それはとても大事なお話:前
1ある日、オモダカさんはポピーちゃんに絵本を読んであげていました。家族を知らない男の子と女の子が、色々な出来事を乗り越え、結ばれるお話です。
「やがて赤ちゃんも産まれて、家族みんなで幸せに暮らしました。めでたしめでたし」
そのお話を読み終わったところで、ポピーちゃんがオモダカさんに訪ねます。
「トップ、あかちゃんはどうやってできるんですの?」
「え? ……ええと……」
その質問にオモダカさんは困ってしまいます。実はオモダカさん自身、子供の作り方はよく知りません。知識が必要になるような場面もなく、習った記憶もありません。確か授業で習うはずの日に風邪をひいて休んでしまい、何となく改めて先生に聞くのが恥ずかしくてその後聞きそびれてしまっていたような記憶があります。
けれどポピーちゃんの質問に答えない訳にはいきません。確か、昔どこかで誰かが言っていたような……
「赤ちゃんは、お父さんとお母さんが、ええと、キスをすると……」
「ちょ、ちょい待ち! 説明に困ったからってそんな適当なこと……」
そんなかすかな記憶にある通りに説明しようとしたら、チリちゃんがツッコミを入れてきました。どうやらオモダカさんの知識は間違っているようです。けれども具体的なことなどわかりません。仕方なくオモダカさんはチリちゃんに頼むことにしました。
「……チリが教えてあげて下さい」
そんなオモダカさんに『押し付けんで下さい』と言わんばかりの目を向けたチリちゃんですが、オモダカさんが思った以上に困った顔をしているのに気が付きました。もしかして、本当にわからないのかと思って聞こうと思いましたが、ポピーちゃんの前では変な話は出来ないと思い直します。仕方なくチリちゃんはオモダカさんの代わりにポピーちゃんに向き合います。
そうして、赤ちゃんはお父さんとお母さんが愛し合っていると出来るんや、と最大限ぼやかしつつ嘘は言わずに何とか説明を終えました。
そしてポピーちゃんが帰宅した夕方、オモダカさんの現状を確認します。
「……トップ、まさか本気で子供の作り方わからんの……?」
「はい。お恥ずかしながら」
「男っ気とかない気はしてたけど、ホンマに……?」
チリちゃんは呆れを通り越して少なからず引いた顔でオモダカさんを見ていましたが、流石に知ってしまった以上放置しておくわけにはいかないと思ったようです。オモダカさんにどう教えようかと考え始めました。
さて、どうやって教えればいいん……? と、考えていたチリちゃん。彼女が思いついたのは、ある意味無難な方法でした。
「……アカデミーで保健の教科書でも借りてくるといいんちゃいます?」
「……そうですね。一応理事長を務めさせてもらっていますし、私でも借りてくることは出来るでしょうか……」
オモダカさんにそう言われてチリちゃんはその情景を想像してみました。
図書館と言う名のエントランスホール。そこでオモダカさんは迷わず保健体育の教科書を手に取ります。それを持って貸し出しカウンターのところに並ぶオモダカさん。通りがかったアカデミー生たちがそれを見て怪訝な顔をしています。トップチャンピオンが何であんな本借りてるんだ? そんな声が聞こえてきそうです。
「すみません。私もこちらで本を借りることは出来るでしょうか?」
「え、あ、あぁ。勿論大丈夫です。……そういえばリーグには小さな子がいましたね。その子に読んであげるんですか?」
「いえ、私が読む用です」
折角の受付の人のフォローもぶった切って、オモダカさんはそう言います。
受付の人は反応に困っており、その様子を見る生徒たちは何やら囁きあっています。
『……アカン気がする』
思わずそう思うチリちゃんです。
オモダカさんは特に恥ずかしいとか考えずに堂々と借りてきそうに思います。けれどそんなトップチャンピオンの姿はあまり生徒に見せない方がいいのではないでしょうか。あくまでチリちゃんの想像ですからオモダカさんならもう少し上手に誤魔化すかもしれませんし、もし今から借りてくるのであれば人も少なくなってくる頃かもしれません。けど、あのエントランスなんていう人気の多いアカデミーの図書館で借りてくるのはどうやっても目立つのではないでしょうか。本当にトップに借りに行かせていいものなのかとチリちゃんは考え始めました。
しばらく考えていたチリちゃんですが、やっぱりオモダカさんが下手なことをしてアカデミー生の憧れをぶち壊す可能性が高いように思います。
何かいい方法は…と考えたチリちゃんは、ふとひらめきました。
「いや、トップが借りに行くのも目立ちますし。ハッサクさんに頼んだ方がええんちゃいますか?」
「それはそうかもしれませんが……ハッサクまで巻き込むのはどうなのでしょうか?」
ハッサクさんはアカデミーの教師です。図書館で本を見ている姿もオモダカさんよりはまだ目立たないでしょう。なぜそんな本を借りるのかと疑問に思われたとしても、頼まれ事だと言うだけで済みます。
オモダカさんとしてはあまり気が進まないようですが、チリちゃんとしてはむしろ進んで巻き込みたい気分です。
正直、オモダカさんに教科書を読ませて教えるにしてもその先一人で解説をするのはちょっと荷が重い気がしています。四天王の大将としてオモダカさんもチリちゃんも信頼しているハッサクさんなら、きっと力になってくれる気がします。
そう思ったチリちゃんは善は急げとスマホロトムを開き、ハッサクさんにメッセージを送ります。
『ハッサクさん、ちょっとお願いがあるんやけどいいですか?』
『何でしょうか?』
『ちょっとアカデミーの図書館で保健体育の教科書借りてきて欲しいんやけど』
『保健体育……? 構いませんが、何故?』
『ちょっと性教育に必要で』
『性教育? ……わかりましたですよ。今日この後届ける必要がありますか?』
『まぁ、アカデミーの方が忙しければ次にリーグに来る時でもかまへんよ』
『忙しい訳ではないので後で伺いますよ。では』
『よろしゅうお願いします』
「これでよし」
後はハッサクさんが借りてきてくれるのを待つだけです。チリちゃんは思わず安堵の息を吐きました。
* * *
「お疲れ様ですよ」
チリちゃんがメッセージを送ってから小一時間後。ハッサクさんがポケモンリーグの本部へとやってきました。
……保健体育ではなく、「やさしい生物」と書かれた本を持って。
「なんで保健体育じゃないん?!」
「え? ポピーに読んであげるのではないのですか? 中を確認したところ流石に保健体育の教科書は早過ぎると思い、こちらから始めるのが良いと思い借りてきたのですが」
「あー……説明しなかったチリちゃんがアカンかったです」
確かに何も説明しなければまずポピーちゃんに話す為だと思うでしょう。チリちゃんだってきっと逆の立場でそう聞かされたらそういうことだと考えます。
チリちゃんがパラパラと中を確認すると生殖についての説明としてはおしべとめしべの図が書かれています。ポピーちゃんに説明するならこれくらいから始めた方がいいというハッサクさんの気遣いは間違っていないでしょう。
必要としているのがオモダカさんだという説明を惜しんだチリちゃんが悪い。そう気持ちを切り替えるとチリちゃんはとりあえずオモダカさんにその本を渡しました。
「とりあえずトップ、まずこれ読んでや。人間も基本は一緒やから」
「わかりました」
オモダカさんは素直に本を受け取り、開かれたページを読み始めました。
おしべから出た花粉がめしべにくっつき、種が出来る。それは流石にオモダカさんも知っていました。けれど人間は花粉は出さないということも知っています。植物や草ポケモンではない生き物も同じ、ということなのでしょうか?
花粉と同じような性質のものを男の人が女の人にくっつけると赤ちゃんが出来るということなのでしょうか。どこにどうくっつけるのかはわかりませんが。
もしかすると、キスをすると何がそういうことも出来るのでしょうか?
オモダカさんが本を読んでいる間にチリちゃんはハッサクさんに性教育を必要としているのはポピーちゃんではなくオモダカさんなのだと説明しています。
ハッサクさんも予想していなかった状況に絶句していましたが、何とか気を取り直して明日にはきちんと保健体育の教科書を借りてくると約束してくれました。
「何か接触させる、つまりキスをした時に出来るということでいいんでしょうか?」
「何でやねん! そんなんで赤ん坊が出来るんならアカデミー生でも子持ちばかりになるわ!」
「キスした時に何か入れるか入れないか意識すれば出来るとか、そういうことではないのですか?」
「口内は男性も女性も変わりませんですよ……」
基本的なおしべとめしべについての話から人間の話に思考を発展させることが出来なかったオモダカさん。
本を見ながら首を傾げています。
そんなオモダカさんの様子を見たチリちゃんとハッサクさんは顔を見合わせてため息を吐きました。
「ハッサクさん、もうちょい説明とか出来ます……?」
「男性である小生が説明するべきことではないと思いますですよ……」
ハッサクさんにはチリちゃんが期待していたほどの説明は出来ないようです。教師として生徒達を教え導く立場ではありますが、確かにれっきとした成人女性に性知識を教え込む、などというシチュエーションはその経験をもってしても難しい話かもしれません。
せめて教科書としてもう少しちゃんとした本を用意してからにしたい。二人の気持ちは今日は無理だという方向で一致してしまいました。
流石に小生が妙齢の女性にそのようなことを説明するのは、とあまり上手く話を出来なかったハッサクさんですが、1ついいことを思い付きました。
「一人、こういう場面に最適な人間を知っていますですよ。教科書を借りるのに加えて彼女に授業を頼んでみようと思います」
「え? だれなん?」
「まさにこういうことの専門家ですよ。明日、頼んでみようと思いますので。トップ、明日以降のスケジュールはどの程度空いているのですか?」
「明日は少々外に出る用事がありますね。明後日は会食の予定がありますし……」
こうして日を改め、ハッサクさんがその人との会合、もとい授業をセッティングしてくれました。
そして約束の日。彼女は保健体育の教科書を片手にリーグの前で一人呟きます。
「まさかあたしの養護教諭としての初めての授業が理事長に対しての性教育だなんて、想像もしてなかったんですけど?!」
彼女……ミモザ先生は、養護教諭の試験に受かったところです。教師の数や授業のコマの関係上早くても次の年度までは授業は受け持てないですが、今後は生徒達にそういったことを教えることもあるでしょう。そんな彼女ならオモダカさんに上手く教えてくれそうだしミモザ先生にとっても授業の練習としてちょうどいい。ハッサクさんはそう思ったようです。
ミモザ先生もその話には納得しています。理事長に対してそんな話をしていいのだろうかとは思いましたが、何も知らない生徒に教えるような感覚でやってくれ、と言われています。折角の機会なので頑張ろう。そう気合いを入れ直すとミモザ先生はリーグの扉を開けました。
* * *
「それじゃ、58ページを開いて下さい」
「はい」
委員長の執務室、その一角にある応ない接スペースで授業が始まります。オモダカさんはミモザ先生の言う通りにページを開きます。そこには子宮の図が書かれていました。
「これが子宮の中です。こんな形になってて、月に1回、卵巣から卵子が排出されます。これが卵管膨大部……ここにいる時に精子がここまで辿り着くと、受精卵になって、これが赤ちゃんに……」
「精子はどこからどうやって入って来るのですか?」
「え? えーと、それは……」
ミモザ先生の話から、これが人間の『おしべとめしべ』なのだということはわかりました。ただ、子宮が自分の身体のどこなのかはわかるけど、どうすれば精子が入ってくるのかはわかりません。どうやって入れるのでしょうか。ミモザ先生が口ごもったあたり、説明しにくい事なのでしょうか?
オモダカさんが首を傾げて見ていると、ミモザ先生はやがて覚悟を決めたのか、口を開こうとしました。
そんな時。
「失礼します」
「アオキ?」
「取り込み中でしたか」
オモダカさんの部下、アオキさんが部屋に入ってきました。部屋の鍵は掛けていた訳ではなかったので出入りは出来ますが、来客が来ていると知っていてわざわざ入ってくる人はそういません。多分アオキは外に出ていた為にオモダカさんの予定のチェックなんてしていなかったのだろう、と思いながら、オモダカさんは指摘しておきます。
「今日はこの時間は忙しいと伝えてあったと思うのですが?」
「わざわざ見ていませんでしたので」
案の定アオキさんはしれっとした顔で答えて、提出する書類をオモダカさんの机の上に置きます。ついでにちらりとオモダカさんの持つ教科書に視線をやりました。アオキさんに見られるのがなんとなく恥ずかしくてオモダカさんはそっと手で隠します。
「……まぁ、トップはその辺のことをもっと理解しておくべきだと思いますよ」
それを見ながらも特に驚きもなくそう言うアオキさんに、オモダカさんの方が驚きます。オモダカさんがこういった知識を全く理解出来ていなきということを知っているのでしょうか?
「え?」
「あれだけいかがわしい目で見られてるんですから、もう少し色々と勉強し直しておくべきでは?」
「いかがわしい目、ですか?」
アオキさんの言葉の意味がわからずオモダカさんが思わず眉を寄せましたが、アオキさんはそれ以上の説明はする気はないようです。黙ってオモダカさんから目を逸らしました。こうなったら多分もう反応はしてくれないでしょう。オモダカさんは諦めて再び教科書に目をやりました。アオキさんが出ていったら、授業を再開してもらおうと思って。
けれど書類を出しに来ただけなのだしすぐ出ていくかと思いきや、アオキさんは中々出て行きません。部屋でオモダカさんの手が空くのを待つ体勢になっています。
「何かまだ報告があるのですか?」
「あるにはありますがそちらが終わってからで大丈夫かと思うので、先に終わらせて下さい」
その言葉に二人は困ってしまいます。おそらくアオキさんはオモダカさんがそういう機微に疎いということはわかっていても、100%本気で「おしべとめしべ」しかわからないレベルだとは思っていないのでしょう。もしかするとミモザ先生の授業の練習台になっているだけというつもりでいるのかもしれません。
流石に男性に見られながらどうやって子宮の奥に精子を入れるか、などと説明出来ず困るミモザ先生を見て、先にアオキの話を聞いておこうと思ったオモダカさん。ですがオモダカさんが口を開く前にアオキさんのスマホロトムがシンプルな電子音と共に飛び出してきます。
「はい」
「大変なんだい! さっき話した件で……」
スマホロトムから聞こえてきたのはハイダイさんの声でした。その声を聞いた途端にアオキさんの表情が険しくなります。もしかするとアオキさんの話したかった用事とは何か非常事態の話だったのでしょうか。聞こえてきたハイダイさんの声とアオキさんの顔を見てこれは授業どころではないと判断したオモダカさんは少しスマホロトムを操作してからミモザ先生に謝ります。
「すみません。今日はこれで終わりにさせて頂くことになりそうです」
「え? は、はい!」
オモダカさんがミモザ先生に謝ったところでハイダイさんといくつか言葉を交わして通話を切ったアオキさんが小さく溜息をつきます。
「今日の午後、営業中に自分が聞いた時にはほんの十数分待てないほどの緊急事態ではなかったのですが」
「……話は移動しながら聞きます。ミモザ先生、折角来ていただいたのに本当に申し訳ありません。」
「いえいえ、あたしの話なんてそんな緊急のタイミングで聞いてるべきものではないんで! もしまた用があれば直接でもハッサク先生通してでも声掛けて頂ければ!」
そう恐縮するミモザ先生に最後にもう一度頭を下げて、オモダカさんはアオキさんと共にリーグの屋上へと上がります。
そうしてそこに待機していた空飛ぶタクシーに飛び乗ると、カラフシティへと向かいました。
* * *
「偽物……ですか?」
「はい。カラフシティで昨日、トップの偽物を見たとハイダイさんが言っていました」
空飛ぶタクシーの中、オモダカさんがアオキさんから聞いたのは、にわかには信じがたい話でした。
アオキさんも話を聞いただけで見た訳ではないのでしょう。何だか嫌そうな顔で言葉を続けます。
「その偽物らしきトップが、カラフシティのベーカリー・オルノに押し入り、パンとスライスハム、スライスチーズを盗んで姿を消したそうです」
「それは……良くありませんね」
被害としては些細なものかもしれないけれど、トップチャンピオンが窃盗や食い逃げをしたなどという濡れ衣は黙っている訳にはいかないでしょう。ポケモンリーグの品位に関わります。それがオモダカさん本人の仕業ではないことを示すためにもオモダカさん自身が解決の為に先陣を切って動かなければならないでしょう。
「それは、明らかに偽物とわかる特徴があったのですか?」
アオキさんが偽物と断じたならば明確に誰から見ても別人とわかるかもしれない。そう期待してオモダカさんは質問をします。けれどアオキさんは更に顔を歪めて言いました。
「ジャケットは常に脱いでいたそうです」
「……は?」
「今あなたも着ているそのジャケットを脱いだ状態で、知らない男に寄り添うようにしていたそうです。恋人同士かのように」
「恋人同士、ですか?」
「なので明らかに偽物だと自分は断じましたが、ハイダイさんは遠目とはいえ見分けることが出来なかったと聞いています」
「……それは困りますね」
心の底から嫌そうなアオキさんの反応は気になりますが、それより何よりハイダイさんが見分けがつかなかったという話が気になります。それなりに若い頃からの知己であるハイダイさんが見分けられないということは、間違いなく街の人々は見分けられないということでしょうから。
恋人同士のように寄り添っていた男というものも気にはなりますが、それは今考えても仕方ないでしょう。
そんな話をしているうちに、カラフシティが見えてきました。夕暮れ時にも関わらず明るいその都市を見て、オモダカさんは深呼吸をします。流石に自分に似た人物がトラブルを起こしている場所に立ち入るのは少し緊張してしまいます。誤解がすぐに解ければ良いのですが。
隣を見ると、アオキさんは逆側の窓から街を見下ろしています。やがてアオキさんは懐からモンスターボールを取り出すと、それに向かって何やら囁いてからウォーグルを空へ放ちました。偵察をしてもらうつもりなのでしょう。ウォーグルならロースト砂漠にも野生のものが生息していますし、犯人にも不審に思われずに偵察が出来るはずです。
それと前後して空飛ぶタクシーは徐々に降下を始めました。
地上に降り立った二人はまずカラフジムへと向かいます。その手前、昇降機で上ったところにある、窃盗被害に遭ったベーカリー・オルノの前に数人の人に囲まれたハイダイさんの姿がありました。
「おお、アオキさん! それにオモダカ嬢!」
アオキさんとオモダカさんに気付いたハイダイさんはニコニコと笑います。
「オイラの電話でオモダカ嬢を連れてきてくれたので間違いないんだい?」
「ええ。間違いありません。証人が欲しければ空飛ぶタクシーでも、リーグ職員でも……ああ、リーグに行った時にはアカデミーの教師もいましたね」
「必要ないんだい。ただ男と歩いているだけならともかく、窃盗と聞いた時点で初めからオモダカ嬢本人とは思ってないんだい」
「そうですか」
市民からの信頼も厚いハイダイさんがそう言い切るせいでしょうか。周りの街の人々も本気でオモダカさんを疑っている訳ではないようです。事件の直後の割には周囲の視線は敵意よりも同情が多く含まれているようで、少しだけオモダカさんはほっとします。被害に遭った店の人ですらそうなのであれば、街を歩いているだけで皆に責められるようなことはまずないでしょう。
それはともかく、事件の犯人についてです。オモダカさんはハイダイさんに尋ねました。
「ハイダイさんは私の偽物を見たと聞きましたが、どんな感じだったのですか?」
「遠目からしか見てないから、感覚的にしか話せないんだい。ジャケットは脱いでいて、雰囲気が本物のオモダカ嬢よりもセクシーな感じで……」
「セクシー、ですか?」
「けどオフの日にプライベートな時間を楽しんでいるのだと言われれば納得してしまう程度には似ていたんだい」
見分けがつかないというほどではないようだけれども、ハイダイさんでも丸め込んでしまいそうなくらいに似ている。男性と一緒にいた。盗んだものはパンやチーズのような些細な食べ物。何となくオモダカやリーグの評判を落としたい愉快犯ではないように思えますが、その情報だけでは何も断定は出来ません。本人たちを見つけるしかないでしょう。
「とりあえず、手分けして私の偽物か、一緒にいたという男性を探しましょうか」
オモダカさんがそう言うと、アオキさんもハイダイさんも頷きます。勿論直接は犯人達を見ていないオモダカさんとアオキさんは男の顔はわからないので、それぞれ街の人と共に探すことになりました。
そうしてオモダカさんはハイダイさんと共に手がかりを探し始めます。けれど人の多いカラフシティで人を探すのは大変です。中々それらしき人は見つかりません。
そんな時、ウォーグルの鳴き声が聞こえました。この声はアオキの手持ちの子のものです。まるで仲間を呼ぶ時のようなその響きに、オモダカさんは迷わずそちらに向かいます。ハイダイさんはその声を聞き分けられなかったのか首を傾げていましたが、オモダカさんの後を追います。
果たして、その先には。
「あれは、オモダカ嬢?」
「確かに私の顔ですね……格好は、何故こんな風なのかわかりませんが」
ウォーグルの声を目指していった先には、話に聞いた偽物らしき人影がありました。皆の話の通り偽オモダカはジャケットを脱いでいて、それに加えてスーツはしっとりと濡れています。その様子はまるで通り雨に降られたようです。地面を見る限り今日は雨は降っていないようなのに。
濡れているせいでシャツは肌に張り付いて身体の線が浮き出ています。なぜそんな格好をしているのかはオモダカさんには理解できません。ただ、彼女の着ているものは自分の服とそっくり同じものに見えます。似せたものではなく、まったく同じもののように。オーダーメイドのオモダカさんのスーツと全く同じものは簡単には手に入りませんし、そもそもここまで似た顔を作るのも簡単ではありません。ただコスプレをしているのとは違うように思います。
偽オモダカはきょろきょろと何かを探しているようです。その表情は色気を含んでいるようにも、途方に暮れた子供のようにも見えます。
何はともあれ偽オモダカを確保するためにハイダイさんは彼女の方に歩き出します。けれど偽オモダカはオモダカさんの顔を見た途端に表情を明るくし、まっすぐにオモダカさんの方に駆け出してきました。
「トップ!」
そんな時、オモダカさんたちより少し遅れて駆けつけてきたらしいアオキさんが自分を呼ぶ声が聞こえました。
そしてその切羽詰まったような声で気付きます。正面の偽オモダカに気を取られて、すぐ後ろに知らない男が忍び寄ってきていたことに。
その男はオモダカさんに手を伸ばし、そして次の瞬間オモダカさんに後ろから抱きつきました。
「あぁ、本物のトップチャンピオン……!」
その男はオモダカさんの首筋に顔を寄せて、どこか恍惚とした表情でそう呟きます。何故か息の荒いその男の吐息が首筋に当たり、オモダカさんは今まで感じたことのないぞわぞわとした嫌悪感に襲われます。この男が何がしたいのかもわかりませんが、ただ気色が悪いという感覚だけは誤魔化しようもありません。トップチャンピオンらしい威厳や風格などに気をつかう余裕もなく、ただ硬直することしか出来ませんでした。
けれどその十数秒後、その男がオモダカさんから引き剥がされます。そして次の瞬間、容赦のない蹴りがその男の腹に叩き込まれました。
男が地面に倒れ込んだところを再び胸ぐらを掴み、更に暴力に訴えようとする部下の姿に、咄嗟にオモダカさんは叫びます。
「止めなさい! アオキ!」
「何故こんな男を庇うんですか? 正当防衛では?」
「襲われたのは私ですし、たとえそうだとしても明らかに過剰防衛でしょう! 貴方が罪に問われます!」
全く手加減のなさそうな動きからも、倒れた男の顔からも、どう考えてもやり過ぎです。アオキさんがオモダカさんを助けてくれたのだということは勿論理解していますが、ここで彼のすることを見逃すことなど出来ません。ただの私刑と判断されてしまうかもしれませんし、代わりにアオキさんが捕まってしまうことなどあってはなりません。
そんなオモダカさんの必死の訴えにようやくアオキさんは手を下ろします。男を地面に放り、オモダカさんを庇うように数歩下がりました。けれど虫けらを見るような目で男を睨み付けるのは止めません。アオキさんがこんなに不機嫌なのは珍しい、とオモダカさんは怪訝に思います。
そういえば、偽オモダカはどうしたかと思って辺りを見回してみれば、彼女のことはハイダイさんが捕まえていました。
「ゾロアークのイリュージョンだったとは、気付かなかったんだい……」
彼女は捕らえられた途端に黒い化け狐に戻ったのでしょう。倒れた男に駆け寄ろうとじたばたと腕を動かしています。仮装というには精巧でオモダカさんと全く同じように見えたのは、かのポケモンの能力のせいだったようです。何故雨に濡れた時のような姿だったのかだけはわかりませんが。
そんな時、男がゆっくりと顔を上げると、アオキを殺意すら滲む目で睨みました。そして、ゾロアークに視線をやると、叫びました。
「オモダカ、ナイトバースト!」
その声に応えるようにハイダイさんに捕らえられていたゾロアークが一声吠えると、ハイダイさんを振り払います。そして迷いなくアオキさんに向かって技を放ちました。それが自分に向けられていると気付いた瞬間、アオキさんはオモダカさんを突き飛ばすようにして自分から距離を取らせました。
そうして技の直撃を食らってしまったアオキさんはその場に崩れ落ちました。
「アオキ!!」
ゾロアークも主人を攻撃された怒りで興奮しているのでしょう。これ以上暴れさせないように落ち着かせなくては。そう判断したオモダカさんも自分のポケモンで応戦しようとボールに手をやります。けれどそれより早くアオキさんのウォーグルが空からものすごい勢いで突撃してきました。不意を突かれたゾロアークはまともにそれをくらい、倒れ込みます。その一撃でゾロアークはほぼ戦闘は不能なくらいのダメージを食らったように見えましたが、ウォーグルは更に岩石封じでゾロアークを捕らえます。ウォーグルのその瞳に確かな怒りを感じ、オモダカさんは彼に声を掛けました。
「すみません。私が付いていながら、貴方の主人をこんな目に遭わせてしまって」
オモダカさんがそう言うと、ウォーグルはオモダカさんを振り返ります。不満そうな顔をしてオモダカさんを睨みますが、それでも犯人達への気が逸れたことで少し落ち着いたのかゾロアークに背を向け、アオキさんの傍らに舞い降りました。
オモダカさんも市民に安全な場所へと運ばれていたアオキに近付き、傍らに跪きます。意識はないけれども呼吸は正常なようですし、命に関わるほどのダメージではないようです。いいえ、そう思いたいです。
彼の首筋に触れて脈を確認しながら、オモダカさんは思わず小さく呟きました。
「……すみません。私のせいで」