ぼくとはちがうきみ
※生々しい描写、流血表現、若干のセンシティブがあります
モビルクラフトを所定の位置に止めると、エラン・ケレスはため息を吐いた。
今日もモビルクラフトを使った仕事は滞りなく終わらせる事ができた。けれど、きっと業務外の仕事がやって来るだろうことは分かっていた。
「おい新入りぃ!搬入が終わったならさっさと降りて来いっ。今日も指導してやるからなっ」
「………」
最近はエランの仕事が終わる時間を見計らって、毎日のようにやって来る老人がいるからだ。
エランは体は小さいのに無駄に声の大きいその人物のことが、はっきり言って苦手だった。
「…クーフェイさん。言っていなかったかもしれませんが、自分は正規の社員ではありません」
「そんなもん見てれば分かるわ。ゴチャゴチャ言っとらんで早く来い」
「………」
今日は同居人であるスレッタ・マーキュリーの様子が少し気になったので、正直に言えば早く帰ってしまいたかった。
昼休憩の時に連絡したときは、具合が悪いという訳ではないようだったが…。
それでもどことなく声に張りがないように感じてしまい、エランは作業中も落ち着かなくなっていた。
「その、クーフェイさん。今日は少し早くに…」
帰りたい、と言う前に老人は喋り始めた。
「何だ。もう今日の分の仕事は終わっただろ。暇なお前に定時までタダで勉強させてやろうってんだ。…断らんよなぁ?」
その老人の顔は、偏屈な性格を反映したような皺の付き方をしていた。眉間や額に深く大きく皺が寄り、こちらを落ち窪んだ鋭い目でねめつけてくる。
一瞬具合が悪いとでも偽ってしまおうかと思ったが、また盛大に騒がれては堪らない。エランは初日に思いきり殴られたことを忘れていなかった。
「……今日は用事があるので、残業はできません。それでよければ…」
「なぁに勝手に注文を付けようとしてるんだ。新入りはただホイホイこちらの言う事を聞いてりゃいいんだ。ほら、行くぞ」
「………」
この人は苦手だ。本当に。
クーフェイという老人はこの工場内で自由気ままに振舞っている。どうやら元からこの工場にいた人物ではなく、技術指導などの名目で別の地域からわざわざ招かれてやって来たらしい。
工場の創業者と懇意にしているらしく、だからこんなに横柄な態度でも許されているのかと妙に納得してしまう。
クーフェイ老は特に仕事上のノルマなどはなく、特定の人物に旋盤や研磨などの技術を教え込んでいる。今はパーメットによって従来よりも早く正確に部品を生成できるのだが、驚いたことにそれらを一切使わないアナログな工作機械で指導に当たっていた。
元々この工場にあったのか、それともわざわざ持ち込んだのか。最近来たばかりのエランには伺い知れない事だった。特に興味もないので本人に聞いてもいない。また怒鳴られるのがオチだからだ。
エランはこの老人に目を付けられていた。工場に来た初日、すれ違いざまに挨拶を交わしたのが始まりだ。
その時に呼び止められ、ジロジロと見られ、何故か盛大にチッと舌打ちされたのだった。今思い出しても訳が分からないと思う。
作業自体は、嫌いではない。素材…こちらの工場では主に樹脂を使っているのだが、それを必要な形に切りだしたり、磨いたりするのは楽しいものだった。
エランが作った素材は工場で使われることはない。まだまだ技術を習い始めたばかりだし、やはりパーメットを使った最新式の方が早く正確に作れるからだ。
他の技術指導をしている社員の作った部品も、特に使われている訳ではないようだ。
本当に、何のために存在しているのかまったく分からない。そんな謎の人物がクーフェイ老だった。
彼は時々、独り言のように持論を述べていることがある。
「パーメットってのはなぁ。あんなのなくてもな、人間ってのは色々とできるもんなんだ」
今や無くては世界が成り立たなくなるくらい普及しているパーメットを貶したかと思うと───。
「故郷に砂を掛ける人間ってのは一番信用できねぇ。そいつらは新しい土地へ行ってもそこにあるものを食いつぶすだけだ。反吐が出らぁ」
───何やら過激な事を言ったりしている。
基本的にこの老人は文句ばかりを口にしている。彼からポジティブな発言を聞いたことは一度もない。
余計な口を開けばやはり文句が飛んでくるので、エランは黙々と教わった通りに機械を動かしていた。
「ふん、まだまだだな。下手くそぉ」
「………」
最後に恒例である罵りの言葉を貰い、本日の業務は終了した。
クーフェイ老は就業時間を越えてまで指導をすることがあるが、今日は偶々なのか時間ピッタリに終わらせてくれた。
エランは早々に私服に着替えると、寄り道もせずにアパートへと帰っていく。
朝に買い物用のメモを渡されていたが、悠長にお使いをする気分ではなかった。スレッタの様子を確認出来たら改めて買い物に行けばいい。
とにかく今は笑顔の彼女に迎え入れて欲しかった。
最後の方は早歩きを通り越して、少し小走りになっていたかもしれない。あまり音を立てないように注意して外付けの階段を上ると、エランは借りているアパートのドアを開けた。
「今帰ったよ、スカーレット」
玄関口では誰かが偶然声を聞いている恐れがある。まだスレッタの偽名を口にしながら、エランは靴を脱いでルームシューズに履き替えた。
この地域では高温多湿のせいか、家の中は靴を脱いで生活をする習慣がある。脱いだ靴を玄関に備え付けてある靴置き場に入れると、エランはもう一度声を掛けながら廊下を進んでいった。
スレッタの返事はない。家の中もシンとしている。けれどスレッタの靴…お気に入りのサンダルは置いてあったので、外に出ているという事はないだろう。
昼に連絡をした時は、まだ少し眠いからお昼寝をすると言っていた。それから時間は経っているが、まだ眠っているのかもしれない。
彼女の様子を確認して、特に問題ないようなら頼まれていた買い物に出かけよう。
エランは少し不安になりながらも、自室へは戻らずにまずはダイニングへと向かうことにした。
アパートの部屋の中でも広めに作られているダイニングには、入ってすぐのところに大ぶりのソファが置いてある。スレッタはよくそこに座ってくつろいでいたり、うたた寝をしていたりする。
もし居ないようなら、気は進まないがスレッタの部屋を確認しなければいけない。そう思いながら覗き込むと、ソファに横になっているスレッタの姿を見つけることができた。
まずは彼女の姿がある事にホッとして、次いで眠っている様子を注意深く観察してみた。少し顔色が悪いだろうか。汗もうっすらとかいて、寝顔も少し強張っているように思う。
スレッタの首筋に指を当ててみたが、特に脈が乱れているわけではなく、呼吸も正常に行えている。けれど、やはり普段の様子とはどこか違う。
もう少し様子を見るべきか…エランが迷っていると、スレッタの目尻がピクリと震えた。
「…スレッタ・マーキュリー」
覚醒を促すように。けれど出来るだけ驚かさないように、静かな声音で呼びかける。
エランの声が聞こえたのか。彼女は眉間にぎゅっと皺をよせると、どこか苦し気な顔をして目を開いた。
「……えらんさん?…おかえり、なさい」
「スレッタ・マーキュリー。…ただいま」
こんなに具合が悪そうでも、自分への挨拶を優先してくれている。エランは胸の柔らかい所がぎゅうっと絞られるような感覚を覚えた。
「ん、…すごく、眠っちゃってました」
「そうみたいだね。…どこか痛い所や苦しい所はない?」
まだぼんやりしているスレッタに優しく問いかける。
「えっと……ん、ぅ…」
返事をしようとした彼女は、急に顔をしかめたと思うと、手のひらをお腹に当てて庇う仕草をした。
「お腹、痛いの?」
「少し、ズキズキします」
冷房でお腹が冷えてしまったのだろうか。それとも食べ物にでもあたってしまったのか…。
「吐き気はない?」
「それは、大丈夫です」
あまり酷いようなら病院に連れて行こう。頭の中で近くの内科病院をリストアップしていると、スレッタが体を起こそうとしていた。
エランは急いで彼女の背中に手を回して、身を起こすのを手助けした。小さくて軽い背中が、ソファの上にゆっくりと起き上がる。
「無理はしないで」
「あの、あの、お、お手洗いに…」
スレッタが恥ずかしそうに口にする。何か悪い物が体に入ってしまったのなら、我慢せず出してしまった方が良い。
とはいえそんな事を口にすれば彼女はますます恥ずかしがってしまうだろう。エランは何も言わず、ただ頷いて彼女を見送ることにした。
彼女がトイレに入っている間に、薬でも用意してあげようか。整腸剤と痛み止め、どちらがいいだろう。そう思っていた。
そうして何気なく彼女が寝ていたソファに目をやって、
───視界の端を掠めた赤色に、思考が停止した。
「───」
見た瞬間、ひゅっ、と変な呼吸音がした。あまりの動揺に、正常な息の仕方が分からなくなる。
ソファの飾り布に、赤色がべったりと付着していた。まだ変色していない鮮やかな赤。流れたばかりの、恐らくは───血液だった。
「………ッ!」
すぐに数歩離れた所にいるスレッタへ追いつき、肩を掴んでこちらに向かせる。
「ひゃっ!?」
咄嗟の行動だったので、スレッタへの声掛けもせずに手を出してしまった。けれど驚く彼女へ弁明することも忘れ、体に目を走らせる。
その時は、彼女が怪我をしたと思っていた。意識をしていなければ、案外深い傷でも気付かずに過ごしてしまうこともある。もしやそういう類ではないかと疑ったのだ。
「な、何…エランさん」
「スレッタ・マーキュリー、ケガ…、は……」
「え?」
けれど、すぐに違うと気付いた。
この地域はどこも基本的に蒸し暑い。冷房を付けていても、よほど低くしていなければ半袖で過ごした方がいいくらいだ。
スレッタも部屋ではラフな格好をしていた。少しだけ大きめのTシャツに、丈の短いハーフパンツ。最近ではすらりとした足を見ていることが出来なくて、エランはよく目を逸らしていた。
その、足の間に。
「───」
「?エランさん、どうし…」
スレッタは少し顔色が悪いまま、しかし何が起こっているか分からずにきょとんとしていた。
エランが強張った顔のまま太ももの辺りを見ていることに気付いたのだろう。何かあるのかと視線の先を追い、そして彼女の顔も凍りついた。
彼女の柔らかそうな内腿に、ハーフパンツから漏れ出した血が、べったりと付着していた。
「ひゃ、あ…!ウソ…ッ!」
事態を理解したスレッタは、動揺したようにTシャツを引っ張って隠そうとした。ゆとりのあったシャツの遊びの部分が無くなり、普段はうっすらとしか分からない胸の形が浮かび上がってくる。
それでも隠しきれずに、スレッタは中腰になって何とかエランから見えないようにしようとしていた。
「ひ…ッ」
すると、スレッタが引きつったような声を上げた。腹から腿にかけて相当な力を入れたのか、ぶるぶると震えている。
エランの見ている前で、Tシャツの縁に赤い色がじわじわと広がっていった。
下着から溢れ、丈の短いハーフパンツでは吸いきれなかった新たな血が、ポタリ、と床に落ちた。
「ふ、え、うぅうぅ~ッ」
それが合図になったのか、とうとうスレッタは床にペタンと尻をつけて、泣き出してしまった
「あ…す、すれった・まーきゅりー」
動揺して、声が震えたまま彼女の名前を呼ぶ。
こういう時に、どうしていいかなんてエランは知らない。分からない。けれど、彼女が泣いているなら何とかしてあげなければいけなかった。
ようやく少しだけ動き出した鈍い頭で、エランはとにかく彼女の姿を隠してあげようと考え付き、洗ったばかりのシーツを持ってきて彼女を包み込んだ。
その後は…そのあと、どうしたらいいんだろう。エランは途方に暮れた。
彼女が行きたがっていたトイレに連れて行ってあげるべきだろうか。それとも、汚れを落とすためにシャワーの方へ連れて行った方がいいんだろうか。
そもそもこんな状態の彼女を連れて行く───体を抱き上げるなんて、男の自分がしてもいいものなのだろうか。
判断が付かなかったエランは、スレッタ本人に選んでもらう事にした。
「スレッタ・マーキュリー、よければ僕が、その、トイレかシャワーまで運ぼうか?シーツで包んで、直接は、触らないから…」
断られたら見守るだけにしよう、そう決めて声に出すと、スレッタはごく小さな声で「シャワー…連れてって、ください…」とエランへ伝えてきた。
改めてシーツで腰のあたりを重点的に包んで、スレッタを慎重に抱き上げる。お腹に痛みはあるようだが……血が出ている場所が痛むのかは知らない。けれど出来るだけ負担が掛からないように気を付けて運んでいく。
この地域では風呂は基本的にシャワーだけになる。このアパートでも例にもれず、狭い箱型の部屋にそっけなくシャワーが備え付けられている。
そこにスレッタを降ろすと、エランはすぐに離れようとして、彼女の着替えが必要な事に気がついた。
たしか、まだ洗濯したばかりの彼女の部屋着があったはずだ。血で汚れた服はゴミ袋にでも入れて捨てればいい。それと……。
「…スレッタ・マーキュリー、着替えはすぐに持ってくる。袋も一緒に置いておくから、汚れた服はそこに纏めて入れておいて。後で僕が中身が見えないようにして捨てに行くから」
「………」
俯いたまま返事がないが、多分聞いているはずだ。エランは続きを話すことにした。
「その…下着は、僕のまだ使っていないものを用意する。それも捨てていいから、遠慮なく使って。あとは、必要なものを買ってくるから、シャワーから出たら安静にしていて」
「………」
小さくこくん、とスレッタが頷いたのを見届けると、エランはすぐに着替えを用意してシャワー室の前に置いた。水の音がするので、おそらくはキチンとシャワーを浴びているはずだ。
行動を起こせるならひとまずは大丈夫だろう。エランは端末と財布を掴むと、アパートを慌ただしく出て行った。
必要なものとは何か、よく分からないまま飛び出してしまったと気付くのは、もうだいぶアパートから遠ざかった後だった。
「………」
エランはひとまず最寄りの店に行こうと足を動かしていた。
必要なもの、と簡単に言ってしまったが、女性の体の事など詳しく勉強する機会がなかったので、具体的な商品名などは浮かんでこない。
スレッタの症状は、おそらく月経…。女性が月に一度の頻度で子宮の状態を整えるためのものだ。
ならばドラッグストアで大丈夫だとは思うのだが、店の看板が見えた所で、エランは躊躇してしまった。
知識が何もない状態で必要なものを正確に購入できる自信はない。ならば店員に聞くしかないが、たまに立ち寄る店でそんな事を聞いたとして、その後も自分が普段通りに店に行けるのか分からなかった。
むしろ気まずくて行けなくなる可能性が高いのではないかと思えた。
今よりも緊急性が高い事柄が起きたらそんな悠長なことを言っていられないが、普段から何の憂いもなくすぐに薬を買える場所は確保しておきたい。
なら今回は違う場所に行った方がいいだろう。
エランは一瞬で判断すると、看板の前を通り過ぎ、少しだけ足を延ばすことにした。一度も入ったことはないが、それなりに大きいドラッグストアが工場の近くにもあったはずだ。
もしかしたら知り合いに会ってしまうかもしれない。そんな簡単な事すら見逃したまま、エランは工場近くのドラッグストアへと駆け込んでいた。
エランが店に入った時、間が悪い事にフリーになっている店員は誰もいなかった。レジには人が並び、すぐには空きそうにない。
仕方ないので少し待とうか…。そう思ったところで、嫌な声が聞こえて来た。
「おう新入り。そんなに慌てて、どうしたってんだ」
「…クーフェイさん」
普段は我慢しているが、気持ちが少し顔に出てしまったかもしれない。
強張った顔をしているだろうエランを見ると、クーフェイ老はピクリと眉を動かして、ズカズカとこちらへ近づいて来た。
「新入り、お前何が欲しいんだ?」
「え?」
「何か辛気臭い顔してるじゃねぇか。その割に目的の物を探そうって感じじゃねぇ。店員に話を聞きたいんじゃないのか」
よく見ている。そして珍しい事にこちらを罵る言葉ではなかった。
あまりに察しが良すぎることに普段のエランなら気付いただろうが、この時はまだ動揺が続いていたのでつい見逃してしまった。
それよりもいつも怒っている老人の理性的な姿に毒気を抜かれてしまい、自分でも気付かぬうちに「月経の道具を探しに…」と口を滑らせてしまった。
その言葉にまたもやピクリと眉を動かして、クーフェイ老が疑惑の声をあげる。
「お前が使うって訳じゃねぇよな?」
「あ、当たり前ですっ」
冗談にしてはたちが悪い。さすがにエランも少し怒ったような口調で返事をした。
「家族か?妹か?」
「………。そんな所です」
詳しく説明するには複雑な関係だ。明言はしないが、とりあえずは家族という事で話を通すことにする。
その後も突っ込んで聞いてくるので、振り払うのが面倒になったエランは今回が初めての出血だという事、対処する道具も何もないので自分が買いに来た事などを打ち明けてしまった。
…少しヤケになっていたのかもしれない。
けれどクーフェイ老は、エランの話を聞いても笑うことはしなかった。
「俺もそれほど詳しい訳じゃねぇが、新入りよりはマシだな。おう、この辺りの品をカゴに入れてけ」
「………」
何故か先導するクーフェイ老の指示通りに品物をカゴに入れていく。生理用ナプキン、サニタリーショーツ、痛み止めの薬、用途は分からないが小さいゴミ箱、不透明になっている小さい袋、等々だ。
「これくらいでいいだろ」
そう言ったクーフェイ老はエランの手からカゴを奪うと、更に現金を要求してきた。財布の中から多めの金額を老人に渡すと、チッと舌打ちした彼はそのままレジへと並んでいく。
「ほらよ、釣銭だ。ついでに店員に聞いて、生理中の体に良い飲み物も買っといたぞ。妹さんに作ってやんな」
「………」
見れば、老人に言われるがまま入れた商品の他に、ココアの粉が入っていた。最近はコーヒーばかりで、他の飲み物は買っていなかったように思う。
「あとは体が温まるスープでも飲ませて、ゆっくり休ませてやれば大丈夫だ。生理ってのは病気じゃねぇんだ。大人になった証だから、そんなに心配しなくてもいい」
「………」
「ほら、早く帰ってやれ。グズグズすんなっ!ボケ!」
「…ありがとうございます」
怒り始めた老人を前に、エランは心からの礼を言うと急いで店から出て行った。
意地悪で困った人だと思っていたが、クーフェイ老はそれほど悪い人ではないのかもしれない。
エランの頭には、フロントから脱出する際に出会った大人たちの顔が浮かんでいた。
「…た、ただいま。スカーレット」
小走りで帰って来たので、少し体が熱い。エランはすぐに靴を脱ぐとダイニングへと向かった。
そこには、少ししょんぼりした様子のスレッタが座っていた。きちんと体を綺麗にして服を着替えている。丈の短いハーフパンツではなく、旅の間に着ていたような少し厚手のズボンを履いていた。
「おかえりなさい、エランさん。…あの、色々とごめんなさい」
「謝らないでいい。とりあえず、必要なものはあると思うから、これを」
もう泣いていないスレッタにホッとして、エランはあらかじめココアだけ抜いた袋をそのまま手渡した。彼女の前で中身を取り出すことは流石に出来そうにない。
袋を渡されたスレッタは中身を確認すると、困ったように眉を下げ、目を伏せて恥ずかしそうな顔をした。
エランはその様子にドキリと心臓が跳ねたが、ここまで走った影響だと思うことにして、言葉を重ねた。
「その、朝に頼まれていた買い物と、夕食を買ってくる、から」
「は、はい。…お願い、します」
恥ずかしそうな顔のまま、上目遣いでこちらの顔を見上げるスレッタを見ていられずに、すぐにまたアパートを出ていくことにする。
玄関に向かう途中でソファや床の上に目が吸い寄せられる。ちゃんと掃除をしたようで、ソファの飾り布は剝ぎ取られ、床はピカピカに磨かれていた。
ソファや床、太ももを流れる赤色が頭の中に浮かび、エランは慌てたように靴を履き替えると玄関の外に出た。
「………っ」
はっ、と息を吐く。いつの間にか息が上がり、心臓がドクドクと鼓動を刻んでいる。
少し覚束ない足取りで、外付けの階段を下っていく。
今までエランは、自分とどこか同じようにスレッタの事を見ていたし、考えていた。
自分とは違う境遇、自分とは違う性格、自分とは違う能力。
頭では、分かっているつもりだった。でも表面上の事だけで、分かっているつもりになっていただけだった。
彼女は、小さかった。彼女は、軽かった。彼女は、柔らかかった。彼女は───。
「………」
階段から地面に足を着ける。しかしすぐに歩き始めることができなかった。
くしゃりと前髪を掴んで俯く。赤色がチラチラと目の端を掠めてくる。
───彼女は、体の中から自分とは違っている、女だった。
実感を伴って迫って来たその事実に、エランは衝撃を受けていた。