まだ何も知らない
懐にフォークを忍ばせている。
店で食事をしたときにこっそりくすねたものだった。隙を見ては硬度の高そうな石で先端を尖らせて、殺傷力を上げている。
理由はあいつに突き立てるためだった。
ドンキホーテファミリー・最高幹部コラソン。
子供嫌いを理由に私をスクラップの山へと放り投げた冷血漢。いつか仕返ししてやると思っていたのに、あいつは私の病気を治すと言って誘拐じみた勢いでドフラミンゴの海賊船から連れ出した。
最初は突拍子のない行動に理解が追いつかなかったけれど、今なら分かる。
あいつは私の体が目当てなのだ。
「コラソンはそのうちローに手を出しかねない。二人きりさせるなよ」
ドフラミンゴが幹部たちにそう言っていたのをたまたま聞いたときがある。
手を出すという言葉の意味をそのときは暴力だと思っていたけれど違う。コラソンは私の体で淫らな行為に耽りたいのだ。
この世には特定の年齢や体つきにしか欲情できない特殊な性的指向の持ち主がいるというのは知っていた。コラソンはそういった性的指向の持ち主で、たまたま私ぐらいの年齢の子供が対象なのだろう。自分の欲望を満たすために私の体を狙っている。
性行為の知識は一通り持っている。私とコラソンの体格差で行為に及ぶのは死にかねないというのも分かっていた。まもなく死に向かう体とはいえ、変態の慰みものになって死ぬなんてごめんだ。死に方くらい自分で選ぶ。そのためにファミリーにも入ったのだ。
珀鉛病の体では単身で遠くへ行けない。同じ珀鉛病に侵されていた死体に紛れて国境を越えたときとは訳が違う。運良くコラソンから逃げられたしても、斑になっている肌が見つかればあっという間に駆除されてしまう。この世界で私は差別対象だ。庇護してくれるあても無ければ、子供一人で海を渡るための装備も路銀もない。コラソンの乗ってきた舟を奪えたところで、航海術の心得の無い私が元いた場所に帰れる確率も低い。八方塞がりだ。
だからもし少しでもコラソンがおかしな素振りを見せたらただではおかないという思いでフォークを手に入れた。ナイフのような刃物は、一度背中を刺したので持たせてくれないだろう。このフォークだけが私の切り札だった。
どこにも行けない私がせめて一矢報いるための武器だった。
◇ ◇ ◇
「なァお前どうしたんだ?寝てねェのか?」
眠れないのはお前のせいだと噛み付きたいが、自分の出した声が頭痛に響きそうで黙るほかなかった。寝たら絶対に手を出されてしまう。
コラソンに連れ出されてから三日が経とうとしていた。その間一度も気を緩めることができず眠れもしない状況に、体調はどんどん悪くなっていく。
常に瞼が重たい。頭もガンガンする。耳鳴りもひどくて胃のあたりがムカムカした。
それでも眠ったらおしまいだという恐怖が私の意識を覚醒させる。
好きな人とするものだと言われている行為を嫌いなやつとしたくない。何より怖かった。同意のない行為は魂の殺人だと、前に本で読んだ。今更死ぬのなんて怖くない。ただ命は無事なのに殺人とまで形容される行為の得体の知れなさが怖かった。
破壊衝動はあっても破滅願望はない。間近にある身の危険に好奇心などなかった。
「なァ、ほんとにどうしたんだ?頭か?お腹か?どこが痛いか分かるか?」
耳鳴りがする。原因など分かりきっているけれど、私は安全を求めようにもどこにも行けなかった。
以前にジョーラとベビー5の気紛れで肌が隠せないか試したことがある。可愛い服を着せたいのに珀鉛病の特徴である斑模様の肌では映えないからと、化粧で色を整えようと試みたのだ。しかし珀鉛に侵された肌は元の肌と質感が変わるらしく化粧が上手く乗らなかった。隠すなら服や帽子しかない。
ここから逃げて、なんとか肌を隠しながらファミリーの元に戻って、と実現不可能な計画を延々と組み立ててしまうのも寝不足による思考力の低下にほかならない。
「おい!」
頭の中でぶつんと音がした。辺りが真っ暗になって急に夜がやってきたと思った。夜が来たのではなく、体に限界がやってきたのだと理解する前に私の意識は暗闇へと吸い込まれていった。
目を開けると久しぶりに頭がすっきりしていた。ずっともやもやと頭を支配していた重たい影が抜け落ちて、思考もクリアだった。
「野宿が悪かったんだろ?お前育ち良さそうだもんな」
声がして横を向くと、紫煙をくゆらせながらコラソンが立っていた。
ごわごわとした手触りのシーツに簡素なベッド。薄暗くろくな家具もない部屋を見渡してここが宿だと知る。酒場の二階にあるようなろくに泊まる客の顔を見ない安い宿だ。おそらく珀鉛病の子供を連れ込めるところがここぐらいしかなかったのだ。窓から見える日の傾き具合から数時間ほど眠っていたようだった。
我に返って体をまさぐる。服に乱れた様子は無い。体も痛くなかった。一つだけ倒れる前の違いに気付いてハッとする。
「あとこれ」
目を合わせようともしないコラソンがフォークを差し出した。たしかに私が持ち歩いていたものなのに、コラソンの大きな手の上で見ると自分の唯一の武器は針金みたいに頼りなくてちっぽけだった。こんなもので何が出来るのだと意気消沈しそうになった。
「お前が何考えてたのかは分かった。おれのことまだ殺したいんだろ」
それでも何もないよりマシだと思ってフォークをひったくる。少し離れた位置にある椅子を引いてコラソンが座った。
「おれが嫌いなのも分かる。でもお前はあんなとこにいちゃいけないんだ。病気治して早く平和な暮らしに戻れ」
目の前がカッと熱くなった。戻りたい平和な暮らしなんてない。政府が全て私から奪っていった。尊敬する父様も、優しい母様も、可愛いラミも、居心地のいい家も、もうこの世界のどこにもない。なのに戻れと言う。無責任なことを言うなと頭に血が昇って、感情が噴き上がる。
「あんなとこでもここよりは安全だ」
「ここよりも安全だって?バカ言うな」
しらっとした態度が気に食わなくて、私はとうとう自分の思いをぶちまけた。
「コラソンが私に手を出すって!だから絶対道連れにしてやるんだ!お前みたいな変態にいいようにされてたまるか!」
言葉を繰り出す度にコラソンの顔色が悪くなっていく。真っ青になったと思った顔はいまや死人のような土気色だった。
「違う!おれは、おれまで化け物なわけない!お前に手を出すだと?ふざけんな!ガリガリで体調悪ィガキに何するって言うんだ!」
かつてないほどの剣幕に怯んでしまう。だがそれは一瞬のことだ。こいつが間違っているのだ。私が怯む義理はないと奥歯を噛んだ。
「ドフラミンゴが言ってたぞ!お前に私を近付けるなだってさ!お前は子供にしか反応できないペド趣味だって!そんなやつの言葉なんか信用するか!」
ドフラミンゴはそこまで言っていなかった。口をついて出るのは誇張した表現だ。体を傷付けられないならせめて言葉で乱してやりたかった。
「私が病気で帰るとこもないガキだから、性欲の捌け口にしてやろうと思ったんだろ!この変態!」
コラソンが立ち上がる。手を振りかざすのがスローモーションに見えた。殺気じみた怒りがこちらへと向けられる。殴られる、と避けるために腕で庇ったときだった。
ドン!と音がしてコラソンは机に拳を下ろしていた。安宿に備え付けてあった小さな机は木片になって床に崩れた。いくら粗末な家具だからといって素手で壊せるようなものではない。もしも私に当たれば骨が砕けただろう。腕っぷしはいいと言われていた理由を目の当たりにして血の気が引いた。
「ううっ……」
崩れ落ちるようにしてコラソンの巨体が折れ曲がる。机を破壊した張本人のくせに痛がっているような仕草だった。訳が分からなくておそるおそる距離を縮める。
コラソンは泣いていた。手負いの獣じみた声を上げながら膝を抱えて泣いていた。
皮膚がチリチリするほど迫力のあった怒気はすっかり消え失せて、ふわふわした黒いコートも相まって大きな動物が丸まっているみたいだった。ぐぅ、う、と喉の鳴る音と鼻をすする音すら動物じみていた。
「なんで泣いてるの……」
答えはない。答えられないのかもしれない。コラソンは止まらない涙と一人で戦っているようだった。
図星なのだ、とそのとき確信した。ドフラミンゴは正しかったのだ。コラソンは私ぐらいの子供を性的対象にしている人間で、他ならぬ性的対象に自分の指向を看破されて動揺した。あの怒りはそこから来ている。
同時に自分の性的指向を肯定的に捉えていないのだ。「おれまで化け物なわけない」という先ほどの言葉が甦る。コラソン個人の価値観は子供を性的対象とする人間は化け物として侮蔑するべきものなのだろう。泣いているのはきっと価値観と性的指向の食い違いから来る酷い自己嫌悪のせいだ。
「一緒にいたらつらいんでしょ?私を帰して」
「それはできねェ」
「強情な奴」
嗚咽混じりに断られて舌打ちした。こんな情緒も性癖もおかしなやつと一緒にいるなんてごめんだったのに、コラソンは一歩も譲ろうとしなかった。
「ひとつだけ言っておく。おい、こっち見ろ」
涙で化粧が溶けてどろどろになった顔がこちらに向けられた。正直不気味なので首を反らしたのに、コラソンは無理矢理視界に入り込んできた。
「おれはお前に何もしない。そりゃ病院連れてくためなら引っ張ることはあるだろうが、誓ってお前に変な触り方はしない。お前はファミリーを出たから、追い出したいおれが暴力を振るう理由もなくなった」
肩に手を置こうとしたのかこちらに腕が伸びてきたが、躊躇うように指先が握られて引っ込められた。何もしないという言葉を証明したいらしい。
「だから安心して寝てくれ。お前が嫌ならおれは離れて寝るし、できるだけちゃんとしたとこで寝れるようにするから」
コラソンの声は何故か懇願のような悲しい響きを持っていた。
「お前が倒れたとき、ほんとにびっくりした……。死んじまうんじゃないかって怖かった」
「あーもう!分かったわよ泣くなよ!大人でしょ!」
また声が湿り気を持ち始めたので早口で捲し立てた。大の大人がみっともないと、今までの無口で非道なコラソンはどこに行ったんだと、思いながらもひょっとしてこれが素なのかと納得している自分もいた。嘘を吐くために子供相手に泣き落としする大人もなんか嫌なので、こっちが素であって欲しいとも思った。
まだしばらく一緒にいるほかないとするなら、今の泣き虫なコラソンの方が幾分マシだと思っている自分がいた。
「本当に何もしないから」
ダメ押しのように繰り返されたコラソンの言葉の裏にどれほどの決意が隠れていたのか、そのときの私は知らないで曖昧に頷いた。