 確かにスレッタに殴られたらショックで倒れるかもしれないが、その他は明らかに嘘だと分かるネタだ。

 嘘をつかない方針で行くことにした、とは何だったのか。嘘だらけだ。

「クーフェイさん」

 ふざけてないで真剣に考えてください。そんな意味を込めて名前を呼んでも、老人はお構いなしだ。「いいから任せておけ」と言って、次々と架空の設定を語り始めた。

 ───ツルツル星人は、寂しがり屋だ。放って置くと悲しがる。

 ───ツルツル星人は、ひねくれ者だ。ひとりで平気だと嘘をつく。

 ───ツルツル星人は、傷つきやすい。泣かれるたびに弱っていく。

 クーフェイ老の与太話を、そうと知らないスレッタは真剣に聞き始めた。エランは止めた方がいいのか迷いながら、結局は口出しできずに座ったままでいた。

 その内に老人のおどけたような口調は、気が付けば言い含めるような物言いに変化していた。

「…ツルツル星人は、遠い所からやって来た。そんで、今は帰れない。お嬢さんと同じだな」

「おんなじ?」

「そう、同じだ。だからこいつはお嬢さんを傷つけないし、むしろ守ろうとするだろう。ちょっと外見が怖いだけの、優しいやつだ」

「やさしいの?エアリアルくらい?」

「そうだな。負けないくらいなんじゃないかと思うぞ」

「………」

 クーフェイ老の言葉に感じるものがあったのか、スレッタは下を向いて何かを考えているようだった。

 そうして正面を向くと、まだ少し怖じ気づいたような様子で、エランをジッと見つめてきた。

「ツルツルせいじんさん…」

「…なに?」

 エランから返事をされてビックリしたのか、彼女はもう一度老人の背に隠れてしまう。待っていると、スレッタは目から頭の先だけを出して、小さな声でこう言った。

「…いやがってごめんね」

「───」

 それは、小さな歩み寄りかもしれない。けれど今のエランにとっては、とても大きな一歩だった。

「いいよ。僕こそ怖がらせてごめん」

 返事をすると、スレッタはまた老人の背に隠れてしまう。

 女性にしては大きな体が、男性としてはとても小柄な老人の体に収まる訳がない。ところどころはみ出したまま、けれど彼女は完全に隠れているつもりになっている。

 彼女は今、四歳の小さなスレッタなのだ。

「………」

 エランは考える。

 情報をできるだけ揃え、彼女の状態を把握して、原因を特定して、解消して…。彼女の状態を元に戻してもらう。

 エランと共に過ごしていた大切な少女を取り戻す。

 けれど今はただ、目の前の少女の事だけをもっと考えた方がいいんじゃないか。

 そんな気がしていた。

「何だなんだ、そんなにジジイの背に隠れて。恥ずかしいのか?」

「ツルツルせいじんさん、やっぱりちょっとこわいの…」

「………」


 …せめて老人の背から出てきてくれるくらいには、仲良くなっておきたかった。








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