ちいさなきば(後編)
※ほんの少し痛そうな表現や流血表現があります
クーフェイ老の事情をある程度知ったエラン・ケレスは、再びスレッタ・マーキュリーの部屋に戻っていた。
「………」
老人の言葉を頭の中で繰り返す。
『今のお嬢さんは少し危ういところがある。子どもにしては聞き分けが良すぎるんだ。表面上は元気に振舞っているが、寂しさや悲しさが無くなった訳じゃない。注意して見てやる必要がある』
今のスレッタは、エランやクーフェイ老が困らないように我慢しているという事だろうか…。
スゥスゥと寝息を立てるスレッタの顔を見る。特に苦しそうな様子もなく、一目見ただけでは普段の様子と変わらないように見える。
「………」
エランは子育てなどした事がない。村にはエランより小さい子はいなかったし、ペイルに引き取られてからも似たようなものだった。他人と関わらないように生きてきたエランにとって、小さな子どもとどう接すればいいかの知識はない。
『そばにいてやれ』
だからクーフェイ老の言葉を頼りに、何とかしていくしかなかった。
「…ん」
「スレッタ・マーキュリー?」
スレッタが寝返りをうつ。起きたのかと思ったが、まだ夢の中のようだ。エランは薄手のタオルケットを掛け直して、乱れた髪をそっと整えてやった。
不安はある。不安はあるが、どこかで大丈夫だと楽観視している自分もいる。
今朝までならきっと自信なんて持てなかった。でも、今は記憶を失ったスレッタとも少しは仲良くできている。
このまま小さなスレッタと向き合っていれば、きっと元のスレッタを取り戻す手掛かりが分かるはず…。そんな風に思えていた。
「んん~…」
またスレッタが声をあげた。今度こそ目を覚ましたようで、コシコシと手の甲で目を擦っている。
「よく眠れた?」
「…うんー…。…ふふっ」
彼女の目覚めを邪魔しないように穏やかに声を掛ける。するとスレッタは目を瞑ったままふにゃんとした笑みを浮かべ、クスクスと笑い声をあげ始めた。
どうやら夢見は悪くなく、機嫌がいいようだ。
「おかぁさん。あのねぇ、スレッタへんなゆめみたんだよぉ」
甘えたようにスレッタが言う。小さな頃の彼女は、いつもこんな風に夢の世界の冒険を母親に報告していたのかもしれない。
夢見心地のまま寝ぼけている小さなスレッタ。その姿があまりにあどけなく無垢なものに思えて、何故だか胸がきゅうっと痛くなる。
甘く引き絞るような痛みに妙な焦りを覚えて、エランはスレッタの顔を覗き込みながらわざと冗談めかして挨拶した。
「お母さんじゃないけど、おはよう。スレッタ・マーキュリー。どんな夢を見たの?」
エランにしてみたら、寝ぼけている彼女をほんの少しだけからかって、この甘やかな胸の痛みを誤魔化してしまいたい。そんな軽い気持ちからの行動だった。
クーフェイ老から忠告を受けたばかりだったのに、張り詰めた風船に爪を立てるような真似をしていた。自分の気持ちばかりに目が行って、スレッタの言葉の意味をきちんと考えていなかった。
変化はすぐに現れた。
エランの言葉に、スレッタがびっくりしたように目を開く。そうして目が合った瞬間、彼女の顔が強張るのが分かった。
「…ひっ」
「スレッタ・マーキュリー?」
様子がおかしい。エランがそう感じたと同時に。
「いやーーー!!!」
小さなスレッタは爆発した。
「なっ!」
「おかーさん!!おかーさん!!きゃあああ゛~~~ッッ!!!」
何が起こったのか理解できなかった。
エランは呆然としながら、鳥のように甲高い悲鳴をあげるスレッタを見た。
つい先ほどまで普通に話していたのに、幸せそうに笑っていたのに。今のスレッタは狂ったように泣き叫んでいる。落差に心がついて行かない。
甘やかな何かがすべて吹き飛ぶような衝撃を受けながら、エランはスレッタが手を振り上げる光景をただ見ていた。
「スレ…っ」
「あっぢいけぇーっ!!」
拒絶の言葉を吐きながら、両手を使ってエランに攻撃しようとしてくる。メチャクチャな軌道で、到底こちらには手が届きそうにない。
代わりに空を切ったスレッタの手は、ベッドの木枠にぶつかってガツンと鈍い音を立てた。痛みに気付いていないのか、振り回す手の勢いは止まらない。ガツン、もう一度音がする。それでもまだ、彼女は止まらない。
───このままじゃスレッタの手が壊れる!
心の中で悲鳴をあげたエランは、目の前の恐ろしい光景をやめさせようと咄嗟に体を動かした。
スレッタに今何が起きているのか、自分が何をしてしまったのか、そんな悠長な事を考えるのは彼女の安全を確保してからでいい。
「落ち着いて!スレッタ・マーキュリー!」
「やッ!!」
振り回した両手を絡め取り、そのまま体の後ろに回して拘束する。同時に肩に手をかけて体を倒し、柔らかなベッドにうつ伏せにさせる。
ベッドとエランの体に挟まれたスレッタは一瞬だけ大人しくなった。けれど自分の状態に気づくとすごい力で振りほどこうとしてくる。
今朝とは比べ物にならないくらいの暴れ方だ。子どもは手加減などしないと聞くが、体は立派な成人女性のものだ。並みの男なら跳ね飛ばされているかもしれない。
「う゛ぅ~~~ッ!!」
「…ッう、くっ…」
エランはスレッタが潰れないように注意しながら、片方の腕で両手をしっかりと固定し、もう片方の手で肩まわりを押し込んだ。足も同時に絡め、容易に暴れられないようにする。
ペイルで教わった制圧方法なら、もっと簡単に無力化できただろう。けれどエランはスレッタを壊すつもりはなく、むしろ一ミリだって傷を付けたくなかった。
「ぐっ…」
断続的に暴れ出そうとするスレッタを抑え込み、必要以上に力を加えないように細心の注意を払う。
神経が擦り切れそうな時間の中、だんだんと息が切れてくる。まるで数分が数時間に引き延ばされたようだ。
「うぅ~……っ」
それでも変わらず拘束を続けていくと、スレッタの様子が少しずつ…、ほんの少しずつだが大人しくなっていった。
疲れたのか。諦めたのか。どちらにしろ彼女が叫んだり暴れる気を失くしたのならそれでいい。
エランがスレッタの様子を観察している間も、あれだけ暴れていたのが嘘のように、彼女は動かずにジッとしていた。
…多分、大丈夫だ。
しばらくの後、エランはそう判断した。自身の勝手な判断だと言うのに、はぁ、と大きく安堵の息をつく。
正直なところ、いつまでも組み敷いたままではいたくなかった。すぐにでもスレッタを解放したかったのだ。
「…スレッタ・マーキュリー。いったいどうしたの?…体を起こすから、理由を聞かせて」
余裕が出たことで、まともに声を出す事ができるようになった。エランはできるだけ優しく話しかけながら、スレッタの拘束を少し緩めた。彼女は変わらずジッとしている。
エランは安心して、スレッタの両手を解放した。肩に手を掛けて体をゆっくりと起こしてやる。
判断が早すぎた、と気付いたのはそのすぐ後だ。
スレッタはエランの右腕をすばやく両手で引き込むと、大きく口を開けてそのままガブリと嚙みついてきた。
「う゛ゥーッ!!」
「ッ───いッ!!」
完全に油断していた。
ギリギリと、遠慮のない力で前腕部に歯を立てられる。肉がプツプツと裂ける感触がして、痛みよりも衝撃が強く骨に響いてくる。
相手がスレッタだと分かっていながら、思わず振りほどきそうになる。けれどエランは自分の防衛本能に蓋をして、逆に彼女を抱きしめる選択をした。
噛まれている右腕はそのままに、左手をスレッタの腹部に回す。
もうムリヤリ拘束はしたくなかったし、暴れるスレッタを見たくなかった。だから体を包み込むように抱きしめる事で、彼女の行動を少しでも抑制するつもりだった。
「スレッタ・マーキュリー…っ。…、僕の声、きこえる?」
「………ッ」
返事はない。エランに噛みついているのだから当然だ。
でも必ず声は届くはずだ。今は届かなくても、いつかはきっと。エランはスレッタが冷静になる事を信じて、声をかけ続けることにした。
「スレッタ・マーキュリー…。ごめんね、びっくりしたよね。大丈夫だから、おちついて」
「………っ」
「スレッタ・マーキュリー」
痛みで声が震えないように注意しながら、エランはスレッタの名前を呼び続けた。心は後悔でいっぱいだ。
エランはクーフェイ老から忠告を受けていた。それなのに、また軽率な行動を取ってしまった。
『おかぁさん、あのねぇ』
嬉しそうに、幸せそうに笑いながら、母親に話しかけていた小さなスレッタ。
きっと起きたばかりの彼女の心は水星基地に戻っていた。なのにエランが話しかけたせいで、彼女は地球にいる自分自身の事を思い出してしまった。
…あるいは、単に寝ぼけていたのではなく、今日一日の記憶がリセットされた可能性だってある。吐きたくなるほど最悪な思いつきだが、可能性はある。
どちらにしろ、彼女はパニックを起こして体の制御も出来なくなっている。このままにしていい訳がない。
「怖がらせてごめん。僕が悪かった。でも。きみの体が心配だから、ゆっくりと力を抜こう…?」
「う、ぅ…」
エランは腕に噛みつかれたまま、スレッタに根気強く呼びかけた。噛まれた部分は熱くなり、痛みが加わり、やがてジンジンと痺れるようになったけれど、べつに構わなかった。
それよりも、彼女の方が心配だ。
こんなに全身に力を入れたら体の筋を痛めてしまうかもしれないし、口を大きく開けていたら顎が外れてしまうかもしれない。歯の噛み合わせだって悪くなる可能性がある。…そんな事になったら可哀想だ。
美味しいものを食べて、ニコニコと幸せそうな笑顔になるスレッタの顔を思い出す。
エランと同年代の大きなスレッタも、うんと年下の小さなスレッタも、本当に美味しそうに食べるのだ。二人ともまったく同じ、嬉しそうな笑顔で。
変わらないままでいてくれた彼女。
そんな彼女に、変わって欲しくなかった。
「僕はきみを傷つけない、絶対に。命をかけてもいい」
だから、安心して欲しい。
全身全霊で、本気の言葉をスレッタに伝える。どこまで伝わっているかは分からないが、それでも声に出し続ける。
「………」
エランが呼びかけていると、緊張に強張っていたスレッタの体から少しずつ力が抜けていった。
腕の中で柔らかくなっていく体に、拘束していた時との違いに気がつく。先ほどの彼女はずっと体に力が入っていた。自分はそんな違いにも気付いていなかったのだ。
唾液や血で濡れた腕が、触れた空気で冷えていく。肉に食いこんでいた歯は外され、唇は腕の表面を触れるだけになる。
同時にスレッタの体がブルブルと震え始め、口からは小さな嗚咽が響き始めた。
「ひっ…、ひっ…」
「スレッタ・マーキュリー…?」
「ご…ごめ、なさ…」
小さく謝る声に、スレッタの理性が戻ってきたと確信する。彼女はブルブルと震えながら、エランの腕についた噛み跡を見ているようだった。
「謝らなくていいよ」
エランは一度スレッタの体から手を放すと、傷跡が見えないように改めて正面から抱きしめた。後ろにまわした手でポンポンと背を叩き、泣いている彼女をあやそうとする。
「…ッ、ご、め…っうぅ~~っ!」
どうにか慰めようとするのに、彼女はますます泣いてしまう。
困ってしまって、それでもポンポンと叩いていると、涙で声を引きつらせたスレッタが少しずつ話し始めてくれた。
聞き取りにくいところもあったが、概ねエランの予想した通りだ。
───今日の出来事は、ぜんぶ夢の話だと思っていた事。
───夢から覚めた後は、水星基地にいると思っていた事。
───とつぜん宇宙人が覗き込んできて、すごく怖かった事。
───そこから先のことは、頭が真っ白でよく覚えていない事…。
ひとまずは、彼女の記憶が再びリセットされていなかった事実にホッとする。けれどすぐに、彼女をどう慰めようかと悩むことになった。
彼女はずっと我慢していた。泣いたのは今朝だけで、それ以外はずっといい子だった。でも不安も、恐怖も、無くなったわけじゃない。彼女は必死に押し込めていた。
それを突いて破裂させてしまったのはエランの方だ。だからスレッタが謝る事はない。
なのに彼女は頑として頷かない。
「謝らなくていいよ」
「う~~…ッ!」
小さなスレッタは納得しない。いつまでも泣いたままだ。
エランは本当に困ってしまって、誰かに助けを求めたくなった。最初に思いついたのはクーフェイ老だ。
…そういえば、ずいぶん騒がしくしていたけれど、彼はこの騒ぎに気付いていないんだろうか。
今更ながらに疑問に思っていると、部屋の外に人の気配があるのに気がついた。老人は今朝とは違い、部屋の前で様子を伺っているらしい。
呼びかけて助けてもらおうか、と一瞬思ったが、いつまでも老人に頼るのも気が引けた。ついでに情けないし、格好悪い。
それに老人はいつまでもエラン達のそばにいる訳じゃない。あと数日でこの家から出て、またあの暑い土地へ戻らなくてはいけない。そうなったらこの家にはエランとスレッタの二人きりだ。
この場でクーフェイ老が手助けに来ないのは、このくらいの対処はエランひとりで出来るようになれ、と言いたいからだろう。
次に思いついたのはシャディク・ゼネリだ。あの友人はまだ距離のあるころから何かとエランを気にかけてくれていた。学園の中では一番頼りになる人物としてインプットされている。
けれど助けは期待できない。物理的に離れすぎているし、連絡を取るのは本当に最後の手段になる。こんな事で連絡していたらきっと笑われてしまうだろう。
益体もない事を考えている間にも、色々な人の顔が高速で現れては消えていく。希薄な人間関係だったので、教えを請えるような人物も経験もないように思える。
そんな中で最後にパッと思い浮かんだのは、スレッタの顔だった。
スレッタを慰めるのに、スレッタに助けを求めるなんて馬鹿げてる。
そう思うのに、記憶の中の彼女はツンと怒った顔をして、エランに対してこう言った。
『酷いです!イジワルするエランさんなんか、許しません!』
あれは確か初めてナイトマーケットへと向かった日だ。エランがくだらない事を言ったせいで、珍しく彼女は怒っていた。
あの時はどうやって許してもらったんだったか…。そこまで考えて、今この場には関係ない記憶だったと思い直す。
走馬灯のような思い出を振り返っても、役に立ちそうな記憶は見つかりそうにない。
時間にしてみたら一分程度、相変わらずスレッタは泣いている。
諦めたエランは、ただひたすらにスレッタを慰める事しかできないと思っていた。
「スレッタ・マーキュリー。何度も言ったけど、きみは何も悪くないんだよ」
「う、う、うそだぁ。だ、だって。スレッタひどいこと、したもん」
小さなスレッタは強情だ。エランの知っているスレッタも、そんな所がよくあった。
「きみはただ驚いただけだから。驚かせた僕が悪いんだよ」
「で、で、でも。スレッタ、けが…、させちゃった…」
小さなスレッタは心配性だ。エランの知っているスレッタも、怪我をすればすぐに治療してくれた。
「怪我なんて、何でもない。こんなのすぐに治ってしまうよ」
「だって、ち…、ちがでてた。ちがでたら、しんじゃう。しんじゃうのはだめ」
小さなスレッタは怖がりだ。エランの知っているスレッタも…。
スレッタも…。
「───」
その時、いくつかの点と点が繋がったような感覚を覚えた。
『しんじゃう?』
『死なないよ』
そんな会話を繰り返したのは、つい数時間前のことだ。それも一度ではなく、何度も、何度も。
『しんじゃう?』
『しんじゃったの?』
『しなない?』
小さなスレッタは、たった数時間の間に、繰り返し死について言及していた。
「スレッタ・マーキュリー…」
「しんじゃうのはだめ。だめなの…」
いつの間にかスレッタは、ぐすぐすと小さな嗚咽を繰り返していた。そうして何度も、エランに死んではダメだと訴えている。
「………」
スレッタが育った水星は過酷な星だ。採掘するのも命がけで、小さなミスさえ許されない。
彼女が成長してからはエアリアルと一緒に救命活動を繰り返していた。ずいぶん活躍したのだと、誇らしげに話しているのを聞いたことがある。
では、スレッタが小さかった頃は…?
「………」
「しなないで」
もっともっと、死は身近なものだったのではないだろうか。
エランはサァ…っと、臓腑が冷える感覚を覚えた。さきほど関係ないと思った記憶の中で、くだらないと断言したエランの言葉は、スレッタにとってあまりに大きく重いものだったと気付いてしまった。
エランはスレッタを脅した船の中のことを思い出していた。
道中の会話で何度も3日間の約束を匂わせた事も。
警備隊に捕まって離れ離れになった時の事も。
スレッタはいつも必死になってエランの死を回避させようとしていた。
彼女は知っていたのだ。死の恐怖を。なのに自分は死ぬ事を道具のように扱って、スレッタを良いように操っていた。
それこそ、何度も、何度も。
くらりと目の前が暗くなる。あまりのショックに気絶しそうになりながら、スレッタをぎゅうと抱きしめる。
「………」
「しなないで」
あまりに下卑た、卑怯者の自分に、なおスレッタは死んではダメだと懇願してくる。
「……死なない。絶対に」
「ほんと?しなない?」
「死なないよ。約束する」
小さなスレッタと、新しい約束をする。3日間の約束のことは、これから先二度と口にしないだろう。
「でも、ちがでてたよ…」
スレッタが不安そうに訴える。エランはそっと右腕をあげてケガの状態を確認してみた。歯形に沿っていくらか血は出てるが、もうすでに固まっている。手首も指も問題なく動くし、後で治療すればきっと痕も残らない。
「問題ない。大丈夫だから、気にしなくていい」
「……でも、わるいことしたのに…」
エランの言葉に、スレッタが俯いてしまう。もう泣いていないが、涙の跡が痛々しい。
どうすれば元気づけられるかを考えるエランに、再び過去のスレッタの顔が浮かんできた。
『わたしのお願いをひとつ聞いてくれたら、許してあげます』
そうだ、あの時の自分は許されたいばかりに、すぐに願い事の内容を尋ねていたんだった。
「許すよ」
「…ゆるす?」
「うん、きちんと謝ってくれたから、きみの事を許すよ。だからもう大丈夫」
「………」
記憶の中のヒントを元に、許す、大丈夫だと伝えてやる。なのにスレッタはどこか納得がいかないような顔をする。
これ以上どうすればいいのか分からずに、更にあの時のスレッタが言った言葉に近づけることにする。
「……ただ、許すには交換条件をつけようと思う。後出しで悪いけど、僕のお願いをひとつ聞いてくれたら、本当に許してあげる」
この言葉に、スレッタがぴくりと顔をあげた。どうやら興味を引いたようだ。
「おねがいごと?さんたさんになるの?」
「そうだね、本物のサンタさんの代わりにスレッタ・マーキュリーが叶えて欲しい。願い事の内容は、そうだな……」
少し考える。小さなスレッタでも叶えられる願い事は、何だろうか。
毎日のあいさつ。鉢植えへの水やり。…ご飯をいっぱい食べる、でもいいかもしれない。
何にしようか悩んでいると、しびれを切らしたスレッタが催促してきた。
「つるつるせいじんさん。ねがいごと、なに?」
自分への呼びかけ方を聞いて、エランはそうだったと思い出す。ひとつ叶えて欲しい願いがあったのだ。
「『エラン』って呼んで」
「え?」
「『ツルツル星人』じゃなくて、僕には『エラン』って名前がある」
「…『えらん』?」
「そう」
午前中に何度も訴えたのに、ことごとく無視されていた願い事だ。せっかくなので、これを機に叶えてもらうことにする。
「…おなまえをよべば、わるいことしたのゆるしてくれるの?」
「許すよ。むしろお礼を言いたいくらいに嬉しくなる」
「うれしくなるの?」
「うん」
「そうなの?」
「うん」
熱心に言い募ると、スレッタは戸惑いながらも口を開いた。
「…えらん」
「…うん、スレッタ・マーキュリー」
「うれしいの?」
「うん、嬉しい」
「えらん」
「うん、スレッタ・マーキュリー」
何度も名前を言い合っている内に、だんだんと愉快な気持ちになってくる。エランが笑顔になると、スレッタもほっとしたような顔をした。
「…きず、いたくないの?」
「痛くない。きみに名前を呼んでもらえたから、痛みなんて吹き飛んじゃった」
冗談めかして言うと、スレッタは今度こそ安心したようだ。口角を上げて、はっきりとした笑顔になる。
「えらん!」
「うん、スレッタ・マーキュリー」
スレッタの大きく開いた唇から、きらりと丸く小さな牙が覗いていた。