ひびを塞ぐ
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はじめは、あんなお願いをするつもりなんてなかった。元の世界と同様、その手の欲求は隠し通せると思っていたのだ。
…なのにわたしは、抑えられなかった。
───
「リツカ、ひとつお願いがあるんだけど」
「お願い? うーん、まあ叶えられる範囲なら良いよ。クロにはいつもお世話になってるし」
「ありがと。…その……わたしね? …リツカと二人っきりの時だけは“イリヤ”に戻ってみたいの」
「…? クロ…?」
「…もし“イリヤ”に戻ることを許してくれるのなら、わたしのこと“イリヤ”って呼んで」
「…いや、でもそれは…」
「…わたしだって“イリヤ”よ」
イリヤの封印された記憶と性質……つまりは聖杯の器としての側面が、奇跡的に独立したのがわたし。言ってしまえば、わたしも“イリヤ”だ。
けれど、元の世界のわたしは“クロエ”でなければならなかった。封印を施した両親などはともかく、何も知らない兄や友人に秘密を明かすことはできないからだ。そんなことをすれば薄氷の上に成り立つ日常が壊れてしまう。だから、あの日常に『聖杯としてのイリヤ』の居場所はない。というより、あってはならない。
───けど、あの日常から遠く離れたこの世界でなら。秘密を明かしても問題ないここでなら、わたしは“イリヤ”に戻れる。
…元の世界に戻ったオリジナルを思うと気が引けるけど、それでもわたしは欲する心を抑えられなかった。
リツカに愛してほしい。“イリヤ”としてのわたしを。
「…リツカ…」
彼を呼ぶ声に、懇願するような色が乗ることを抑えられない。
「……」
(───やっぱり、無理よね。わたし達の事情を知っているとはいえ、いきなりこんなこと言われても困るだけ…)
…リツカが沈黙を貫いているのを見て、そんな風に思い始めた、その時。
「…“イリヤ”」
「…!」
意を決した表情のリツカが、わたしの目を見て“イリヤ”と言った。…イリヤの身代わりとかじゃなく、他でもないわたしを認識しながら“イリヤ”と呼んでくれた。
それを理解した瞬間に心を満たしたのは、歓喜だ。
「…ぅん……うんっ……リツカ、わたしっ……わたし、“イリヤ”だよ…!」
簪を外して髪を下ろし、リツカの胸に飛び込んだ。床に投げ捨てられた簪が乾いた音を立てたが、もう構うものか。
「リツカぁ…」
わたしは今、愛する人に全てを愛してもらえて幸せなのだから。
───
そうしてわたし達は、どろどろになるまで愛し合った。
キスして、セックスして、身も心も繋がって。幸せだった。
───でも、まだ足りない。わたしという聖杯のひびは、リツカの与えてくれた幸せで塞がれた。けれど、それまでに零してしまったリツカの愛はそれなりに多い。
だから、わたしはこれからもずっとリツカと愛を育むのだ。わたしという聖杯が、彼の愛で満たされるように。
(…わたしってば、飼い主に甘える飼い猫みたい。…猫ってあんまり好きじゃないんだけどね、わたし…)
まあいいや、と思考を打ち切り、眠るリツカのぬくもりを堪能する。精液と愛液に彩られた素肌同士の接触は、わたしに得も言われぬ快感と幸福感を与えてくれた。
…リツカとずっと一緒にいるために、これからも頑張ろう。“クロエ”として、そして“イリヤ”として。