ひょうそう
深夜、全身に迸る激痛で目覚めた彼は、痛みを堪えながらもためらいなく柵に取りつけられた連絡用のボタンを押した。
「"シャンブルズ"」
すぐさまこの世界のトラファルガー・ローが現れた。その姿を見ると彼は顔をほころばせた。
「ロー!」
「……『コラさん』」
曖昧な笑みを浮かべながら確かめるように名前を呼ぶ。それに対して『コラさん』と呼ばれた彼は笑顔で頷いた。
「鎮痛剤が切れたのか?」
そう問いかけながらも、ローは鎮痛剤の用意をしていた。前に打った鎮痛剤が切れる時間帯であることや、以前にも似たような出来事があったことからの予測であった。
「そうなんだよ。それなのにローのやつが黙って耐えようとしていたからおれが取り憑いたんだ。こうやって、痛みの肩代わりをすることくらいしか今のおれにはできないからな」
「……そんなこと言うなよ」
鎮痛剤を用意する手をピタリと止めて静かにそう言った彼と目を合わせる。
「この世界へ彼を連れてきたのはあんたなんだから」
他の世界のトラファルガー・ローが現れたのは数週間前のことである。ポーラタング号内に突如として出現した彼は、周囲の状況や知らない人に扉惑いながらもこの世界のトラファルガー・ローを見つけると早口で自身の境遇を説明した。
自身が他の世界のトラファルガー・ローであること。
その世界ではドレスローザでドフラミンゴに敗北し、自身は囚われていたこと。
何とか隙を見つけ、古代兵器である『ヘルメス』を使用してこの世界へと逃げてきたこと。
『お願いだ……ローを自由にしてやってくれ』
最後にこう告げると彼は糸が切れたように倒れてしまった。
彼に対してこの世界のロー自身もクルーもいくつか思うところはあった。しかし、目の前で倒れた人は今すぐにでも治療が必要な重傷者であり、ローが医者である以上放っておくことはできなかった。
それから数日経つと色々な事実が判明した。そして、その事実を含めて考えた結果、彼を保護するという結論に至った。
その判明した事実の一つが『コラさん』の存在である。本人曰く、『今のローが見ていられないと思っていたら、ローの身体に取り憑りつけるようになっていた』らしい。
ローの取り巻く環境が何もかも違う中で、何が起こってもおかしくはない。少なくとも、彼はこの世界のロー自身の記憶にあるコラさんにそっくりであった。
「……まァそうなんだけど、もっと色々とできることがあったんじゃないかと今になってどうしても思うんだよな」
フォローを聞いて『コラさん』はポツリと呟いた。その表情には後悔がにじみ出ていた。
「色々と考えちまうのは考えられる環境になったからだ」
この世界のローは腕を取りながらそう返す。もう片方の手には鎮痛剤が用意されていた。
「『コラさん』の存在は『そちらの世界のトラファルガー・ロー』にとって必要だった……それだけは確かだ」
鎮痛剤を投与しながら言葉を選んでいく。彼の存在はこの世界のローにとって複雑なものであったが、少なくとも彼を傷つけたいとは色々な意味で微塵も思っていなかった。
「そうだな!まさかローに励まされちまうとはな!」
「もう遅いから休め。おれももう戻る」
後片付けを終わらせて部屋から出ようとする。
「あ、待ってくれ、ロー!」
それに気づいてあわてて声をかける。その声をこの世界のローは聞いて足を止めた。
「愛してるぜ!」
あの笑顔を浮かべながら『コラさん』は告げた。この世界に来てからしばらくして、この世界のローと別れるときはいつもそうしていた。彼曰く、『いつ満足して成仏するかわからないから』らしい。
「……おれもコラさんのことが大好きだ」
この世界のローはその言葉を聞くと一瞬だけ顔を歪ませるも何とか笑顔を浮かべた。そして、それだけを告げると相手の顔を見ずに扉を閉めた。
翌朝、『もう一人のトラファルガー・ロー』はまるで何事もなかったかのように目を覚ますと、クルー達が集まっている部屋へ足を運んだ。
「ローさん!」
この世界のクルー達はもう一人のローに気づくと、口々に名前を呼びながら彼のそばへ駆け寄った。
「座ってください」「今日は何がしたいですか?」「何もないならここかローさんの部屋でおれたちとお話しませんか?」
ほんの少しの間のうちに『もう一人のロー』は椅子に座らされ、周りを囲まれる。
彼が現れたときはいつもこうなっている。この状況に対し、彼自身はこの世界へ来てさほど日が経っていないから自分の存在が物珍しいのだろうと一人で納得していた。
「今日は医学書が読むつもりだ」
「それなら、ここに持ってきます」
「……できれば自分のところと違いが見てェから自分で探したいんだが……」
そこまで言うとクルー達の間に僅かな動揺が走ったのを見て口をつぐんだ。
「いや、問題があるならいい」
彼は、クルー達は自分が出歩くことをあまり望んでいないことに薄々気づいていた。そして、その理由をあくまでも自分が部外者であるからだと考えていた。
「じゃあ、本はおれたちが運ぶのでローさんは選んで下さい」
「わかった」
若干の沈黙のあと、ペンギンが手を上げた。妥協案だと考え、大人しく従うことにした。
医学書がある本棚を見て、『もう一人のロー』は目を輝かせた。自身の知らない本が置いてあったからである。
早速、目の前にある本を手に取ろうとすると、ペンギンの手がのびて目的の本を取っていった。
「運ぶって言ったじゃないですか」
「あ、あァ……」
本を運ぶというのは機密を知られないように監視するための方便だと考えていた。なのに、本当に本を運ばれてしまい、曖昧な返事しか返すことができなかった。
「すまねェ、迷惑かけるな」
これ以降も本を取ろうとする度に手がのびてきたため、申し訳なさから口を開いた。
「いえいえ。おれたちはただローさんの身体が心配なだけなので」
「ん?……右腕のことか?これは何年も前になくしたから気にかけるようなもんじゃねェが……まァ、お前たちのところのおれとは違うから無理もないか」
「……そうですね」
ペンギンは身体の傷を見ないふりをしながら、ただ肯定した。
『コラさん』の行為はある意味で成功していた。
『もう一人のロー』にはドフラミンゴから受けた仕打ちの記憶は一切存在しなかった。その代わり、記憶や自身への認識はクルー達をゾウ島へ送る前程度で止まっていた。それでも矛盾が生じるところは記憶が変わっていた。
そのため、彼は身体の状態を気にせずにポーラタング内で普通の生活を送ろうとしていた。怪我のことを説明しても首をかしげるばかり。これにはこの世界のローも苦労していた。身体のことだけを考えるならいっそ拘束でもした方がマシかもしれない、という考えが一瞬この世界のローによぎるほどには。
そのとき、手を上げたのはこの世界のクルー達だった。
『自分たちが彼の身体への負担を減らします』
『キャプテンにだけ背負わせるような真似はしません』
『せめてこのローさんの手助けだけでもしたい』
そう真剣に訴えるクルー達を見て、この世界のローは『もう一人のロー』を任せることにした。
そんな思いはつゆ知らず、そのあとも本を選びながら、本棚を進んでいく。すると、とある一画が目に止まった。
「精神医学……?」
その本の周りには心理学やカウンセリングの本が並んでいた。つまり、精神に関わる本を置いている場所である。
「何でそんな本が置いてあるんだ?」
ローは外科医だ。集めるなら手術に関する医学書や雑誌だと彼は考えていた。実際、今まで見た場所はその手のものがほとんどだった。
手術するほどでもない怪我の対応や病気のための薬学の本ならともかく、この類いの本が何冊も存在することに疑問を抱いた。
「ペンギン、何か知らねェか?」
「いや、おれはちょっと……」
「深海を渡航するから気が滅入る奴らもいる」
ペンギンが言葉を濁していると、後ろからこの世界のローが二人のところへ向かいながら口を挟んできた。彼の手と後ろからついてきていたベポは本を抱えており、たまたま二人を見つけたことが伺えた。
「これはその対処のためだ……専門じゃねェが知らねェよりはマシだろ」
「なるほど」
説明を聞いて『もう一人のロー』は納得した。コラさんの本懐を果たし、今もクルー達と過ごしている彼なら、その本は必要になってくるのだろう。
「なら、今のおれには必要ねェな」
「「え?」」
「…………」
ポツリと呟いた言葉にペンギンとベポは困惑した。一方、この世界のローは何も返さず、複雑な表情をしていた。
「ローさん、もしかして」
「ベポ」
ベポがおそるおそる疑問を口にしようとしていたが、この世界のローが遮る。ベポが顔を向けるとこの世界のローはペンギンの方へ目線を移した。
「ペンギンだけじゃ重いだろうから持ってやれ。おれの分は自分で持つ」
「ア、アイアイキャプテン!」
「え?……あ!」
あわてて『もう一人のロー』がペンギンの方を見る。ペンギンは分厚い医学書を何冊も抱えていた。
「すまねェ、そんなつもりはなくて」
「わかってます。でもちょっと重いので置いてきますね」
ペンギンは机の方へと向かっていった。それにこの世界のローも黙ってついていった。ベポが持っていた分も持ち続けるのは少し堪えたのだろう。
二人きりになって数分経っただろうか。ベポは動かない『もう一人のロー』に笑いかけた。
「ローさんは他に何読むの?」
「いや、一旦読み始める」
全ての本が初めて読むものではないが、あれだけの量を一日で読むのは難しい。自分で持っていないから、つい選びすぎてしまったと内心で反省していた。
「じゃあ、本がないから代わりにローさんを運ぶね」
それだけ言うとベポは彼の身体を持ち上げ、ペンギン達のところへ歩き始めた。
「はァ?!」
それに対して驚愕の声をあげ、身体を強ばらせたが、他に何もしなかった。ベポ以外のクルー達なら即座に切られていたかもしれないが……ベポに甘いのはどのローでも同じであった。
「……あったけェな」
やがて、諦めてベポに身体を預け、安心しきった声で呟いた。その言葉を聞いて、ベポは自分の知るトラファルガー・ローよりも幾分か軽く細い身体を抱き締める力を少しだけ強めた。
「……あのね。おれたちはどんなローさんも大好きだよ」
そしてそれは、ローさんの世界のおれたちもおんなじだよ。
「そ、そうだな……?」
静かに、でも力強く呟いたベポに対し、曖昧な返事をすることしかできなかった。
なお、ベポに運ばれる様子を見たペンギンは目を白黒させ、この世界のローは少し羨ましがった。(そしてベポに抱き締めてもらった)
本が置かれた机に到着すると、夢中で読み進めた。それはペンギンが船番で他のクルーに交代し、さらにそのクルーが交代しても変わらなかった。
やがて、全て読み終わる頃にはすっかり遅い時間になっていた。
「あ、ローさん全部読み終わった?なら、もう遅いから寝ようぜ!」
「あ、あァ……」
付き添っていたシャチは本が全て閉じられたことに気づくと、自然に本を片付け始めた。『もう一人のロー』も最初は困惑していたが、他のクルー達も同じようにするので慣れてしまった。
「シャチ、お前メシはどうした!ちゃんと食ったのか」
『もう一人のロー』は片付ける様子をぼんやりと眺めていたが、突然ハッと気づいた様子でシャチに問いかけた。いつシャチに交代したのか彼はきちんと覚えていないが、ご飯を食べる時間帯ではなかったことは確かだった。
「……お前、もしかして昨日も食えてねェんじゃないのか?」
『もう一人のロー』の記憶の中では、昨日はシャチ達と遅くまで話をして、そのあと……少なくとも何か食べるような時間はなかったことは確かであった。
「昨日?……あー……おれはいいけど、ローさんが気になるなら二人で何か食べようぜ!あと昨日はちゃんと食べてるんで」
「それ、バレたら怒られねェか」
「ローさんが黙っていたら大丈夫っすよ!」
本を片付けたシャチはそれだけ言うとキッチンへ向かっていった。少し悩んだあと、記憶の中よりも遅い歩みについて行った。お腹が空いていないとはいえ、何も食べていないのは問題だと考えたからである。
「お、スープあるじゃん」
キッチンでいの一番に鍋の蓋を取ったシャチが、そのままスープを温め始めた。『もう一人のロー』明日の朝食の分だろうなと考えながら黙って見ていた。
ここまでついてきた時点で共犯である。それに、これが自分を思っての行動であるとなんとなくわかっていた。
やがて出されたスープに、彼はシャチに礼を言ってから口をつけた。
「……うめェ」
『もう一人のロー』には飲みやすく、しみわたるような味がした。シャチはその様子を見て嬉しそうに笑った。
「それ作ったやつに言ったら喜ぶっすね」
「言ったらバレるだろうが」
「また会ったときに言えばいいんすよ」
何でもないことのようにシャチは言った。
「おれたちはどんなローさんとも話せるのを楽しみにしてるんで」
「……あ、あァ」
気づいたらこの世界にいたという認識の彼にとって、先の話は不安なものでもあるし、安心できるものでもあった。
返事だけ返した『もう一人のロー』に対してシャチは何も言わず、飲み終わったスープの皿を片付けた。
「じゃ、ローさんの部屋に行こうぜ」
片付け終わったシャチが声をかける。それに黙ってうなづいてついていった。上手く返事ができなかったことについて聞き返されなかったことに、内心では安心していた。
他愛ない会話がいくつか続いた後、他の世界からやって来たトラファルガー・ローのための部屋に到着した。そこで別れるのかと『もう一人のロー』は考えたいたが、シャチは彼がベッドに入るまでついてきた。
「同じベッドで寝る気かよ」
「それもいいっすね」
軽口に軽口を返しながら、お互いに笑う。
「……でも、それはダメなんすよ」
やがて笑うのを止め、それだけ言うと部屋の外へ歩きだした。
「おやすみ、ローさん」
少し寂しげな表情を浮かべながら、部屋の扉を閉めた。『もう一人のロー』は違和感を覚えたが、すぐに霧散させた。
そんなことを考えるのは疲れているだけだ。なんだか頭も痛くなってきたし、眠ってしまおう。
そう考えながら目をつむり、『もう一人のロー』は眠りについた。