はるのおわり

はるのおわり


春の終わりで、夏の始まり。

俺が、何も知らずにいられた最後の日。



ぽつり、ぽつり。

傘をさして歩く。もうすぐ梅雨に差し掛かろうとしている街は何時にもまして人が少ない。今年の夏は海にでも行くか、静も誘おうだなんてぼんやり考えて機械的に足を進める。

表札、確認。窓から光も漏れているから家にいるだろう。迷いなくインターホンを押す。



「いよーっす」

ドアノブが回って、少しくすんだこげ茶の髪に、同じくこげ茶の瞳が視界に飛び込んでくる。特に驚きはしない、いつもの光景だ。

彼女―倉井静は、昨日ぶりの訪問者を見て目を細め、心地よいハスキーボイスで言葉を返す。

「ハルじゃん、雨降ってんのにわざわざ来たの?あ、傘こっち置いといて」



小学生からの、気の置けないただ一人の親友。

可愛いモノより格好いいモノが好きで、気が弱そうに見えて好きなことには人一倍の熱意を持ち、ちょっと運が悪くて、よく笑う。

体質が違えど、学校に来れていなかろうと。その事実は変わりそうもない。

 


「出せるもんなんもないから喉乾いたら水道水でも飲んどいて」

「今日はポテチとコーラ買ってきてっから大丈夫、んじゃ早速…やんだろ、決闘(デュエル)」

「やろやろ。ちなみにポテチ何味?」

「コンソメ」

「異教徒の民だったかぁ…」


傘を置いて靴をそろえて、部屋にあがる。レジ袋を机の横に置いて、逸る気持ちのままにカードデッキを取り出す。相手も当然のようにプレイマットを持ち出して、ゲームの準備を整えていく。


「せっかくだし罰ゲーム付きでやろーぜ」

「OK受けて立つよ。じゃぼくが勝ったら協和語縛りね」

「協和語ってなんだっけ」

「あのあれ、銀〇の神楽」

「完全に理解した。そんじゃ俺が勝ったら日本語禁止な」

「任しなよ英語得意教科だし。ちなみに期限は?」

「一生」

「適当すぎない?まあなんでもいいや始めよ、そっち先攻でいいよ」

「いよっし、俺のターン!砦を守る翼竜を攻撃表示で召喚!」


ぽつぽつ、ぽつぽつ。

そうしてゲームを始めれば、二人の意識は盤面と互いにだけ向けられる。

ペットボトルから、結露した水がぽとりと垂れた。隣の家の犬が喧しく吠えた。全部、些細なことだ。


「あ、エクゾディア出たわ。左腕」

「こないだ左足失くしたって言ってなかったっけ?あと速攻魔法サイクロン発動。そこの罠カード破壊」

「うぎゃっ、強制脱出装置持ってかれたか…」


ざあざあ、ざあざあ。

ぬるくなったコーラはもう半分ほどまで減っている。ドアスコープに、人面瘡の塊のような何かが映った。

不利になっていくのは俺の方。最初このゲームに誘ったのは俺のはずなのに、静がどんどん上手くなっていくもんだから今の勝率は3割くらいだ。楽しいからいいんだけどな。


そうしてペットボトルが空になった頃、

「魔法カードミクロ光線をマグネット・バルキリオンに発動、バトルフェイズに移行してマグネット・バルキリオンを天界王シナトで攻撃!相手モンスター破壊でシナトの効果発動、3500ダメージを喰らえー!!」

「うぐっ、ぐぬぬぬぬぬ…負けたぜ…!!!」

案の定負けた。悔しい。エクゾディアあと一枚だったのに、帰ったら絶対探す…


そう喋ろうとした。声は、出なかった。出せなかった。

代わりにひゅうと空気の抜ける音と、脂汗が出てくる。生存本能と呼べるのかもしれない何かが頭の中でガンガンと警鐘を鳴らす。五月蠅い。やたらと揺れているような気がして、鼓動が大きく速くなっているだけだと気付く。息が途切れ途切れになってその不揃いさに気持ち悪くなる。立っていられる気がしない。


「痛ッ!?…びっくりした、こんな季節に静電気って……あれ?大丈夫、ハル?顔色悪いし震えてるけど…夏風邪?」

あのこのこえがきこえる。みみなりがうるさい。なんていってるのかわかんない。

ああでも、しんぱいかけたらだめだ。

そう見えるかは怪しいが、吐き気を堪えて作り笑顔を見せ、頭痛になってきた警鐘に逆らって言葉を繕う。


「ごめん、おれもうかえらなきゃ」


目を閉じて、倒れ込むように玄関から出る。後ろから響く揺らいだ声は耳鳴りと扉の閉まる音にかき消された。

玄関先にもたれかかって、何とかゆっくり瞼を持ち上げた。


視界は一面黒だった。無数の腐った色が混ざり溶け合い出来た黒。ただそれだけ。

「、あ」

それだけで、理解できてしまった。さっきとは比べ物にならない本能的な恐怖。自分程度など小指一つで潰せてしまう、人知の及ばないなにかが、そこに居るのだ。

「邯コ鮗励く繝ャ繧、縺壹k縺?★繧九>縺壹k縺??縺??縺??縺」

「縲?螢翫◎縺???縺昴≧縺励h縺???縺昴≧縺励h縺???縺ィ縺ウ縺阪j驢懊¥貎ー縺励∪ 縺励g縺」

ぐちゃぐちゃ肉の潰れる汚らしい音が、耳元で囁いた。怖い。理解ができない。さっきまであんなに激しかった鼓動が止まったように体が冷え切っていく。

暗い。怖い。気持ち悪い。こっちに来るな。誰でもいいから助けてよ。

死にたくなかった。痛いのは嫌だった。頭の回らない中で無理矢理足を動かすにはそれで充分だった。




走った。なりふり構わずただ走って、醜い暗闇から逃げ出そうとした。一瞬のようにも永遠のようにも思えた時間は突然終わりを迎えた。

「縺?℃繧?≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠??シ?シ?シ?シ!!!!」

後方のそれが悲鳴を上げ、それも弱々しくなって消えてゆく。死んだのだろうか。一切勝てる気も殺せる気もしなかったあれを、一体誰が?

気が抜けたからだろうか、体は勝手に地面に倒れ込む。ぐるりと視界が回って見えたのは、暴力的なまでの光と色。紫、赤、水色、その中でも一際目立つ薄い桃色。


情報量の波に押し流される前に咄嗟に目を閉じる。

視界は一面黒だった。何の変哲もない暗闇だった。雨はもう止んでいた。


「……おい、……さん、大……か!?生……るか!?」

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