まだ初めの頃の話
あのトラ男が船に落ちてきたのはワノ国で別れてから数日も経っていないときだった。
私はいつかあったときのように、トラ男が何か面倒事に巻き込まれてここへ逃げてきたのかと思った。だって、『敵同士』って言っていたけど、こんな風に襲って来るとは思えないもの。それに、仲間も見えないし随分と弱っているように見えた。
だから、慎重にだけど私はトラ男に近づいた。他のみんなも大体同じだった。
「トラ男!スゴい血の臭いだ……どうしてそんなに怪我をしているんだ!何があったんだ?!」
一番最初に彼のそばへ駆け寄ったのはチョッパーだった。その手には救急箱があった。
私では弱っていそうとしかわからなかったけど、チョッパーは鼻がいいからわかったんだ。
「う、腕がない……古い傷もいっぱい……!」
チョッパーが彼の身体を少し見ただけで泣き出しそうになっていた。チョッパーが大好きなロビンじゃないけれど、そんなチョッパーもボロボロの彼も見ていられなかった。
「ね、ねェ私に何か手伝える――!!」
私はあの馬鹿達みたいに何もできないわけじゃないから、出来ることがあると思った。チョッパーへ駆け寄っていったけど、途中で足を止めてしまった。
トラ男がゆっくりと身体を起こしたからだ。
「動いちゃダメだ!こんなに怪我をしているから今すぐ治療しないと!」
チョッパーの忠告をまるで聞こえていないかのような顔をしながら、トラ男は辺りを見回していた。
「ハッ……ハハハ……ハハハハッ」
アーッハッハッハッ
そして座り込んだまま上を向き、大口を開けて笑い始めた。
あまりの異様さに気圧される。彼の一番近くにいるチョッパーも何も言えなくなっていた。
「あァ、なるほど、今回はこういう趣向か。またヘルメスだの何だのがあったから同じことが起きるのかと思っていたが……飽きたのか?なァ、こうやっておれが幻覚を見ている様を観察して笑っているんだろ?そうなんだろう?なァ――
ドフラミンゴ」
困惑している周りを気に留めず、矢継ぎ早に話した後は糸が切れたように倒れた。
その光景を私も含めてみんなはただ見つめることしかできなかった。金縛りにあったように動くことができなかった。
「何があったのかわからないけど、とにかく今はトラ男の治療が最優先だ。このトラ男……何ヵ月もまともな手当てを受けていない」
最初に動いたのはチョッパーだった。倒れたトラ男を抱えて医務室へと向かっていた。
それを見て、私もあとを追った。
歩いていく中、トラ男が最後に口にした名前が耳に残っていた。
*
トラ男がやって来てから数日経つと、彼が私達の知っているトラ男とはどこか違うことがはっきりとわかった。怪我や右腕がないことはもちろん、態度もどこかおかしかった。
彼は幻覚や妄想なんて言葉を何度も口にしていた。『全部幻覚だから、意味がない』と言って手当ても何もかも嫌がっていた。
「早く終わってくれ」
そんなことを言いながら海へ飛び込もうとすることもあった。
ここにいるトラ男は私達が力を込めるとすぐに抵抗を止める。だから治療をすることも飛び込むのを止めることも簡単にできた。でも、無理を通さずろくな抵抗をしないのは、私の知っているトラ男らしくなかった。
「今起きていることが幻覚だと……現実ではないと思わないとやっていけない程の辛い目にあったんでしょうね」
その様子を見て、ブルックがポツリと呟いていた。
「これからあいつはどうするんだ?同盟を組んでいたとはいえ、余所の船長だぞ」
「ちょっと!そんな言い方ないでしょう」
トラ男が眠る中、ゾロがみんながいる場所で声をあげる。言い方にけんがあるからそこには文句をつけたけど、言っていることは正しい。
名目上、今は敵同士だ。本当はここに置いておく必要だってない。
「……そりゃおれ達の所よりハートの海賊団へ連れていく方がいいんだろうけど、前に嫌がっていたんだよな」
ウソップが首を捻っていた。彼らに連絡を取ると伝えたときのことを思い出したら、私だってそうなるはずだ。
『嫌だ……それをよこせ!』
あのときは私の知っているトラ男でも見たことがないような剣幕で、持っていたビブルカードを奪おうとしてきた。何とか取られることは阻止できたけど、彼は必た。あんな風になっていたのはあのときだけだ。
「うーん……やっぱりおれはあのトラ男はおれ達の知っているトラ男とは違う人だと思う」
「チョッパー、どういうこと?」
「右腕、来たときからもう傷が塞がっていた。あの状態になるまでは少なくとも数ヶ月はかかるんだ。でも、最後にトラ男と会ったときはちゃんと右腕がくっついていただろ?」
「つまり、最後に会った時期を考えるとどうしても矛盾する、ということね」
「そう!そういうことなんだ」
ロビンの補足を聞いて納得した。最後に彼と会ったのはどう長く見積もっても約一ヶ月前だ。数ヶ月かかるなら、腕はああならないだろう。
「私もチョッパーの言う通りだと思うわ。彼が誰なのかの予想もつく。
パラレルワールドよ」
ロビンの言葉に全員が固まった。
パラ……パラレルワールドって何?
「パラレルワールドというのは……簡単に言ってしまうと私達がそうならなかったもしもの世界のようなものよ。そうね……例えば、あのとき私が船に乗らなかった世界とか、クロコダイルに殺された世界とか、そんな世界のことよ。みんなも、もしかしたらあのとき自分はこうしていたかもしれない、こうなっていたかもしれない……あるいは、こうなって欲しかったって思ったことはない?」
……ないといえば、嘘になる。例えば、あのときノジコにも事情を言わずにいた世界、とか。
みんなも何か思い当たるものがあるみたいだった。何かしら考えながら黙り込んでいる。
「つまり、あのトラ男はパラ何とかっていうふしぎ世界から来たってことか?」
「ふふっ……まァ、そういうことよ」
その沈黙を破ったのはルフィだった。
「あり得ないって思うかもしれないけど、それを可能にしてしまうものがあるの。ヘルメス、という……移動装置よ。みんな、覚えてる?あのトラ男君、『またヘルメスだの何だの』って言っていたのよ」
覚えてるような、覚えていないような……何となく聞き覚えがある程度だった。正直なところ、あの異様な雰囲気の方が記憶に残っている。
「パラレルワールドを移動できるなんていう滅茶苦茶な機械が存在するということは……あの設計図と同じようなものか。よくそんな機械が残っていたな」
「数が多すぎるから全てを廃棄することは不可能だったみたいよ。あと……正確に言うなら、結果としてパラレルワールドに渡ること可能になった、かしら」
「結果として……っていうのはどういうことだ?」
「それが本来の機能ではないということよ。ヘルメス自体の機能は、能力が及ぶ範囲内なら自由に移動できるというものなの。それがやがて、使っているヘルメスとは違うヘルメスの能力が及ぶ範囲内でも移動できるということが判明したわ。例えそれが……他の世界や時間帯にあるヘルメスだとしてもね」
質問をしたフランキーは何か納得したように頷いていたけど、私には少し難しい話だった。他のみんなも納得したようなしてないような感じだった。……まァ、首をかしげているのも何人かいたけど。
「……少し熱くなりすぎたわ。今は彼に何があったかの方が大事ね」
「そ、そうは言っても中々難しいわよね。ヒントになるのは『ドフラミンゴ』って言っていたことくらいだし」
少ししょんぼりとしているのが見ていられなくて、あわててフォローした。
「右腕が切られるなんて一体何があったのか、全然わからない」
「トラ男の右腕ならミンゴに切られたことがあったぞ」
ずっと黙っていたうちの船長の一言で空間が固まった。
「そういえばそうだったわね」
さらにロビンが追い打ちをかけていった。
「み、右腕が切られたって本当なの!」
「……ドレスローザで戦っているときに切られてたな」
「でもゾウで会ったときは右腕があったわよね」
「レオ達が彼の腕を縫うと言っていたわ。頑張ってくれたのね」
「何でそれをゾロとウソップとフランキーは知らないのよ!」
「別にあいつとずっといた訳じゃねェよ。……」
「そ、そうだぞ!……ん?」
「また会ったのはドフラミンゴを倒した後で、もう腕はくっついていたからなァ」
そこまで質問すると力が抜けた。何があったのか仮説が立てられるじゃない……。
「じゃあ、ドレスローザで何かあったトラ男君の可能性があるのね。もちろん、他の可能性もあるけど」
「他の可能性なんてねェよ」
背後から突然声がした。振り返ると今話題にしていた張本人がいた。
「トラ男ッ!」
「何でここにいるんだ!安静にしてなきゃダメじゃないか!」
みんな驚いていたのに、覇気が使える奴らはただ黙っていた。……知ってたなら言わんかい。
「で、それからどうするんだ?何度もお前らを殺したおれの罵倒でもするのか?ドフラミンゴがやりそうなことではあるよな」
口角が上がっているけど、目元は髪が影になって見えない。どんな表情をしているのかわからない。
「何でそこでミンゴの名前が出てくんだよ」
「これが全部幻覚だからだ」
「幻覚じゃねェ!パラ……何とかから来たんだろ!」
「違う!!」
船全体に響き渡りそうな大声だった。その勢いで髪が動いて目元が見える。一瞬だけ見えた顔は今にも泣き出しそうだった。
誰も動けない中、叫んだ張本人は頭を抱えてうずくまった。
「これは全部幻覚だ。妄想だ。ドフラミンゴがおれの頭を弄って見せているんだ。なァ、いい加減終わりにしてくれよ?お願い、だから……」
全てを拒絶するような体勢のまま、呟いている。
「……言い聞かせていますね」
ブルックが本当に、本当に小さな声で言った。誰もそれを否定しなかった。
「トラ男……嘘つくなよ」
どうしよう。彼に何と言えばいいだろう。そう他の仲間も考えていたと思う。考えていたからこそ動けなかった。
一番最初に動いたのはルフィだった。
ルフィが真剣な表情でトラ男君に歩み寄っていた。
「違う」
ルフィが近づいているのに気付き、ゆっくりと後ずさりしながら耳に手を当てていた。
「嘘ついてたら何も始まんねェぞ」
「違う」
でも、すぐ後ろの壁に突き当たっていた。
「トラ男だってわかってんだろ。自分が嘘ついてるって」
「違う!これは全部おれの妄想だ!」
「違わねェ!これが現実だ!!」
すぐそばまでたどり着いたルフィが耳を塞いでいる手を握った。
大声に驚いたのかまた別の理由なのかはわからない。少なくともその瞬間は顔を上げてルフィを見ていた。
でも、やがて目をそらし項垂れていった。
「違う……違うんだ。違わなきゃダメなんだ。そうじゃねェとおかしい。何であのときなんだ。何でまた……死ぬのを見ないといけねェんだ」
弱々しい様子を見て、ルフィは握っていた手を離した。自由になった両手は、重力に従って床を叩いた。
「…………ねェ、あなたもしかしてこれが初めてじゃないの?」
何か考え込んでいたロビンが突然彼へ目線を向けた。
「ロビン、何言ってるの?」
「ヘルメスは時間帯も越えて移動出来るわ。ドレスローザの件から少なくとも数ヶ月は経った彼が、ドレスローザの件から一ヶ月程度しか経っていないこの世界に来れたようにね。だから、何かあった後に過去へ戻るようなこともあったんじゃないかと思ったの。……ねェ、あってるかしら?」
真剣な表情をしているロビンをチラリと見た後、空を見上げた。
「……さァな。おれが知ってるのは……くたばったと思ったら、負けてからのあのときに戻ってるってことだけだ。これで、三度目だ」
最後にハハハ、と自嘲気味に笑っていた。
彼の言ったことが事実なら……いやこれが事実なんだ。
酷く恐ろしい事実だ。
「もういいだろう。死にたくなけりゃ適当にどこかに置いてけ」
「……そうやって私達を守ろうとしてるんでしょ」
あまりにも見覚えがあるから、思わず本音がもれてしまった。
聞かせるつもりはなかったけど、声が大きかった。彼が笑うのを止めてこちらを向いた。驚いているその顔は、いつも見ていた顔よりもあどけなく見えた。
「でも、そんなのダメ。命懸けなんて、誰も幸せにならない」
聞こえていたならしょうがない。私じゃなくてルフィが言うべきことだけど、と心の中で前置きしながら言葉を続けた。
でも考えていることは同じはずだ。そこそこ長い間一緒にいるからそれくらいわかる。
「誰かに助けを求めるのが怖くても……それでも、助けてって言えば助けてくれる人が沢山いる」
彼のそばに歩み寄り、目線を合わせて手を伸ばした。
虚栄を張って自分から突き放す。まるで昔の自分みたいだ。見ていられないけど、向き合わないとどうにもならない。
横にいるルフィを見ると、もう覚悟を決めた顔をしていた。どうやら、お人好しの船長は彼を助けることに決めたみたいだ。……ま、私が言えたことじゃないか。
「なァ、お前はどうしてェんだ?」
「……」
何も答えはない。だって、これは今の彼にとって難しい問いだ。……色々な意味で。だからいくらでも待とうと思った。
思っていた。
突然、ルフィに後ろへ突き飛ばされた。と同時に、ルフィと私がいた場所に攻撃が放たれるのが見えた。
空間……空間?のようなものが歪んでいる。そこから現れたのは、かつてルフィと……私達の知っているトラ男君が倒したはずの男だった。
咄嗟に魔法の天候棒を構えたけど、役に立てるかどうか……。いや、あの強さだと私はむしろ足手まといになる。ゾロやサンジだって役に立てるか怪しい気がする。
こんなときに何も出来ないのが悔しい。せめて、トラ男君のそばにいたら蜃気楼=テンポが使えたのに……。
いや、こんなところで弱気になっちゃダメだ。隙が出来たら必ずトラ男君を取り戻す!
覚悟を決めて魔法の天候棒を握りしめた。
*
痛い。
痛くてたまらない。
周りも、自分の体も……そもそもどこが痛いのかもわからない。
あ、そっか。
私死んじゃうんだ。
初めての感覚だけど、それだけはハッキリとわかった。チョッパーのことは信じてるけど、でももうむりだなって感じがする。
……あ~あ。私、死ぬんだ。
海賊になるとき覚悟は決めてたはずなんだけど……死にたくないなァ。
だってまだルフィが海賊王になった所を見てないし、世界地図だって作れてない。こんなところで終わりなくなかったな。
トラ男君は大丈夫かな。
大丈夫だよね。
だって私の仲間はみんな強いんだか、ら……。
すみません
まだ続きます
ゆっくりお待ちいただけたら幸いです