におい

におい



温かな夢が遠のいて、意識が現実に向かって浮かんでいく。

最初に感じるのは、薄っぺらい毛布越しに体を刺す寒さ。

無意識に目を固く閉じ、体を縮こまらせて、それから逃げようとして。

次に感じたのは───濃くて甘ったるい、発酵した果実の匂い。


「……ぅう……ん……」

「おっと、起こしちゃったかな」

「んー……おはよう、シグレちゃん」

「おはよう、ノドカ。よく眠れた?」


ゆっくりと目を開けば、雪色のフワフワした塊が目の前で揺れている。

視線を天井の方へスライドさせていくと、こちらをニコニコと眺める、よく見知った横顔。

自身と同じく227号特別クラスとして旧校舎で寝泊まりする、たった一人の同居人。


「ちょっと待っててね、今……よし、着いた着いた」

「ふあぁ……あ、火を着けてたんだね」

「そういうこと~」

「あー……あったかい……」

「ふふふっ。ノドカ、面白い顔になってる」


こちらを見て破顔する彼女からは、時々───そこそこの───まあまあな頻度で、不思議な匂いがする。

例に洩れず、その匂いは今もしている。寒さの次に感じた匂いが、まさしくそれだ。

───彼女の纏う匂いが、それまでより濃くなったのは、いつからだったか。


「ちょっとシグレちゃん、人の寝起きの顔で笑わないで」

「ゴメン、ごめん。さぁて、朝ごはんにしよっか」


ニコリと笑って、彼女はよいせ、と立ち上がる。

そして地面についていたところを軽く払って、鼻歌交じりに食べ物が置いてある戸棚に向かった。

……ああ。そういえば、漂わせる匂いが濃い日は。


「……フルーツ味とチョコ味、どっちが良い?」


いつもより少しだけ、朝食が贅沢な日だ。


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月が煌々と輝く夜空を、一人眺める。

いつも賑やかな大切な友人は、今は毛布に包まってミノムシのようだ。


「……ゃぁ……せんせぇ…………ぅひひひ」

「……また先生の夢見てるの、ノドカ」


寝言で出た名前は、彼女が日々ストーキング……もとい観察している相手のそれ。

起きている時だけでは飽き足らず、夢の中でも、ずっと眺めているのだろうか。

……それとも、夢の中では、もっと……すぐ傍で?


「…………」


眠る彼女を起こさないように、そっと上着を手に取って部屋を出る。

歩きながら上着を羽織り、扉の無い出入口を潜って、月光に白く照らされた雪原へ。

戸が無くとも建物はある程度寒さを凌げていたようで、一段と張り詰めた冷たい空気に思わず身震いする。


「行ってきます」


誰にともなく呟いた言葉は、白い息と一緒に空へ消えていった。


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肩に薄く乗った雪を拭って、ぼんやりと灯りが漏れる建物へ入っていく。

ここまでに通ってきた道のりの寒さが嘘のように、扉の向こうは暖かかった。


「………………」


廊下を通りながら上着を脱いで、軽くバサバサとはためかせる。

それは自身の歩む先から聞こえてくる声や音、そして漂ってくる臭いから、少しでも逃げようとする無意識の表れ。

……そんなことをしたって、声も音も臭いも消える筈がないと───この夢が覚めることもないと、分かっている。


「…………」


廊下を暫く進み、自身に宛がわれた部屋の戸を開ける。

脱いだ上着をクローゼットに入れ、次は着込んでいた服を一枚ずつ脱いでいく。

己を包む布が減る度、残して来た幼馴染の影が遠ざかっていく気がした。


「……ふぅ」


脱ぎ終えたら、クローゼットの中から貸し出されている浴衣を一枚取り出す。

降って湧いた温泉宿の仕事を、友人と共にこなした日々……あの時に学んだ手順で、浴衣を纏っていく。

どうせ後で全部脱いでしまうのだからと、あの時よりもいくらか雑に。


「……ありゃ、もう?」


部屋に敷かれた布団に座って、ふと見れば、部屋の外に影がある。

自然、この後のことを考えて───


「はぁ……全く───参ったなぁ」


諦め混じりの呟きが、少しだけ笑みの浮かんだ口から漏れていった。


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空が少しずつ明るみ始めるころ、私はフラフラと帰路につく。

途中で何度も立ち止まって、臭いを消すためにしこたま飲んだ物を、呑み込んだモノと一緒に吐いて。

あの子の待つ、あのどうしようもなく寒い、私たちの居場所へ。


「……ぃっ、くしゅ」


如何に部屋や布団が温かくても、そこでの行為で熱くなっても、浴衣を全部脱いでしまっては流石に体も冷えたらしい。

くしゃみをしながら、しかしそれに後悔はなかった。

あの時とは柄も質も違っても、それでも、浴衣が汚されるのは、あの思い出が汚されるようで嫌だったから。


「……ぁ、いけないいけない……」


くしゃみをした拍子に、手に持っていた袋からこぼれてしまったお土産を拾い上げる。

普通に暮らす人々にとっては何でもないお菓子も、廃墟同然のあの場所で暮らす私たちにとっては大事なものだ。

雪を払って、ふやけたり湿気たりしていないことを確認して、また袋に入れる。


「……」


そうして、また歩き出す。

何も知らない───知らないままでいてほしい、あの子と私の寝床へ。


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