ひよ里と赤子

ひよ里と赤子



子供用の小さい布団、などという気の利いたものが身を寄せ合って暮らす逃亡者の家にあるはずもなく。ついこの間産声を上げた、平均よりも随分と小さく産まれたらしい赤子は大きめの座布団に乗せられてふにゃふにゃと口を動かしていた。


「猿みたいな顔しとんなあ」


それが、ひよ里が最初に思った感想だった。それをいつだったか口に出したら、オマエとお揃いやんけ、などと返されたのは記憶に新しい。いつもなら顔面に飛びかかるところであったが、それを言い放った張本人は産後の肥立が悪いまま床に伏せていたので、結局ひよ里は何を言い返すこともできず、座布団に寝かされた猿のような赤子がふにゃふにゃ生きているのを、じっとそばで眺めていた。


猿のような赤子に名前が付けられ、とりあえず母と布団を共にしても問題ない程度に体が丈夫になった頃には、猿のような赤子は見事に花のような赤子となっていた。しかし丈夫になったのは骨やら皮膚やらだけであったようで、花のような赤子は、これまた見事なほどに生と死の境をふらふらしている赤子だった。


「勢いで名付けたけど、花の名前にしたのは失敗やったかもしれん」


冬を越せないかもしれない、と浦原に言われた時に、赤子を産み落とした母がぽつりとそうこぼしたのをひよ里は間違いなく聞いた。その時赤子はやはり高熱を出しながらも不思議と気分が良いのか、黒い猫の尻尾に夢中になっていたので、生まれてから数ヶ月で初めてかもしれない、母の後悔を聞くことはなかった。

ひよ里はしばらくぶりに、具体的には現世に逃げ延びてから初めて、その女の顔面にドロップキックを喰らわせることとなった。


「あの子腹で守ってた時の覚悟はそんなもんか!」


そのときの女の顔は、たぶん一生思い出せるだろう、とひよ里は直感した。

なにせ、赤子が産まれてから、そしてひよ里が女と関わるようになってから初めて、堰が切れたようにぼろぼろと涙を流す様子を見たからだった。


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長くも短くも感じる冬であったが、幸にして赤子が死ぬことはなかった。半分以上死んでるようなものだったが、それでも最後は母の呼び声に応えたのか、それとも内側にいるのかもしれない誰かに支えられたのか、赤子は厳しい季節を超えて春を迎えた。薄く細かった髪の毛も柔らかいウェーブを描いて生えそろい始め、ひよ里は少々困惑した。母とは似ても似付かぬ髪質に憎悪する男を思い出したのだが、共に暮らす男が「それじゃあボクがこの髪をあげたことにしよう」と言い出してからはそれほど気にならなくなった。

冬を超えても、やはり赤子は生と死の境をふらふらとしていることに変わりはなかった。月齢を重ねても言葉を発することはなく、家から出られぬまま、あまりに遅いペースで少しずつ身体が発達していく。しかし好奇心は相応にあるようで、元十二番隊であるひよ里は、あちらこちらでその腕を振るうこととなった。なにせこの赤子ときたら、死にかけているときはぐずぐずと泣いているくせに、力強く生きているときは興味のままに動き回るという、なかなかに手間のかかる赤子であったからである。


「こら、そっちにいったらあかん」


最近、赤子が気になるのは斬魄刀であるらしい。危険極まりないのだが、赤子にそんな理屈がわかるはずも無く。一度目を離した隙に、刀禅をしている誰かの刀に触れようとして以来、誰かが斬魄刀を剥き身にしているときは、必ず監視が付くこととなった。

生きては死にかけ、しかも生育が遅れているように見える赤子に、母親が気を揉んでは元隊長とうんうん唸っているのをひよ里は知っている。しかし、きちんと目を欺いて斬魄刀に触れようとしているあたり、そこまで気にしなくとも良いのではないか、と思い始めている。

なにせひよ里は、この赤子といくつもの頭脳バトルを繰り広げているのだ。触れてはダメなものに柵を設けては突破されかかり、意地になって強化しては対応される、その繰り返し。今のところひよ里が全勝しているが、いつか敗北する日も来るのだろうと思っている。


「いつまで猫被っとんねん……それともめんどくさいんか?」


なにせこの赤子は、唯一藍染惣右介の異常性に気付いていた平子真子と、そんな隊長を欺き通し何人もの隊長たちを罠にかけた藍染惣右介の娘なのである。後者は間違いなければ、という但し書きがつくものの。

それでも、この赤子が何もわからぬ愚者でないことはわかる。それでも心配が尽きぬのは、腹を痛めた母であるからだろうか。


「オマエもなあ、あんまり母ちゃん心配させたらアカンで。オマエのために頭捻っとるんや、死ぬ前にオカンの一声でも聞かせてやり」


こてり、と赤子が首を傾げた。やはり言葉を話すことはない。首がすわり、身長はめきめきと伸び、体重も増えた赤子は、しかし今もまだ生と死の間をふらふらしている。だがひよ里は、半分ある死の確率の、そのまた半分はコイツの好奇心に由来しているのではないかとも思っている。

これから先、赤子が幼児となっても、やはり生と死の間をふらふらしては、ほんの些細な何かであちら側に落ちてしまうのだろう子供をひよ里は抱き上げた。珍しく体調も機嫌も良い昼下がり、たまには散歩の一つでもして外を見せるのも良いだろう。外を歩かせては体調を崩しかねないが、抱き上げて数分外に出る程度なら問題ないことも分かってきた。風邪を引かぬように上着を着せて、靴をつっかける。

赤子が産まれてから一年を迎える、ほんの数日前。

特段語ることも綴る意味もないはずの、ただの晴れた日。


赤子が初めて母を呼ぶ、その数時間前のことだった。

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