なんちゃって後宮パロ
ガタガタと激しく揺れていた車も、いつの間にか滑らかに進むようになっていた。そうっと御簾を少しだけ上げてみると、舗装された大きな道にいることが分かった。ああ、いよいよ都が近いのだ。私の国とは違い、そこかしこに人がいて、お店の人の掛け声や喧嘩をしているのか怒声も聞こえる。豪快な笑い声も聞こえてきて、活気があるのは一目瞭然だった。白い肌を持つ人が多く、ついまじまじと見てしまう。私の国には褐色の肌を持つ人が多いのだ。母は白い肌だったけれど、こんなにもたくさんの白い肌の人を見るのは初めてだったし、顔立ちもやはり違って見える。
緊張や不安、恐怖で押しつぶされそうな気持ちをふう、と息で少し吐き出した。
「えっと……お初にお目にかかります。スレッタと、申します」
挨拶の練習なら何度もした。まだ発音は拙いかもしれないが、きっとこれから上手くなれるはずだ。
脳裏に浮かぶ、国の皆と母の姿。笑顔で私の出発を祝ってくれた。姉は笑顔で送り出してはくれなかったけれど。
じわり、と涙が滲んで慌ててそっと抑えた。
これからこの国で頑張っていくのだ。そう、自分で決めたのだから。
「お、おおお、お初にお目に、かかります。す、スレッタ、と申します」
声が震えているのが自分でもわかる。指先だって。袖で恐怖に引き攣る顔と指を見えないようにするのがやっとだった。この国のものに着替えさせられた服は、重い。多分、緊張も相まって余計にそう感じる。
「長旅ご苦労さま。今日はゆっくり、休むといい」
「は、い。温かいお言葉、感謝、いたします」
「もう、下がっていいよ。君の宮を用意しているから、案内に従って」
「はい、しょ、承知しました」
そこで初めて顔を上げた。
この人が、私の夫になるかもしれない人。いやいや、私が妻……后になんて無理だろうけれど。
ペイルの国の皇帝はとにかく残虐で手段を選ばないと噂で聞いていたからどんな人かと思えば、とても静かな声の、落ち着いた雰囲気の男性だった。涼し気な目元は、私の国の人とは少し違うけれど、あまりにも真っ直ぐにこちらを見てくるものだから、ソワソワしてしまう。一番会うのに緊張していた人なのに、もうホッとしている自分がいて驚いた。駄目だ、気を引き締めなければ。粗相をすれば容赦なく処分されるかもしれない。私は、国の期待を背負った姫なのだから、背筋を伸ばさなければ。
部屋を出て、呆気なく終わった謁見に息をついていると、女性が声をかけてきた。
「はじめまして。私はあなた様の身の回りのお世話をすることになっている者です。今から部屋にご案内いたしますので、こちらに」
「は、はい」
その女性について行きながら建物を見回す。豪華絢爛とはいかずとも、飾られている調度品や窓から見える景色は確かな品を感じる。むしろゴテゴテとしていない分、すごみを感じて萎縮した。
広い。原則として女性しか立ち入れないという後宮。多くの宮があるが、全てが女性の住居、それも皇帝の女となるための人間が住んでいるとなると圧巻だ。今日から自分もここの一員だというのに、全く現実だとは思えない。自身の国ではほぼ城にいた。城で一人、本を読んだり、勉強したり、ただそれだけ。おかげでペイルの国の言葉はほぼ完璧に分かるけれど。外の世界や友だち、というものに憧れていたが、それが叶わないままこの国の、しかも後宮で暮らすことになってしまった。
仕方がない。私は姫なのだから。
「こちらが、あなた様の宮です」
「ありがとう、ございます」
思わず、口から感嘆の息が漏れる。建物自体は中央の宮の廊下で見たような豪華な調度品の類はなく、簡素な雰囲気だが、沢山ある窓から見える水が、美しかった。窓に駆け寄って、池を見ると、とにかく澄んでいるのがここからでもわかる。池の真ん中には東屋があり、涼めそうだ。後で橋を渡って、そこから池をもっと覗いてみたい。
「こんな素敵なところに住まわせてもらえるなんて!ありがとうございます」
「あなた、分からないんですか?こんな端っこの宮に追いやられて……一国の姫なんでしょう?見下されているんですよ。それにお礼なら、私に言うべきではありません」
「え……、そ、そうなん、ですか」
突然のきつい物言いにたじろいでしまった。確かに、この国の重鎮の娘とかならば、もっと豪華で皇帝が通いやすい宮にいるのかもしれない。しかし、皇帝がここに渡ってくれるか分からないが、お礼ならば彼に言おう。
荷物が運び込まれ、侍女と一緒に部屋を整えていたのだが、彼女はそこでも「荷物が少なすぎ」だとか「敬語を私に使う必要なんて無いのに」だとか「そんなんじゃ他のお后候補にくわれる」とかまくし立ててくるものだから、どっと疲れてしまった。まだ慣れない異国語だからか、急き立てられているように感じるし、見下されているのだろうか、と思う。人と話す経験が少ないせいもあるが、やはり、慣れない土地、それも母国では敵扱いの国にいること自体、神経を張り詰めざるをえないせいで、もう母国が恋しくなってしまう。
夕食を食べたあと、湯あみを手伝うと言われて、目をみはった。
「い、いいですよ!そんな、自分で出来ますから」
「はあ?あなた、本当にお姫様らしくないですね。ですがそれとこれとは話が別です。今日はさすがにお渡りになるでしょうから、あなたの身体を綺麗にするのは私の仕事なんです。それさえ終われば、私も自分の部屋へ帰りますから」
「お渡り、って……」
「もちろん、陛下が」
そうだ。後宮とはそういう場所だ。
だけれど昼にちょっと挨拶をかわしたくらいのあの方となんて。少し薄れていた不安や恐怖がみるみる蘇ってきた。そのうちにばさりと服を脱がされ、あっという間に身体を清められて湯に浸からせられる。
「…………陛下は、必要以上に人をいたぶる趣味はありません。あなたが余程のヘマをしない限り、何もありません。きっとすぐ、終わります」
「えっ、あぁ……はい……」
せっかく励ましてくれているというのに、全く頭に入らない。
どうせこの先、いつかはやらなくてはいけないのだ。それが今日なだけ。今日が最初で最後かもしれないけれど。
そう言い聞かせても、やはり初めてというのは恐ろしいばかりで、ずっと嫌な想像しか浮かんで来ない。いっその事、少しヘマをやらかして、さっさと追い出されてしまった方が楽なのでは、なんて愚かな考えすら浮かぶ。けれど、この地で後宮を追い出されてしまえば、いよいよどうなるか分からない。そう、私は失敗など出来ないのだ。
私はあの国の未来を背負っているけれど、ただの貢物だ。
「では、失礼いたします。おやすみなさいませ」
「…………おやすみ、なさい」
彼女は、私に薄い着物を着せ、肌や髪を整えたあと、この宮のそばにある侍女が住まう棟へと戻ってしまった。
窓の傍にふらふらと寄って、座る。月が水の中に浮かんでいて、綺麗だ。虫の音も聞こえる。この国に来てから、ずっと騒がしかったというのに、驚くほど静かだ。これからあの人が来るどころか、後宮に誰もいないのでは、なんて思うほどに。部屋の中は灯りをつけずとも明るい。外は月明かりだけでも十分すぎる程だった。
しばらくぼうっとしていた。何分経っただろう。
「お母さん……お姉ちゃん……」
突然、扉が小さく叩かれた。ビクリと肩が跳ねる。
慌てて返事をすると、「失礼する」と、低い、静かな声が聞こえた。立ち上がろうとして、自分の足が鉛のように重くなっていることに気付く。何とか足を持ち上げて、扉の前に行くと、そこにはやはり、あの時の男性がいた。そばに仕えていた一人の男性に何事かを伝えて、下がらせているようだった。
「あ……、あ。わた、……」
喉が一瞬で乾いたのか、声がうまく出ない。彼はじっとこちらを見ている。早く、はやく、挨拶をしなければならないのに。
「さっきまで、あそこに座っていた?なら、そこに座ろう」
つい、と窓辺を指している。私が窓を開けていたから、そう分かったのだろうか。
似たような、薄くて白い着物を着た彼がスタスタと前を歩くのにのろのろと着いていく。窓のあるそこは、一段上がった所にあるから、室内用の履物も脱ぐのだ。二人ではだしになって、腰を下ろした。
「…………」
「僕はエラン」
「は、い。もちろん、わかっ……存じて、おります。私はスレッタ、です」
「うん。知ってる」
柔らかな声だ。平坦とも言えるが、私にはとても心地が良い。心地が良いけれど、ぎゅっと膝の布を握る拳が震えるのを止められない。
「君が思っているようなことはしないよ」
え、と顔を上げる。そこで初めて、彼の顔をちゃんと見た。昼間は、紺の、見るからに上等そうな衣装を身にまとっていたが、今は簡素な白い着物。だけど、彼の真っ直ぐな瞳と静かな雰囲気は今の格好の方がより、それを引き立たせている気がした。
「一応、僕にも君にも体裁というものがあるからね。行かないのは失礼になるからここには来たけれど、君に触れたりはしないから、安心して」
現金にも、そう聞いて全身から力が抜けた。
「すぐ部屋を出るわけにもいかないから。はい、これ」
「……お茶?」
「うん。お菓子も、どうぞ」
彼が何かふろしきを手に持っているのは見えていたが、中にこんなものを入れていたとは。
「ありがとう、ございます……あっ、私がおいれしま、んん……?」
「いいよ。僕が淹れるから」
見慣れない器具に困惑していると、白くて大きな手が、てきぱきとお茶の準備を進めていく。とぽぽ、と薄い緑の茶が白い器に注がれた。ふわり、と漂ってくる香りは、嗅いだこともないのにどこかほっとする。お茶の色……彼の瞳と一緒だ。
「どうぞ」
「いいん、ですか……?いただ、きます」
彼が湯のみに口をつけるのを見て、同じように口をつける。
「あつっ……、あ、い、いえ、美味しい、です!」
「ゆっくり飲んで」
「はい……」
どうしよう。さっきから落ち着かない。恐怖で落ち着かないのではなくて……ソワソワと、ふわふわと、決して嫌な気持ちでは無いもので胸が満たされてゆく感覚がするのだ。
「あ、の……!エラン、さま……?えっと、へいか……」
「エランでいいよ」
「じゃ、じゃあ、エラン、さん!」
その瞬間、ふっ、と隣から聞こえた。もちろん、それは彼の声だ。
エランは、眉を少しだけ下げて、笑っていた。
「あ……、ご、ごめんなさい!やっぱり、失礼、でしたか?」
「ううん。だいたいの人はそう言っても、陛下とか主上とか仰々しく呼んでくるから。少し、珍しかっただけ。本当に僕は、どうでもいいから」
怒らせた訳では無いと分かり、また息をついた。しかし、さっきから、正確には彼が笑った時から心臓がバクバクとまた音を立て始めている。
元の表情に戻ってしまったのが、少し寂しいと考えている自分に驚いた。
「あ、の。エランさん!このお部屋とか色々、あ、ありがとうございました!ここから見える池が、とっても素敵で、私、うれしくて……」
「そう。僕も、ここは池が見えて良いと思っていた。君の国、辰星は、水の国だと聞いていたから少しでもそれに触れられるように、と思ったんだ。後宮の隅には違いないから、失礼な扱いだと思われているかもしれないと考えていた。でも、君がそう思ってくれて安心したよ」
「全然!失礼だなんて!ほんとに、嬉しい……です」
静かに彼が頷く。かぱりと、黒い箱が開けられると、お菓子が入っているのが見えた。皿に薄い桃色の丸い菓子を乗せると、こちらに渡してくれた。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
串を刺して口に含むと、優しい甘さが広がった。
「美味しい……」
なるほど。少し苦味のあるお茶と、甘いお菓子。交互に食べると、いくらでも食べたくなってしまう。
「好き?」
どきん!と心臓が大きく鳴った気がする。
「へ……?」
「お茶とお菓子、ここの国のは、口に合った?」
「は、はい!それは、もう!とってもおいしくて、あの、お夕食もすごく美味しかったですし!」
「そう」
彼もお菓子を口に放り込んで、もぐもぐと食べているのを横目でちらちらと盗み見てしまう。
こんなにも、素敵な人がこの国の皇帝だなんて。ここに来るのが、怖くて怖くて、城では何度も泣いていたのに。もう、来てよかったかもしれない、なんて薄情なことを思っていた。
しばらく、ぽつぽつと話したあと、エランが腰を上げた。
「じゃあ、戻るね」
「えっ……」
喉から、悲しげな声が漏れた。
「君も、早く寝るといい。今日は特に疲れていただろうに、悪かった」
「そんな……!エランさんとお話が出来て、すごくすごく、楽しかった、です」
「……そう」
ほんの少し、彼の目が見開かれる。けれどまたたく間に元に戻って、扉の方へと進んでいってしまった。
その背に向かって、「あの!」と場にそぐわない大きな声を出してしまう。くるりとこちらを振り返り、首を傾げている。
「ま、また会えますか……?お話、できます、か……?」
「君は嫌じゃないの?僕が、ここに来るの」
「嫌だなんて!さ、最初はすごく、怖かったのは、本当です。でも、エランさんとお話するの、すごく、す、好きだなあ、って思って……この国に来て初めて、落ち着けて……」
私は何を言っているのだろう。
あんなに怖がっていたくせに、必死に引き止めたりして。正反対だ。
「わかった。また、そこで話そう」
「は、はい……!」
「おやすみなさい」
「おや、すみなさい……」
とん、と扉が閉められる。
へなへなと、また力が抜けて、その場に座り込んでしまった。ここは室内履きが要る所だから、あまり座るものではないけれど。白い着物は着せられた時から、一切乱れないままだったのに、今、くずれてしまった。
のろのろと寝床に入り、目を閉じる。
けれど、ずっとまぶたの裏で彼との時間を思い出していた。
とても、静かな人だった。
特に声が、どこまでも凪いでいて、ずっと聞いていたいとすら思った。
そこで彼が、易しい言葉遣いをしていたことに思い至った。昼間会った時は、他の人と普通に喋っていたのを覚えている。けれどさっきは、とてもゆっくりと、簡単な言葉で喋っていたのだ。おそらく、この国の言葉に慣れていない私の、拙い話し方に合わせてくれていたのだろう。決して馬鹿にするような感じではなく、ただ純粋に、まっすぐとこちらを見据えながら。
ぼわ、と頬が熱くなった気がして、被っていた布団から顔を出した。
泣いていた日々などはすっかり頭から抜け落ちて、その日は幸せな心地のまま、いつの間にか眠りについていたのだった。
「機嫌が良さそうですね。昨日はあんなに怖がってたのに、終わってスッキリ、とかそういう雰囲気でもなさそうですし。ものすごく優しく抱かれて、あっさり惚れてしまったのですか?」
「だ……!?ちちちちが、います!すごく、優しかったのは本当ですけど、……し、してない、ですし。惚れてなんか……」
「してない?はあ……やっぱりあなた、舐められてれるんですよ」
「エランさんは、そんな人じゃないです!」
「エラン、さん?夢見心地、みたいな顔をしているから何かと思えば。あなた、本当に気をつけた方がいいです。陛下を好きになるのは良いと思いますが、あまり期待をしすぎない方が身のためですよ。反動ですごく落ち込んでも、知りませんから」
「別にまだ、好きとかじゃ……」
俯いて口を尖らせる私に、やれやれ、と彼女は呆れた顔をしてから仕事に取り掛かった。針を持って何やら布を縫い合わせている。しばらくすると、昼食を作る為にと、厨の方へ行ってしまった。
ばさり、と書物を机に広げる。私も作業に取りかかろう。この国の歴史や言語を学ぶのだ。
一言で言うと、恐ろしいに尽きる。目を疑うような残虐行為が記されており、物語の本を間違えて取ってきてしまったかと思ったが、何度見てもこの国の歴史書だ。こんなにも恐ろしい歴史があるのに、宮殿はある程度落ち着いて見えるのが余計恐ろしい。私の見えないところでたくさんの人の屍が……なんて想像して震えた。現在はいないようだが、エランのひとつ前の治世は女性4人で治めていたらしい。その間がこの国の歴史の中でも特に血で血を洗うような世だったと聞き、今度こそ唾を飲み込んだ。当時の皇帝はその4人の傀儡だったようだ。人間を使ってたくさんの実験をしたとか、そんな話ばかり。でも、そのおかげで医療が発展したとも聞く。4人の女性と前皇帝はともに、現皇帝のエランが排斥したと記されている。穏やかなエランだが、壮絶な人生を歩んできていることは想像に難くない。現在は若くして、エランが皇帝の座に就き、この広大な国をひとりで治めている。その見事な手腕は、ひとりでなせる技とは考えられない程だ──、とも記されていた。正直な話、ひとつ前の時代に生まれて嫁がされなくてよかった、と心底思ってしまう。
だって、何より、私は彼が……そう考えたところで本を閉じた。
頭をふって、言語の本を開く。
今は勉強だ。
けれどその勉強する理由が彼のためなのは、自分でも少し呆れてしまった。
「こ、こんばんは!エランさん」
「こんばんは」
初めて会った時から数日後、また彼は来てくれた。今日は彼のそばに控える男性はいないようだ。
声が弾んでいるのが自分でもわかる。震えて目も見られなかった時とは大違いだ。窓辺に座布団まで用意して、浮かれているのが彼に伝わっているかもしれないと思ったが、それでもいい。そもそも皇帝をそのまま床に座らせてはいけないのだから、と言い訳をしてお茶やお菓子も用意してしまった。
「きょ、今日……その、お菓子を作って、みまして。よ、良ければ、どうぞ!」
「君が作ったの?」
「は、い。この国のお菓子がどういうものか侍女さんに聞いて、教えてもらいながら……。ま、不味くはない、はずです!」
「うん。いただくね」
薄い唇が意外と豪快に開いて、白いふわふわのそれにかぶりついた。この前、甘いお菓子を持って来てくれたから、おそらく甘いものは嫌いでは無いだろうと予想して作ったのだ。かじりついたそこから黒い餡子が見えている。
「おいしい。それに、あたたかい」
「よかった……!あの、エランさんが来てくれるちょっと前まで蒸してて……。エランさんの、好きな食べ物、お、教えてください……」
心底ホッとしながら自分も餡饅にかぶりついた。味見をした時よりずっと美味しく感じる。
「好きな食べ物……あまり、思い浮かばない。嫌いなものもないけど……」
そう聞いて少し落ち込むが、ここで諦める訳にはいかない。
「好き嫌いが無いのは、良いこと、です!で、でも……甘いものはどちらかといえば、好き……なように見えますけど……」
「え?」
「今もそのお餡饅、二つ目を食べようとしてくれてますし……この前、持ってきてくださったお菓子、かなり甘かった、です。だから……」
何故かきょとん、とした顔をこちらに向けている。そのあどけない表情にまた心臓が跳ねたのを無視した。
「僕、甘いもの、好きなのかな」
「えっ?分からない、です、けど……おやつはよく食べられますか?」
「食べてる、気がする。あ……というか机に向かってる時はだいたい口に菓子を入れてた」
「ええ!ふふ、エランさん、かわいいです!」
ぱちり、そんな言葉がぴったりなくらい目を開けて、エランが私を見つめる。そこでやっと、失言したのに気付いて口を抑えた。
「ももも、申し訳、ございませ……!たいへん、失礼なことを……」
「いいよ。そうか……僕、甘いものが好きだったんだ」
スレッタ。そう呼ばれて顔を勢いよく上げる。初めて名を呼ばれた。
「もうひとつ、くれる?」
「は、はい!エランさんのために、作ったので……」
「ありがとう」
かあ、と頬が熱くなったのを俯いて誤魔化した。ちらりと彼を覗き見ると、頬張っているせいで、片頬が、それこそ餡饅のようだと思った。
もう駄目かもしれない。初めて会った時は落ち着いていて、静かで大人な人だと思ったのに、今日はあどけない様子を見てしまって、かわいいなんて思ってしまった。侍女の「好きになりすぎるな」というありがたいお言葉は聞けそうにも無い。
「そういえば……君、言葉が上手くなっているね。前よりも発音が綺麗だ」
あぁ、もう、そんなに細かい所まで私を見てくれているなんて。頑張りを認められて嬉しい、というのもあるが何より、彼が変化に気付いてくれたのが嬉しい。
「エランさん、と……もっとお話したかったから……勉強を……」
「僕と?」
こくりと頷く。これでは、もう好意を伝えているのと一緒だ。けれど撤回する気はさらさら無かった。
「僕と仲を深めても……君に利益は無いよ。今日は護衛を連れてこなかったしね。まあ、僕が頻繁にここに通っているという噂が広まったら、君に取り入る者や、つけ込む者は増えるかもしれない。もしや君が次期皇后では、とね」
「利益だなんて!」
がたん、と思わず立ち上がってしまった。慌てて座り直して彼を見つめる。
「あの、エランさんとたくさん喋り、たくて……そういう、噂とか、評判とか、どうでも、よくて……」
まただ。私は何を言ってるの。彼がここにたくさん来て、后に取り立てられることが母や国の願いなのに。
上手く説明出来ない。けれど、彼とただ、仲良くなりたいという思いをどうやって証明しよう。そればかり必死に考えている。
「今日、護衛を連れてこなかったのは、僕が誰にも言わずにここに来たからなんだ。アイツに言うのも面倒だったし」
「え……?」
「この前は、君の部屋に通った、ということを周りに示すために護衛を連れていたんだ。でも今日は僕一人。だから、誰かが僕の姿を見ていない限り、今晩は、皇帝は誰の宮にも通っていない。つまり……君のところに来たという事実は無い、ということだ。君の評判は、異国からやってきて端に追いやられ、初夜以降は放っておかれた姫のままだ」
淡々とエランは説明している。その間もずっと、こちらをじっと見つめている。
「僕は皇后を決める権限を持ち合わせていない。本当に利益なんて、無いよ。それでもいいなら。これからも、僕と会う?会いたいと、思う?」
「い、いいんですかっ!」
今度はエランが少したじろいでいるように見える。前のめりになった私を見ながら、頷いてくれた。皇帝が皇后を決める権限を持っていない、という不自然な言葉よりもその後の言葉に、私の頭の中は占められていた。
「お、お母さんとか……国のみんなには怒られるかもしれない、ですけど。皇后になれって言われて、一応来たので。でも、それより、エランさんともっと話せるのが嬉しい、です!私にとってはエランさんとお話出来ること自体が利益で……あなたとこれからも……会いたい、です」
「どうして……。僕は、面白い人間ではないでしょう」
「エランさん、は!優しくて……親切で……そういうところが、すす、す、素敵、です」
危ない。うっかり言いかけてしまった。けれどもっと彼に熱意と誠意を伝えたい。
「え、エランさんのこと!たくさん、おおお、教えて、ください……」
すっと目線を合わせられる。ほんの少し先に彼の鼻がある。悲鳴が出そうになったのを飲み込んで、彼の言葉を待った。
「うん、いいよ。スレッタ。僕も、君のこと……もっと知りたい」
もう、認めざるを得ないのだ。
エランが好きだ、と。
数日おきにエランがこの宮にこっそりと訪ねてくれる日々が続いた。
自分でも浮かれているのが分かる。侍女には、皇帝に見放された者なのにひとりで楽しそう……という可哀想な者を見る目を向けられているがいいのだ。
しかし、やはりこのままで良いのだろうか、という気持ちもある。エランへの恋心は満たされる一方だったが、国から課された役割は全く果たせていないのだ。后候補でも序列はあるし、皇后となる可能性の高い者はいる。しかし皇后はまだいない。ある意味、この後宮にいる女すべてが同じ身分ともいえる。だから、母国に現在の後宮の仔細が伝わっていない限り、お叱りの手紙が飛んでくることは無いはず。放っておかれたままの姫だとバレないことを願うばかりだ。
私の願いが叶う時、それはすなわちエランの后になることだ。だが、エランが皇帝じゃなくてもきっと私は彼を好きになった。それに、彼が皇帝だからこの後宮に来て彼と会うことが出来たというのに。后になりたいけど、それは彼と結ばれたら結果的に后になってしまうということで……。自分の気持ちの先に、使命の達成が絡んでいることが嫌なのだ。いや、使命は果たさなきゃいけないのだけど。
ウンウンと頭を悩ませ、ひとつの結論にたどり着く。
私はただ、彼のお嫁さんになりたい。
「えっと、これが美味しいという意味で……、これが不味い」
「うん」
「これが好き、という意味で……これは反対に、嫌い、という意味です」
またエランは夜にひとりでこの宮へとやってきてくれて、窓辺に二人で座った。肩を寄せあって、紙に書いた文字を見ながら話す。
エランに見られると思うと、手に力が入らず、上手く書けなかったのが歯がゆい。さっき教えたばかりだというのに、もう私よりも綺麗に文字が書けている彼を見て、流石だと思うけれど、悔しいような、恥ずかしいような。
「あ、あの。突然、私の国の言葉が知りたいって……どうしたん、ですか?」
「言ったでしょう。君のことが知りたいって」
「…………」
抑えねば。一度目を閉じて、もう一度笑みを作る。
「で、でも……あんまり役には立ちませんよ?小さな国で……話せる人も、少ないと思うので。辰星の国と交流する時とか、それくらいにしか使えないんじゃ……」
「? 君と話すのに、使えるよ」
「………………ぁりがと、ございます」
もう駄目です。お母さん、お姉ちゃん。だって、彼と話す度に私は、どうにかなりそうになるんです。
いつもこちらをまっすぐ見てくれる彼だが、今日ばかりは手元の紙を見てくれていて、よかった。こんな惚けた顔をしているのを見られたら、彼に下心を見透かされるに決まっている。
「お礼なんて要らないよ。君が先に、僕と話したいから言葉を勉強したと、言ってくれたでしょう。僕は、それと同じことをしているだけだよ」
「で、でも……この国は大きくて、ここに嫁ぐことになった私が、言語を学ぶのは、当然のこと、なので。エランさんが、これから私と話す以外で使う機会なんて無い言葉をわざわざ学んでくれるの、う、嬉しくて……」
「…………君も、哀れだね」
「え……?」
それまでの、エランへのふわふわした熱い気持ちが、ざっと冷たくなっていく心地がした。
「皇后になれ、と言われてここに来たのだろうけど……周りに味方などいない、独りぼっちだ。もしかしたら僕を、エランを、殺せと命じられているのかもしれないね。そちらの方が、君が達成できる可能性としては高いだろうし。国に……、母に、捨てられたも同然だ。それなのに君は一生懸命この国の言葉を学んで、できることを、」
「と、取り消して、ください!」
エランが顔を上げる。少し、目を大きく開けて。
今、私の頬は、彼への怒りや悔しさで、赤くなっているかもしれない。
でも、言葉を止められなかった。
「お母さんと、国のみんなは、私を捨ててなんかいない、です!」
「…………」
「それに、皇后になるのは、私の役割、で。もし、なれたら、やっと……初めて国の役に立てるんです!」
「……国のために、皇后になって、君はそれでいいの?君の願いは?」
「わ、私の願い……は、国の役に立つこと、なんです!だから、捨てられてなんかない、です……!」
はあはあ、と肩を揺らして息をする。涙が出そうだった。いや、視界がぼやけて、エランの表情が見えないから、もうぼたぼたと、溢れているのだろう。
初めて、声を上げて怒鳴ってしまった。他でもない、初めて好きになった、エランに。
エランが、さっと立ち上がるのが気配で分かった。顔を上げると、エランがこちらに頭を下げた。びくりと肩が跳ねる。
「すまなかった。捨てられた、とか……哀れだなんて言って、君を侮辱してしまった」
「あ……」
「……今日は、これで失礼する」
エランが扉の方へと歩いていく。なにか声をかけようとして、何も喉から声が出なかった。
一度だけ振り返った彼が、ごめんね、と小さく口にして、それから静かに扉が閉められた。
呆然と扉を見つめたまま、身体が動かない。ぎぎぎ、と鈍く頭を動かすと、彼が私の国の言葉を書いてくれた紙が机に残されているのが見えた。その瞬間、また自分の目から涙が溢れ出たのが分かる。頬や頭が熱くてガンガンと痛む。喉からは、引き攣った音しか出なかった。