たとえ、その身が地獄に堕ちようとも

たとえ、その身が地獄に堕ちようとも


「あーあ……結局、こうなっちまうのか」

溜息を付きながら、殆ど崩れ落ちた壁に鬼哭を立て掛ける。それが、残る限りの全てを振り絞った最後の力だった。

全身から力が抜けて、壁に体を叩き付けるように倒れ込む。なんとか、体を正面に向ければ、あぁ、もう、指先一つ動かせない。

本当のこと言えば、何日も前からずっとそうだった。全身が痛くて、体は重くて。夜なんて眠れるはずもなかった。それでも立てたのは、刀を振るえたのは、体を突き動かす執念と、復讐の火があったから。

でも、今は、もはやそれすらない。いや、今思えば、そんな物は初めからなかったのかも知れない。

自分が抱き続けた何か。自分を突き動かし続けた何か。それがなんなのか、自分にはもう分からなかった。無性に胸を搔きむしり、喉を張り詰め、涙をボロボロと溢れさせて、血反吐混じりの絶叫を上げたくなるあの衝動は、怒りだったのだろうか。怨嗟だったのだろうか。憎悪だったのだろうか。

あぁ、それとも。救いを求める嘆きだったのだろうか。はたまた、抱えきれぬ孤独への恐怖?愛を求める子供の癇癪か。ただただ絶望に引き裂かれる痛みへの叫びか。

わからない。でも、もはやどうでもよかった。

だって、もう。何もかも今更だった。

「最後まで……バカな主人だったろ?なぁ、鬼哭」

結局、最後の時すらこの唯一の相棒と呼べる存在を使いこなすことは出来なかった。結局、最後まで、この刀に相応しい持ち主にはなれなかった。

「ちょうど良いじゃねぇか。俺のこと、なんか……此処ですっぱり、忘れ、て、新しい主人に握って貰えよ。お誂え向けなお侍サマもいるし……そっちの方が、お前もよっぽど――ぐぇっ」

言葉に応えるように、鬼哭は自ずと倒れて頭へと落ちた。頭を抑えながら受け止めると、そのまま手の中でガタガタと震え始める。そんな鬼哭に、クスリといくらか憑きものの取れた顔で微笑んだ。

出会ってから十数年、一日と欠かさず付き纏ってきたストーカー染みたこの刀が、今や唯一の看取り人だ。この刀といい、あの男といい、まったく人生とは何が起こるかわからない。

「……悪かった。そう拗ねるなよ。そうだな……死に際ぐらい、仲良く、しよう」

そう慰めてやると、鬼哭はピタリと震えを抑えて、骨張った腕の中に静かに収まる。それを抱きかかえてやると、静かに自分へと迫り来る炎を呆然と見つめた。

「……赤い、なぁ」

真っ赤な世界。燃える世界。煌々と屍が照らされて、白は影に黒く染まる。

故郷を塗り替えた、赤い色。それが、己の影を貪っていく。

まるで、あの日食い損ねた馳走に舌鼓を打つように。

あるいは、あの日取りこぼした哀れな子供に、慈悲の手を伸ばすように。

「……みん、な……ごめん、な……おれ……そっちには、いけそう、に、ねぇ、や……」

清い人達に散々と言い聞かされた、神様の教えなんて、一つとして守れはしなかった。人を騙して、人を呪って、人を殺して――こんな大罪人が、地獄以外の何処へ行くというのだろう。あの美しい人達と同じ場所になど、行けるはずも無い。

噎せ返る匂いに咳こんだ。煙で頭がクラクラする。マトモに動かない頭の中で響くのは、ずっと、ずっと、あの男の声だった。

「……俺のことを、トモダチだっていうんです。俺なんかのことを……たかが出会って、数日の男を。その内一日、まるまる敵だった男を……友達だって、あんな、死にかけになるまで……はは、あ~あ……バカな奴だなぁ、トラファルガー。我ながら……こんな、かんたんに、ほだされるなんて」

煙にやられて、ぶっ倒れて。それでも、共に逃げようと、最後まで言い張り続けたあの男の声が、何度も何度も、心の中に反芻している。

うまく、逃がせただろうか。最後の最後の、本当にギリギリで行使した力だ。確信は無かった。

生きていて欲しい、なんて。世界の命を悉く滅ぼしてやろうとしていた人間が思う感情では無い筈だった。それでも、自分は確かにあの男の命が――いや。

「あぁ、ばかだなぁ。ばかだ……なんで、今更になって……」

大切な人達の、命が惜しくなってしまった。

この世界には、自分が助けた人間がいる。助けてくれた人間だっている。世界を滅ぼせば、その人達だって殺してしまう。そんなの、構わないと思っていたのに。どうせ何時かは死ぬ命だと、目を閉じていたのに。

ダメだと、思ってしまった。ダメだと思っていたことを、気が付かされて、思い出してしまった。閉ざされていた目を開いたときには、もう全ては水の底。母なるモノに嫌われた、この体では届かない。

神の使いを騙り、人々を脅かしたモンスターは、火炙りの刑に処されて、永遠にひとりぼっちで暗闇を彷徨いましたとさ。めでたしめでたし。あぁ、なんて素敵な、ハッピーエンド。

「……さみぃな……」

青みすら纏い始めた炎がすぐそこまで迫っているというのに、狂った体は寒さに震えた。手足が凍って、心は何処までも暗闇に沈む。あぁ、コレが『死』なのだと、それを噛み締めながら、目蓋を閉じた。

その時、だった。

「……?」

あたたかいものが、頬に触れた。炎の熱さではない。それは、まるで、雪の冷たさに簡単に奪い去られるような……それでいて。

何時までも心に残り続ける、淡い人の温もりのような。

目蓋を開いた。霞む視界の中で、何故か鞘から顔を出した鬼哭の刀身が、煌々と輝いていた。それ以外は、何も見えない。それでも、確かにあるそれに、力なく手を伸ばす。

その手を、少し荒れた柔らかな手が、ゴツゴツとした手が、小さな、小さな、手が握る。

「――あぁ」

ローの頬を、涙が伝う。それを、細くしなやかな指が拭う。幾つもの小さな手が、ローの事を抱き締めた。幾重にも、幾重にも、幾重にも……手に、体に触れる、あたたかな手。

震えがおさまる。手足の氷が溶けていく。心が、静かに晴れていく。

「ありがとう、みんな……」

もう、寒くはなかった。

「さよう、な、ら……おや、すみ、な、さい――――」

静かに目蓋を閉じる。

その幼子のような寝顔を、燃えさかる炎が覆い隠した。

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