たまには本音も悪くない
※メルニキが死にかける
※尻切れトンボです
その日はやけに風が吹いていた。突風が吹き荒れると言うには些か優しい風。その風に吹かれた海の波が普段とは違う動きを見せるのをクロコダイルは書類を片手に窓から眺める。フゥッと吐き出した息には葉巻の煙が混じっていた。締め切った部屋で煙が逃げ道を見つけるより早く次々と煙が吐き出されるせいで、視界は少々白んでいた。
そうしているうちに、部屋の扉が開いた。部屋に入るや否や顔を顰めたのは、クロコダイルの腹心と呼んで差し支えない男だ。
「ノックは」
「したんですが、いくら待ってもアンタからの返事が無さそうだったもんで」
最低限の言葉で咎めるクロコダイルにダズは反論を飛ばした。
「そりゃ悪かった」
「窓、開けますよ」
「あァ……」
まるで手応えのない返答と部屋の煙たさに居心地の悪さを感じながら、換気のために部屋の奥まで足を運ぶ。
その間もクロコダイルから何を尋ねられることもない。普段なら部屋を訪ねれば、要件や自分に振られた仕事の進捗やらを訊かれるはずなのだが。
ダズはチラリと視界の端にクロコダイルを写す。やはりダズの方から口を開くしかないらしい。
「……鷹の目が呼んでましたよ」
「そうか……すぐ行く」
そう言って立ち上がる様子のないクロコダイルに、ダズはため息を零した。
この男がここまで怠惰に貪るような時間の使い方をするところは見たことがなかった。
いや確かに、白ひげの死後物思いにふけった様子で何もせず時間を過ごしていた彼を知ってはいるのだが、あれは今よりもっと理性的で、どちらかと言えば鎮魂の儀のように見えた。
それが今はどうだ。書類を持つ手はいつからそうしているのか分からない。目線は文字を追うことなく。体は椅子に沈み込んでいる。体調が悪いのなら休養をとってもらえばいい。寝不足なら眠ればいい。腹が減ってるなら食えばいい。しかしそうじゃない。全部違う。
原因は分かりきっていた。
数週間前から眠ったまま目覚めない男がいる。そいつのせいだ。
◇◆
キャメルが眠るベッドの脇に簡素な一人がけ用の椅子がある。そこにクロコダイルは腰かけた。自分の代わりに怪我を負った兄の元に、毎日一度は顔を出している。しかし一度そこに座ってしまうと、なかなか立ち上がることが出来なくなってしまうので、大抵の場合一日の終わり頃に来ていた。
眠っているだけに見える兄の身体に取り付けられた管が、事の重大さを伝えている。
自分を庇って一度膝をついてから一向に立ち上がろうとしない兄に、血の気が引いていくのが分かった。どこにも焦点の合っていない瞳を見た時、初めて兄に対して死を予感した。人はこうやってあっさり死んでゆくこともあるものだ。それは兄も同じことで。しかしそれは何故か一度たりとも、脳みその片隅にすら置いたことがない考えだった。だからこそクロコダイルは酷く動揺してしまった。
「……アニキのせいで仕事が手につかねェ。さっさと目を覚まさねェか」
こうやって話しかけても、普段ならば必ず返ってくるはずの声が聞こえないのは虚しい。
今日もそうなんだろうと、兄の顔を見やる。
その時、ピクリと瞼が動いた。
クロコダイルが勢いよく立ち上がったせいで倒れた椅子には構うことなく兄に近寄った。
「……ク、ロ?」
か細いが兄らしい第一声にクロコダイルは安堵した。ずっと張っていた緊張の糸が切れたせいで足の力が抜けてしまう。
「おはよう。少し眠りすぎたかな」
体はまだ動かしづらいのだろう。兄は顔だけをゆっくりクロコダイルの方へ向けた。
「……くたばらなかったか」
「そうみたいだね」
言葉だけの強がりを兄は見抜いてはくれない。いつものことだ。そこはいい。
しかし今回ばかりは、そのままにしていれば今度こそ、この兄は死にかねない。
クロコダイルは息をついて、先程倒した椅子を立てて座りなおした。
「……アニキ、おれを『死んでも守る』なんて二度と思うなよ」
兄はムっとした顔をするが構わず続ける。
「そんなこと考える暇があったら、おれのために死に物狂いで生きようとでもしてろ」
「そんなことなんかじゃないよ。だってクロは私の弟で、大切だから」
被せ気味の食ってかかるような兄の反論を聞くが、全くもって納得できない。
「兄弟ってのがそんな一方的なモンだと思ってんのか。兄に生きていて欲しい弟の気持ちはどうなるんだ」
だんだん腹が立ってきて少し早口で捲し立てる。
するとどうだ。意表を突かれたように、兄は驚いた様子で目を丸くした。それからポツリと呟いた。
「……クロは、私に生きてて欲しいの?」
は、と空気の抜けるような音がクロコダイルの口から出た。
本当にこの男は何も分かっちゃいないのだ。
生きてて欲しいか、だと?
「ッ当たり前だろうが……! このッ、バカが!!」
咄嗟に出た言葉は腹立たしいやらなにやらで、語気が強くなる。
そうだ。言ってしまってから気持ちが追いついてきたが、自分は当たり前に兄に生きていて欲しいと思っている。それなのに、目の前のバカときたら、何をそんなに不思議そうにすることがあるというのか。
クロコダイルは顔を引き攣らせながらキャメルを睨んだ。
「クロは私がいなくても立派に生きていけると思って」
「生きる力があるからなんだ、それとこれとは話が別だろ。勝手に結び付けて、勝手に満足しやがって! アニキらしくしてェってんなら、おれの気持ちを! 少しは考えろ!!」
ビリビリと空気が震える。声を荒らげて言った言葉はどれも、まさか兄に対して言う日がくるなんて思ってもみなかった言葉だらけだ。
「今まで散々好き勝手してきやがったんだ。少しはアニキにも気を揉んでもらうくらいしねェと割に合わねェ。どうすりゃいいか頭を悩ませてろ」
最後に、「勝手に死ぬのは許さねェから、興味のないことはすぐすっぽ抜けるその頭によく叩き込んどけ」と言った。
溜めていた気持ちをあらかた吐き出したら、多少は気分がスッキリとした。
こんなことならもっと早くにやっておくんだった。なんて考える余裕もでてきた。
一方キャメルは、クロコダイルの言葉を静かに聞いていた。兄が弟の独り立ちを後押ししてやるのは当然だと思っていたが、それは何も兄という存在が不要になる訳ではないらしいと、少しずつ反芻しながら理解した。
キャメルにとって弟は大切で何に代えても守りたい存在だ。自分の愛を受け取ってくれるだけで嬉しいし、拒否されないうちは一緒にいたいと思っていた。しかしキャメルの思い描く未来は、弟にとっては少々不本意だったようだ。
「兄らしく、って思いすぎていたのかもしれない」
キャメルは呟いた。
だってそれが、自分の人生だったから。生きる意味だったから。
「クロが生まれてからずっとそうしてきたんだ。クロのお兄ちゃんでいたかったからね」
ポツリ、ポツリと自分でも確認するようにゆっくりとキャメルは話した。
それからだんだんと瞳に膜が張りキャメルの視界はぼやけてゆく。
「クロが立派に成長しても、一緒にいてよかったんだね」
「なにを今更」
瞬きをする間もなく滴が伝う。
「ねぇ、クロ」
「なんだ」
「また眠くなってきちゃった。本調子にはまだ程遠いみたいだ」
「今度はすぐに起きろよ」
「うん。そしたらまた話をしてもいいかい? クロに話せてないことがまだいっぱいある気がして」
「あァ、好きなだけ付き合おう。こっちも言いたいことはまだ山ほどある」
「ありがとう」
キャメルが微笑みながら目を閉じる。
それから一呼吸の後に、「おやすみ」とどちらからともなく呟いた。