どうか零しませんように
ホビウタ/限界概念/体調不良/ 登場人物……ロビン・ウソップ・ルフィ・ウタ最初にそれを発見したのは、ウソップだった。
彼は船の廊下の角に、真っ白な手を見つけた。まさか、幽霊ではあるまいかと一瞬よぎった考えを打ち払った。たとえ幽霊だとしても、あの手の正体が仲間であったら。恐る恐る角をのぞけば、そこに倒れているのは赤と白、ツートンカラーの髪が特徴的な少女であった。顔は真っ白であり、目はかたく閉じられている。
ウソップは顔色を変えた。それが幽霊だったからではない。その少女が、大切な仲間であったからだ。
「……ウタァ!!?」
少女の名はウタ。ホビホビの実の能力により十二年もの間人形に変えられていて、ドレスローザにてようやく人に戻れた少女である。そんな彼女は、ウソップの叫ぶ声を聞いてもなお微動だにしなかった。いつも感情を表して上下する、リボンのように結われた髪もピクリともしなかった。
──もしや、死んではいないか。脳裏によぎった最悪のケース。咄嗟に脈を取れば、弱々しいながらも確かにあった。胸は上下しているし、生きてはいるようだった。ほっ、と息をついたものの、一安心するには早い。廊下では体が冷えてしまうし、こんな何もないところで倒れた理由すらわからない。ごめんと声をかけてウタの身を担げば、その身のもつ熱にぞっとした。彼女が倒れていたのは、きっとこの熱のせいだろう。
「……チョッパーは」
船医の名前を口にして気づいた。彼は今いない。だめだ、これではウタの熱の原因すらわからない。歯痒い思いで顔が歪む。ただの熱ではないかもしれないのに。女部屋の前に立ち止まって、くたり、と垂れていく力ないウタを落とさないように気をつけながら扉を叩く。
「ロビン! いるか、いるなら開けてくれ」
「ウソップ……と、ウタ?」
幸いなことに、ロビンはすぐに顔を出した。焦った声に急いでやってきたのだろう、その身のこなしは普段のような優雅さを欠いていた。
「ウタがそこで熱を出して倒れてた。ベットに寝かせてやってくれ」
「! …ええ、わかったわ」
ロビンは少し動揺したように目を見開いたが、すぐに 手を胸の前で交差させ、ハナハナの実の能力を行使する。ウソップの背に担がれていたウタが、床から生えてきた無数の手によってベットまで運ばれていく。ウタにそっと羽毛布団をかけたあと、ロビンは能力を解除した。ウソップにそっと目配せをして、二人は部屋の外へ出た。
「…確かに、熱で倒れたみたいね。あの子の体はとても熱かった」
「ああ。今はチョッパーがいないから、熱の原因がわからない」
「でも、廊下に寝かせておくよりはずっとマシでしょうね」
ロビンのジョークにウソップは笑顔を見せ、そうだなと肯定を返した。
「──ウタがか!?」
ダイニングで肉を貪っていたルフィに、ウタが倒れたことを伝えると、ひどく憔悴した顔で叫んだ。
「ああ、今は女部屋にいる」
ウソップの言葉を聞く前からルフィは好物の肉すらそこそこに立ち上がる。そこには肉を貪っていた時にあった楽しさの表情のかけらもない。まだ頬袋の肉を咀嚼しながら、女部屋へと駆け込んでいった。
一気にがらん、となったダイニングでウソップは思考した。心配するのは、誰にでもできる。それに、ウタに対しては長い付き合いのルフィの方がいいこともあるだろう。では、自分にしかできないこととは、今必要なことはなんだ、と。船医の不在とあればすることはただひとつ。ウタの治療のために、手がかりを書き留めておくことだろう。
ウソップはルフィの後を追って、ウタの部屋へふたたびとってかえした。こんこんと部屋の扉をノックすれば、ゴムゴムの実によって伸びた手がぐいとドアノブを開いた。こんもりとしたベットの傍らに、ルフィとロビンの姿があった。
「ウタの調子は?」
ウソップは起こさないようにそっと声をかけた。彼の手に握られているのはペンと、船医が不在の時に船員の体調不良を記録するノートだ。
「37.2℃、思っていたより微熱ね。ただ、ウタの平熱が分からないから、あまり楽観視はできないわ」
傍に立つロビンも少し遠慮がちに答えた。頷いたウソップは、ウタの眠るベットの近くに椅子を引き寄せて座る。膝にノートを広げて、ロビンにさらに尋ねた。
「今はどうしてる?」
「今は髪を解いて、服も楽なものに変えたわ。氷嚢を取りに行こうとした時にルフィが飛び込んできたの。今はウタの手を握ってもらってるわ。ウタは…さっき倒れてた時よりも顔に赤みが増してる感じね」
「経過良好か。この分じゃ、無理が祟った感じかなァ…」
「私もそう思うわ。でも警戒はしておくべきよ」
ウソップがノートにロビンの説明と、見つけた時の状態を書き込んでいく。備考の欄に仮説も一応。カリカリとペンが動く音が響く。ルフィは瞳を閉じたウタの目の下の隈をじっと見つめていた。いつもの様子から考えられぬほど、彼にただ静寂が満ちている。静寂の裏にあるのは、あのとき、ギリギリで救えた家族のような存在を再び手の内から取りこぼす不安か、それとも。
「……人形から人に戻れたのは最近。彼女、人形の時は眠れてないみたいだったから、ようやく人に戻れた今でも眠ることも難しいのかもしれないわ」
「隈、ひどいもんな」
ウソップはウタを観察しながらノートに記入しておく。チョッパーの助けになるように、ウタの助けになるように記入は細かく。些細な記録が診断を左右する。しばしペンが走った後、ウソップはノートを閉じて立ち上がり、座っていた椅子の上に置いた。ロビンに目配せをして、彼らは連れ添って部屋を退出しようとする。気がついたルフィが怪訝な顔をして二人を見上げると、彼はそっと囁いた。
「ルフィ、おれたち氷枕とかとってくる」
「ウタのこと見ていてくれるかしら」
「……ああ、わかった」
ルフィは殊勝に頷いた。きい、と音がして二つ分の足音が遠ざかる。部屋にはただ二人だけが残された。
ルフィは目を閉じて耳を澄ました。感じるのは、いささか暖かすぎるきらいのあるウタの手の温もりと、本当に微かな息遣い。ルフィは無性にほっとして、泣きそうになった。
「……ウタ」
か細い声が、少女の名前をよんだ。少女は目覚めない。声の主は握る手の温度に祈りを託すように、さらに強く握って俯いた。
神様に普段は祈らないけれど、存在を信じてもいないけれど、そのくせ虫の良いお願いだとわかっているけれど、どうかお願いします。
ようやく思い出せた彼女が、どうか日常から零れ落ちてゆきませんように。
*********
目が覚めるって、こういうことなんだ。
瞼を開いて最初に思ったのがこれなのは、いささか赤子じみた感覚のいるような気もするが、でも本当なのだから仕方がない。12年ぶりのそれは、もはや初めての感覚だった。微睡みを味わうようにぼうっとしていると、額の圧迫感に気づいた。
「……つめたい」
氷水が入っていた袋だろうか。だいぶ温くなっただろうけれど、私には未だ冷たいそれをぐにぐにと弄ぶ。
そういえば、なぜこれが私の額の上にあるのだろうか。ふと湧いた疑問の答えを記憶に探すが、そもそも寝た記憶もない。人に戻れてから、眠る方法がわからなかったし自分でベッドに寝たという線はない。それに結っていたはずの髪すら解かれているし、服装も昨夜着た寝る時のものになっている。しかしここが寝泊まりしていた部屋であることに間違いはないし、ベッドだって記憶に相違ない。
最後の記憶をたぐりよせれば、それは女部屋へ至る前の廊下。そうだ、確か部屋に者を取りに行こうとしたんだっけ。それで……それで──?
それからの記憶はまったくない。うんうん唸っていると、ぴん、と閃いた。
もしかして、これは。
「……たおれた?」
体調不良と熱で、未だボロボロの体がそれに耐えきれなかった。そういうことだろうか。
自分の失態を理解すると、私の身の中の血の気が引いていくのを感じた。ただでさえ、今は少人数の航海だというのに。人形から戻してくれたみんなに迷惑をかけてしまったとは、何たる不覚。役立たずにも程がある。自己嫌悪に苦しんでいると、突然ルフィに置いて行かれてしまう、そんな不安が芽を出した。
そして、ルフィの背中が脳裏によぎった。あのときのシャンクスの背中と、ルフィの背中が重なっていく。二人の背中が遠ざかるビジョンがありありと浮かんでいく。想像したくないのに、やめたいのに絶望的な妄想は止まらない。ルフィに捨てられるのは、それだけは、どうしても嫌だ。
──でもルフィが、仲間がそれを望むなら、私は。
ギィ。私の背にあったオルゴールがなるみたいな音がした。びくりとして思わず振り返れば、どんとっと、という独特の心音が聞こえた。ルフィの心音だ。世界一安心できる音なのに、今は世界で一番聞きたくない音がした。なのに、私の耳はその音を拾い続ける。
ルフィと私の目はバッチリあってしまった。もう今更ごまかすことなどできない。
「ウタァ~~~~!! 目が覚めたのかァ~~~!!」
「……うふぃ…」
ルフィは駆け寄って、私の身を抱きおこした。どんとっと。身が触れ合って、私を救ってくれた音がする。熱のない私より彼の体は冷たいはず、なのにずっと暖かい手のひら。彼の全てにひどく安心してしまって、彼の見えない内側に言い表せないほどの恐怖を抱く。
堰を切ったように溢れ出した涙が、安堵からくるのか恐怖からかもわからない。
あなたに私はどう見えているの。
よかったと、そうやってにこりとしたあなたの表情からは、私への真実が見えない。
あなたは私をどう思っているの。
そう聞いたら、ルフィはきっと困ってしまうし、私の知りたいことは知れないだろう。だから全部全部押し殺して、私は喉から声を絞り出す。
「……………………うん」
「どっか辛いところとかないか?」
「……ない、へいき」
ルフィにこの思いを悟られたくない一心で、私はできるだけぶっきらぼうに返事をした。でもルフィは返答を聞いてすぐにへの口になってしまった。
「なら、なんで泣いてんだ」
「……っ」
あるだろ、辛いところ。ルフィはそう言って、私の目を心配そうに覗き込む。これ以上黙っても彼を困らせるだけで、迷惑をかけてしまうとわかっているのに、どうしても言えない。口から漏れるのは言葉未満。
「無理に言わなくていいぞ。とりあえずメシ持ってくるな」
ルフィは踵を返して、私に背中を向けた。
それが、描いた未来と重なった。
「るふぃ……!!!」
「ウタ?」
だから私は、思わず悲鳴みたいにルフィの名前を呼んだ。ルフィは怪訝な表情をして振り返り、再び近づいてきて心配そうに枕元に立つ。彼は私が呼んだら答えてくれるのだと、あの日の記憶と重ね合わせて安心した。それでも、さっきの未来は離れてくれない。シャンクスの背中と、ルフィの背中が同じに見えてしまう。
ドフラミンゴをぶっ飛ばしにかけていった背中は遠ざかっていったけど、あんなにも頼もしく思えたのに。
「どうした? メシ食わないのか?」
私は首を振る。ルフィは頭からハテナを出すようにしつつ、私の近くの椅子に座った。
「じゃあなんだ? ウンコか?」
私は首を振る。ルフィの首はもう九十度も曲げられようとしている。
「おれは傍にいればいいのか」
私は首を振る。ただし、縦の方向に。ルフィはわかったと頷いて、涙が止まらない私の手をただ握り続けてくれている。しばらく私たちは黙っていた。部屋の空気に混じるのは、私の嗚咽と海の漣、それから彼の手のひらから伝わる振動。どんとっと。彼の音がして、空気は切ない優しさを私に与える。だんだん喉の堰が彼のやさしさで少しずつ解けて、詰まっていた言葉が一つ落ちた。
最初は、名前だった。人形の私を見出してくれたひとの名前。ルフィ、と少し呂律の回らない口で言えば、彼のひとはおうと笑った。
次は、懇願だった。いかないで、と微かで震える声は全然聞こえないはずなのに、彼はいかねェと返事をくれた。
それから、それから。順繰りにつまりが解ける。言葉は意味をなして、私の中から溢れ出る。涙でぐずぐずになって、彼の腕に縋りついた。
「おねがい、おいていかないで……! ルフィ…! わたしと、…わたしと、い゛っしょに゛っい゛で……!!」
「何言ってんだ」
「あたりまえだろ」
ふい、と顔を上げる。ルフィはぎゅっと手を握って、私の目を真っ直ぐみた。瞳は火傷しそうなぐらい烈しい情熱に輝いていた。そっと瞳の中の私を見る。
あなたは、私のことをどう思っているの。
さっきは全然見えなかった答えが、瞳に見えた気がした。途端に心は大嵐の翌朝の空みたいに、ステンドグラスが日を透かすみたいな晴れやかなになった。すとんと腑に落ちて、私は泣き始めてから初めて嬉しさに涙をこぼした。
「忘れたりなんかもしねェよ、もう二度と絶対!! 家族を失ってなんかやらねェ……!!!」
ルフィはそう言い切って、私のもう片方の手をとって、にししとわらった。私もつられて笑った。ルフィは私の笑顔を見て一瞬驚いて、それからさらに強い笑みを見せた。それはまるで太陽のようだった。
実際、ルフィは太陽なのかもしれない。ドレスローザでも、彼は背を向けた。でも、帰ってきてくれた。まるで太陽が登るみたいに、私の長い長い夜の帳を強引にさいた。今ここでも彼は背を向けた。でも、帰ってきてくれた。まるで明けない夜はないというように。
たとえば、向日葵という花がある。それは太陽のある方へ向かう花だという。ルフィに引っ張られて海にやってきた私は、きっと向日葵のように動けはしなくて、ただ太陽を追うだけなのだろう。だというのに、私の脳裏に浮かぶイメージは全然悲観的なものではなくて、むしろ歓喜に満ちたものだった。太陽を浴びる喜びを全身に表しながら咲いている、向日葵のようにあれたらいいと、そっと願う。
「メシ持ってくるから待ってろよ!」
「はーい」
彼は背を向けて、ガチャリと部屋のドアが閉まる。
でも、もう怖くなんかなかった。さっきまでありありと描かれていた、まぶたの裏の背中はんどんぼやけていって、ナミの蜃気楼=テンポのように姿を消していく。なぜなら、私は知れたから。あの頼り甲斐のある背中が笑顔をつれて、必ず帰ってくると。どんなに苦しみが長くても、必ず夜は明けるのだと。
その背中は、遠ざからないのだと。
聞き覚えしかない怒鳴り声が聞こえて、思わず笑みが溢れた。耳をすませるまでもなく、この部屋までどんちゃん騒ぎが聞こえてくる。ウソップが必死にルフィを止めている声と、ドタバタと忙しない足音、それから。
「ウタ! メシ食おう!!」
「うん!」
私はにっこりと笑った。彼の背中は見えない。見えるのは、太陽の笑顔だけ。彼の手には皿がよくぞここまでといいたくなるぐらい積まれていて、不安定なそれをハナハナの能力が支えている。ウソップはまだ廊下にいてルフィに叫んでいるみたい。人形だった頃と全然変わらない日常に目が眩んで、思わず口が緩んだ。
不意に、音が聞こえた。大好きな仲間たちとここで皿を囲んで食事をするみたいな音。それが聞こえた理由すらわからないのに、その音は絶対に聞こえるんだと確信を抱いた。
神様に普段は祈らないけれど、あなたを憎んだこともあるけど、そのくせ虫の良いお願いだとわかっているけれど、どうかお願いします。
ようやく取り戻せた日常が、どうかこの手から零れ落ちてゆきませんように。