なつのはじまり
春の終わりで、夏の始まり。
ぼくの心はまだ、暗い雨雲に覆われたまま。
まただ。また雨が降る。
一本の傘を掴んで家から飛び出す。そのまま駆けて、近所の廃工場まで最短ルートで突き進む。
誰も寄り付かないその場所で、傘を開いて座り込む。今日中は帰れそうもない。
一年と一ヶ月前。あの子が消えてから、ぼくの中には一つのルールが出来た。
雨が降っている時は、人に会ってはいけない。
黒い傘を差したまま、物思いにふける。思い出すのはいつだってあの子のことだ。
ハル。伊集院春秋。たった一人の、ぼくの太陽。ぼくのことを諦めずにいてくれた、かけがえのない親友。あの日どこか知らないところへ行ってしまった大事な人。
優しく握られた手の暖かさも、頭を撫でてくれたあの手つきも、刻む鼓動のリズムも、この体で覚えている。覚えているのに。
なんで、ぼくの思い出すあの子の顔は、いつも青ざめているんだろうか。
なんで、ぼくの思い出すあの子の声は、呻いたような不安定な声なんだろうか。
なんで、ぼくの思い出すあの子は、段々と朧げになっていってしまうんだろうか。
ああ、駄目だ。あんなに良くしてもらったのに忘れてしまうなんて、薄情者が過ぎるだろ。周りがあの子を忘れたって、ぼくだけは覚えて、生きてるって希望を持ってなきゃいけないのに。
一日、三日、一週間。一ヶ月、半年、一年。時が過ぎるにつれて、あの子のことを諦めて、亡くしたことにしてしまう人が増えていく。今では、ぼくとハルの親御さんの方が諦めの悪い人みたいに見られてしまう。
なんで決まっちゃいないことを勝手にお前らが決められるんだ。今を生きているはずのあの子を、過去のものに出来るんだ。どうしてお前らが信じることすら否定できるって言うんだ。そんな考えがぐるぐる頭を回るけど、言ったところで頭のおかしい奴だと思われるだけだから、心の中にため込んでおく。いつ溢れるかもわからないのに。
傘の持ち手に貼ってあるマスキングテープを撫でる。紺色に白い水玉のそれを見つめていると、少し気持ちが落ち着いた気がする。
この傘は、ハルの親御さんに無理を言って、あの子が帰ってくるまで貸してもらっているものだ。あの日差してきて、そのまま傘立てに置いていった黒い傘だ。
ぼくに持つ権利なんてないはずのものだけど、それでも信じるものが、あの子がぼくのそばにいてくれたことを示すものが無いと狂ってしまいそうだったから。
こうして雨の中外にいる時は、いつもこの傘を差している。
あの日みたいに別れてしまう怖さから、少しだけぼくを逃がしてくれる。ぼくにはハル以上に消えてほしくない人なんていないのに、不思議だなぁ。
ああ、早くあの子に逢いたい。探し回って探し回って、一中学生じゃ限界があって、一人で勝手に苦しむ生活にいい加減終止符を打ちたい。
話題にする人がいなくなったって、警察の捜索が打ち切られたって、ぼく以外みんなあの子のことを忘れてしまったって、ぼくだけは再会の日を信じ続けないとなぁ。
いつの間にか周りは暗くなってきて、ぼくも船をこぎ始める。瞼が自然に降りてくる。
明日こそ、見つけられたらいいな。孤独をゆっくり咀嚼して眠りについた。
いつの間にか静かになった世界から、とくり、とくりと心音が響く。ぼくのものじゃない、しっかりと覚えている鼓動。たまらずがばりと飛び起きて、空気の揺れるほうを見つめる。
「……静?」
黒いジャージと民族衣装が交わる。頬に冷たいものが垂れる。雲はもう晴れていた。