はばきり

はばきり



この子を生かすためならば

この身体など二つに裂かれても構わない



その思いから起こした出来事のすべてに後悔などない。たとえ敬愛する養父を裏切ることになっても、実兄から13年間暗い王宮の奥に幽閉されることになっても、あの子が無事に定められた終焉を乗り越えてこの世界で健やかに生きているならば、それはとても些細なことに思えた。

言い訳をさせてもらえるならば、当時の未熟で浅慮な私には到底想像できなかったのだ。心から自由を願ったはずの愛し子を他でもない自分の存在が縛っていたなどと。海兵嫌いを公言していたあの子が、いやいや病院を連れ回し辛い思いをさせたあげく最後まで海兵であることを隠していた愚かな女のことをそこまで慕ってくれていたなどと。

だから、自分を囲んでいた堅牢な檻が壊れたあの日。兄を同胞と共に堕としたその手で私を掻き抱いて、聞きなれない低い声を震わせながら、懐かしいことばで私を呼んで哭くあの子を抱きしめ返した日。

体中に駆け巡る歓喜の裏で、私は確かに恐怖したのだ。

ああ…ドジった、と。




盛大に鳴った空腹を告げる音にロシナンテが赤面する。それを『聞けた』ものは2名だけだったが。


「主張の激しい腹だな」

「何か食べ物ある?」

「部外者の身で単独軍艦に乗りこんできて匿えとか言ってきたくせにまだ注文つけんのか」

「う……面目ない……」


半べそで長身を縮こませながら紅茶を飲むロシナンテに、この軍艦の責任者であるスモーカーはため息をついた。その傍らには副官であるたしぎがお盆を抱えたまま困ったような表情で控えている。ちなみにロシナンテの紅茶はスモーカーからこれでもかと念押しされた彼女によってかなり温めに淹れられたものだった。

彼らのテーブルの周りにはロシナンテによって防音壁が張られている。なので部屋の向こうから聞き耳を立てている部下たちに会話は一切聞こえていないだろう。お調子ものかつ荒くれものの多いスモーカーの隊である。軍務中にいきなりたしぎ以外の女性が、それも長身豊満金髪美女が来たともなればその盛り上がりは推して知るべしである。

スモーカーは本日何回目かわからないため息をついた。そして、ロシナンテと初対面であるがゆえに状況をいまいち飲み込めていないたしぎに指示を飛ばす。


「なんか適当に食いもん持ってこい。ついでに外の野郎どもは追っ払っとけ」

「え、でもスモーカーさん一人では…」

「こいつにどうこうされるおれじゃねェよ」


ふん、と鼻を鳴らしたスモーカーにロシナンテの目が輝く。


「おお…スモーカーがなんか頼もしい将官っぽくなってる…!」

「なってんだよ!かつてのあんたより階級上だ!」


思わず吠えたスモーカーだったが、一般人や日々しごいている部下はともかくロシナンテにはあまり効果がない。ふふっと楽しそうにはにかむ四十近いはずの女性は、一兵卒の青二才だった頃のスモーカーを知る人だ。強面を子どもに泣かれて慌てふためいている場面も、訓練中に教官に叱られてふてくされている場面も、初めての喫煙で盛大にむせたこところも見られている相手なのだ。

気さくな姉のような、放っておけない妹のような、そんな先輩だった。MIAの報を耳にしたとき、しばらく呆然自失状態になったくらいには親交があった。

そんな彼女が生存しており元気に腹を鳴らしているのは本来であれば喜ばしいことなのであろう。しかし、再会の余韻に浸れるほどロシナンテは単純な身の上ではない様子だ。そして、これは海兵としての勘だが、今後の選択によっては自分もややこしい事態に巻き込まれる。そんな予感をひしひしと感じる。

2人きりになった途端、ロシナンテがふ、と息を吐いて脱力した。柄にもなく緊張していたらしい。これから話すことはそれほど他者の耳に入れたくないものなのだろうか。


「協力を要請するなら包み隠さず偽装せず、だぜ」

「わかってるけど…えっと、何から話せばいいものか…」


やがてぽつぽつと語られた内容は、なるほどスモーカーが頭を抱えるには十分すぎるものだった。彼女の出自、実兄のこと、養父のこと、潜入捜査中に出会ったとある少年……スモーカーとも因縁のある現在賞金30億の首となった男との出会いと、13年越しの再会。そして…


「しばらくはローの船に乗せてもらってたんだけど、隙を見て逃げてきたんだよ」


気まずそうに締めくくったロシナンテに聞きたいこともツッコみたいことも山ほどあるが、まずは直近で浮かんだ疑問をストレートにぶつけることにした。


「なんでだ。海賊とはいえあんたのことを慕ってんだろ。気に食わねェだがアイツの海賊団はむやみやたらに一般人に手を出すような輩じゃねェし、あんたがいて居づらいってこともないはずだ」

「それはそうなんだけどさ…」


元海兵にも関わらずずいぶん熱烈な歓迎をされたらしい。”船長の大恩人”という肩書は、他の些事を一考させる価値すらなくさせるほどの威力を誇った。しばらく過ごしただけのロシナンテでも、彼らが陽気でイイ奴ら(けして善良というわけではない)であるということは骨身に沁みて理解した。

つまり、問題は彼らとの間にはない。海賊団の中で最もロシナンテと近しいはずの、彼女の愛し子との間にあった。


「その……ローが時々こっちをじっと見てることがあって…その目にさ、なんか、獲物を狙う肉食動物みたいなどう猛さを感じるんだよ。それで……怖くなっちゃって」

「怖い?」

「…………『喰われる』って、思った」

「はあ」


予期していなかった表現に思わず気の抜けた反応を返してしまう。そんなスモーカーの様子を気にも留めず、ロシナンテはカップに少しだけ残った紅茶越しに自分の顔を見る。

ここに至ってようやく意識し始めたことがある。自分とあの子の本来の立ち位置は、所謂”天敵”と評されるものであったのだと。あれはまぎれもなく血に刻まれた、本能的な恐怖に他ならなかった。きっとそれはいつか、自分の心臓を突き刺すものだと。

しかし問題の根本はそこにはない。海兵として生きると決めた時や兄の悪行を止めるため潜入した時、そしてローを抱えて鳥かごを見すえた時に、本能からくる死への恐怖とは何度も折り合いをつけてきた。元々13年前に惜しまず捧げたはずが実兄の気まぐれと数々の幸運によって今日まで繋がれた命である。口に出したことはないが、再びローのために差し出すことに躊躇いなど微塵もない。それがたとえあの子からもたらされるものだとしても。

そう、それを口にしたら、きっとローは怒る。泣きそうな顔で。再び失う恐怖に苛まれながら。それを植え付けてしまったのは私だ。

愛したことに、あの日の献身に後悔はない。

しかし、当時の未熟で浅慮な私には到底想像できなかったのだ。

ローから愛が返ってくるなどと。


押し黙ってしまったロシナンテをスモーカーが訝し気に睨んでいる。自身のことはともかく、ローが”Dの一族”であることはスモーカーに伝えるつもりはない。だからこの感覚は彼に共有しても無意味なものだ。

ローに殺されるのはやぶさかではない。自分の中の竜の血が彼に恐怖するように、あの子の中にあるDの血もまた自分へ滅びを齎そうとあの子を動かすのだろう。けれどその時、ローの心には大きな傷となって残ってしまう。流石のロシナンテでもそれくらい慕われている自覚はあった。というより、あの愛と情熱の国でローによって嫌というほど思い知らされた。

ならば自分がしてやれることはと思案した結果、浮かんだのは”ローの刃が自分に向く前に自ら離れること”だった。あの子はもう病に命を脅かされることもなく元気にやっている。海賊である以上命の危険とは隣り合わせだが、信頼できる仲間や頼もしい友達が大勢いるのだ。

寂しい気持ちはもちろんあるが、あの子が元気に海を駆けているなら、それだけで私は幸せだ。


「次の島に寄港するまででいいし雑用でもなんでもするからさ、しばらく船に置いてくれないかな。下船したらあとはこっちで適当にやるから」

「…………次の島までだからな」

「!!……サンキュースモーカー!」


スモーカーは静かに考える。

ロシナンテとトラファルガー・ローの関係性について、スモーカーは詳細を知らない。先ほどの話も、暈され箇所はあるのだろうと容易に想像はついた。とんでもないドジっ子とはいえ、元々はセンゴク元元帥直属の諜報部員であった彼女がそんなに大ぴらに情報を開示するわけないことくらいスモーカにもわかる。

しかしその一方でロシナンテよりも深く理解していると自負していることが二つある。

一つは彼女の自分に向けられる好意への鈍感具合だ。海兵時代ロシナンテはそこそこモテたが、どんなアプローチも右から左に流しては屈強な海の男どもを泣かせていた。『皆よく世話焼いてくれるけど、私そんなにドジで頼りないかな~』とのほほんと相談された当時のスモーカーの表情は今でも同期にネタにされるほどである。

そしてもう一つは、トラファルガー・ローの現在の在り様だ。13年前までしか知らないロシナンテにとっては、ローはまだ愛しい”あの子”なのだろうが、直接対峙したスモーカーにとって奴は紛れもない”海賊”だ。海賊とは、狙いを定めた獲物———いや、”宝物”に対して常軌を逸する執着を見せるものだ。

13年という年月、ここ2年で奴がやらかした数々の事件、すべてこの人に繋がっていたのだとしたら、その執着の大きさは論ずるまでもない。そしてその執着の”分類”が、ロシナンテの頭には欠片すら浮かばないような類のものだとしたら……


軍艦なんて久しぶりだ~と年甲斐もなくはしゃぐロシナンテを見るスモーカーの目から光がだんだん失われていっていることを知る者はいない。



結論。

おれはとんでもなく面倒なことに巻き込まれた。

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