その7

その7

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情報将校はかく語る(side IF)◇◇

「──もう一度警告する。そこを通してもらおうロシナンテ少将。従わねば世界政府への反逆と見なす。海軍本部よりあなたにもフレバンスからの退去命令が伝えられているはずだ。知らないとは言わせないが」

相対するCPの言葉にロシナンテは動じる事無く口を開いた。

「退去命令は”原因不明の病を重く見た世界政府から海兵への温情措置”だろう?珀鉛病は現状フレバンスだけの問題だ。一国家の事はその国家自身に任せて海兵は手を引けと」

「ならば」

「だが、珀鉛病は治らない病気じゃない。事実、この病院では珀鉛病の本格的な治療が始まってる。それを知らないあんた方じゃないだろう」

「…………」

「珀鉛病の件についてはおれから元帥殿へ報告した。そして元帥殿は海兵を撤収させる必要はないと判断された。おれは海兵なんでね、あの人の命令にしか従わねえよ」

両者の間に張り詰めたた空気が流れる。沈黙を破ったのはCP側の人間だった。

「……いいだろう、退去命令に関する勧告については撤回する。だが、オペオペの実の件についてはそちらの管轄外だろう。我々があなたの失態の尻拭いをしてやるのだ、光栄に思え」

「オペオペの実の件のどこがおれの失態なのか見当がつかねえな。悪魔の実の盗難については政府の警備の甘さが問題なんじゃねえか?聞いたぞ、警備を担当していた政府のエージェントが侵入者の姿を確認する事すらできずに昏倒させられたって。むしろそっちがおれに感謝してほしいくらいだ。──おれのおかげで、あの究極の悪魔の実が海のクズ共に奪われずに済んだだろう?」

白々しい口調で語るロシナンテにCPは懐の銃に手を伸ばした。CPから銃口を向けられてもなおロシナンテは余裕の態度を崩さない。

「お前、お前がそれを言うのか……!」

「おいおい口調崩れてるぞサイファーポール。大体あんたら政府がいくらオペオペの実の能力者とはいえ善良なる一般市民に手を出すのか?ここは2年前のウォーターセブンとは事情が違うだろう」

ウォーターセブン、の単語に目の前の黒服が反応したのにロシナンテは薄く笑う。

「幸いオペオペの実の能力者は海軍に好意的だ。彼は珀鉛病治療の要でもある。その彼の身に何かあれば一大ニュースだろう。なあ、現状維持が望ましくないか、お互いに。──そもそもあんたらの”本命”はこっちだろう」

ロシナンテが懐から取り出した紙束にCPは明らかな動揺を見せた。

「お前、なぜそれを」

「さあな、わざわざ説明してやる必要があるか?──あんたらが欲しいのはこの密約書だろう。珀鉛産業が始まったおよそ百年前に世界政府とフレバンスの王族間で交わされた契約だ。珀鉛の有毒性に関する隠蔽とその代価として一部輸送事業の独占権。万が一の場合は世界政府が王族の命を保障するという特約付きだ」

ロシナンテは至極退屈そうにぱらぱら、と捲ってみせる。

「珀鉛の有毒性が明らかになった時は”感染症”として国ごと廃棄処分か。よくできた筋書きだな。──つまりはまあ”これ”は世界政府とフレバンス王族の悪事の証拠ってわけだ。珀鉛病が治る病だと分かった以上、こんな密約書の存在が世に出回っちゃ都合が悪いよなあ。世界政府の面目は丸つぶれだ」

「……我々は、世界政府から加盟国であるフレバンスの王族の護衛も命じられている。王宮への不法侵入の嫌疑でお前を捕らえる事もできるが」

「”護衛”ねえ。──護衛じゃなくて、監視が正しいんじゃないか?」

その時、密約書を狙った銃弾が”音もなく”地面を抉る。それに驚いたのは間一髪避けたロシナンテではなく、発砲したCPの側だった。「お前、何をした!」と叫ぶCPに海兵は己の唇に指先を当てる。

「”病院ではお静かに”、な。勘違いしてもらっちゃ困るが、別におれはあんたらと事を構える気はないぞ。海軍と世界政府が身内で潰し合うなんざ馬鹿馬鹿しい話だろう?」

「何が言いたい」

「あんたらの本当の目的はフレバンス王族との契約の履行ではなく、その護衛にかこつけた密約書の奪取及び廃棄だろう。執拗に海軍の手をフレバンスから引かせたがった理由は万が一にもこの密約書の存在を嗅ぎつけられたくなかったから。オペオペの実の能力者への襲撃は陽動とおれに対する嫌がらせって辺りかね。何か間違っている所はあるか?」

「……いいや、その通りだ」

構えたままだった銃を下ろして己の言葉に首肯したCPにロシナンテは目を細める。

「なら話は早いな。この一件の幕引きには何かしらの悪役が必要だろう?例えば”珀鉛の資産価値に目がくらみ、国民を百年間欺き続けた王族”とかな。──この密約書は最初から存在しなかった、それでいいな」

「センゴクの狗ごときが、いっぱしの口を。……だが、いいだろう。お前の思惑に乗ってやる」

取引成立だな、とロシナンテは口元を吊り上げた。




◇◆◇

「……はー、まあ何とかなったか。怖い怖い。本当に物騒な連中だなサイファーポールってのは」


黒衣の男が去った後。僅かに残る硝煙の香りを感じながらロシナンテはひとり壁にもたれていた。奴らは諜報員の癖に血の気が多くていただけない。こんな民家の近い場所で銃ぶっ放す奴があるかと内心ぼやく。諜報員の花は暗躍だろうに。

ため息をつき、もはや習慣的なもので煙草を咥えて火をつけた所でロシナンテは気づく。(あ、ドジった)と。脳裏に浮かぶ敷地内禁煙の文字に慌てて消したが、そんな時に限ってタイミング悪く病院職員の巡視が通りがかる。しかも相手は先日喫煙を咎めてきた看護師で。

握りしめた煙草を後ろに隠し、へらりと笑って見せたが当然誤魔化されてはくれず。

「この匂い……ロシナンテ少将!また院内で煙草ですか?院内は禁煙だとあれほど申し上げたはず!」

「悪い師長さん、でもわざとじゃ」

「言い訳不要!」

看護師に平謝りしながらロシナンテは考える。

──ひとつの国を守る事は途方もなく難しい。滅ぼす方が遥かに簡単なくらいだ。今回の一件も病気を治してはい終わりではない。フレバンスは珀鉛病によって国民も国土も経済だってダメージを受けている。この先、更に自国の王室すら失うのだ。立ち直るまではきっと年単位で時間がかかる。珀鉛病に関する風評被害の払拭だって一筋縄ではいかないだろう。まあCPの裏工作で珀鉛病の情報が近隣諸国のみで止まっているのは不幸中の幸いか。

──まあどんなに困難な任務であっても、潜入任務で海賊の真似事をするよりは余程良い。正義の名を背負う海兵として働けるのならば、それに越した事はないのだから。




◇◆◇

ふたりのトラファルガー・ロー

(side 市の外科医)◆◇

「処置終了っ、……次、お願いします」

「はい!」

搬出されていく患者を横目に”ROOM”を解除すると疲労感が身体にのしかかってくる。凝り固まった身体をほぐすように少しだけ伸びをした。どさり、と壁際にある椅子に腰を下ろす。

フレバンスに帰国してから今日まで珀鉛病治療拠点となった医院の手術室にほぼ籠っている。ここ最近は日付の感覚すら曖昧になりそうだった。最後に日の光を浴びたのはいつだっただろうか。

しかし、今の患者で一番緊急性の高い患者の処置は終了した。少しペースを落としてもいいかもしれないと考えた所でかぶりを振る。フレバンスは小国とはいえ一人で対応するには患者の数が膨大だ。気を抜いている暇なんてある訳がない。

──あちらのでの能力の訓練中に彼に問いかけた事がある。

『おれは珀鉛病の患者全員を助けられるでしょうか?』

あれは自分がオペオペの実の能力をそれなりに扱えるようになった頃だった。その言葉に彼はひどく冷めた視線を返してきた事を覚えている。

『思い上がるんじゃねえよ。いくらオペオペの実の能力があろうと助けられねえもんはある』

冷や水を浴びせられたようにも感じた、彼の言葉は今思えば実に正しいとわかる。

『全ての患者を救うなんて事ができるならそれはもう神の領域だ。──今のうちに覚悟しとけ、人は死ぬぞ』

『…………』

『おれ達にできるのはせいぜい両手の届く範囲にいる患者を救う事だけだ。それをはき違えるんじゃねえ』


あの時の彼の言葉はある意味自分を慮っていたのかもしれない。背負いきれないものまで背負おうとするなと。

だが。頭に浮かぶのは、海軍本部から自分が帰るまでに亡くなってしまった患者。トリアージの時点で外科的治療を施しても救命不可と判断され黒タグを付けられた患者の最期の顔で。

フレバンスを旅立った頃には珀鉛病の患者は高齢者ばかりだったが、帰国する頃には若年層にまで広がっていた。肌が真っ白に染まり、痛い痛いと泣いていた小さな子が泣き声すら上げられなくなるのを見た。親を失う子供を見た。生まれたばかりの我が子に先立たれる夫婦を見た。

自分がもっと早く行動できていれば。技術があれば。どうしてもそういう後悔が胸を占めてしまう。まだ足りない。まだ休めない。諦める事など到底できる訳がない。


早く次の準備をしなければ、と立ち上がる。そこで不意に鼻からどろりと何かが流れる感覚がした。思わず触れてしまった指先は赤に染まっていて。鼻血……?と認識した所で強烈な眩暈に襲われる。ぐらりと視界が傾いで、思わず床に膝をついた。

いきなり倒れた自分に周囲のスタッフがざわつく気配がするが反応する余裕はなかった。震える手で早鐘を打つ心臓を押さえる。気道が狭まり、呼吸が浅くなっていく。反射的に咳き込むとじわりと口腔内に鉄錆の味が広がった。

彼の言葉を思い出す。オペオペの実の能力は体力の消耗が激しい、場合によっては自分の寿命すら削る力だ、精々注意して使えと言っていたじゃないか。

蹲ったままふらつく腕を上げて”ROOM”を展開しようとしたが指先に力が入らない。霞む視界で見つめても掌に薄青の光は現れなかった。

(これが、限界か?)

あっけなさすぎる幕切れに乾いた笑いがこみ上げそうになった。だが。

ぐい、っと鼻から流れる血を拭う。

こんな事で諦めるわけがないだろう。今の自分に倒れている時間はないんだ。

ふらつく手足に力を込めて無理矢理立ち上がろうとする。それだけの動作で視界が歪んだが、大丈夫だ、自分はまだやれると暗示をかけた。そこで、──突然ガッと頭を殴られた。軽い力ではあったが少しばかり目の前に星が散る。

一体何がと面食らったが、かつり、と硬質な靴音を立てて自分の隣を通り過ぎていく男の姿に息を呑んだ。

「なんで、」

「自分の限界もわからない奴が無茶してんじゃねえよ。──だが、よくやったな」

いつかと同じ、金の瞳が自分を見下ろしていた。




(side 死の外科医)◆◇◆

「帰ってしまったな」

「…………」

対象物の消失により自動的に”R・ROOM”が解除されるのを感じながら、傍らに立つヴォルフの言葉を聞く。別世界の己を名乗った男は、”凪”の発動と同時にまるで最初から存在しなかったかのようにその姿が掻き消えた。

ぼんやりと男が立っていた場所を眺めているとヴォルフから話を振られた。

「ロー、お前は本当に良かったのか?」

「何だが?」

意図を測りかねる質問に眉をひそめる。ヴォルフは少し考え込むような素振りを見せた後、言葉を続けた。

「……ロー、ポーラータング号のメンテナンスには今しばらくかかる。オーバーホールじゃオーバーホール。終わるまでお前に用はないわい」

「?そうか」

この島に立ち寄ったのはそもそもポーラータング号の整備も兼ねていた為、特に異論はない。だが、いささか唐突な話題転換に違和感を覚える。

「そうじゃ、わかっとるか。──だからその間にこれをどう使おうとお前の自由じゃ」

「は?」

ヴォルフから無造作に投げ渡されたものを受け止める。掌に収まったのはどこか既視感のある小箱。金属製の本体に、蓋には空を飛ぶ燕の意匠が刻まれていた。

「これは名付けて”寝てる間に旅行くん3号改”じゃ!」

……本当にこのじいさんのネーミングセンスだけはどうにかならないのかと昔から思う。

「あやつの持っていた小箱を解析してワシなりに作り上げたのがこれじゃ。ただ稀代の天才発明家ヴォルフ様といえどあんなオーパーツに近い物を完全に再現する事は難しくての。あやつの持っていた物は条件さえ合致すれば様々な世界を観測できるようじゃったが、これで観測できるのは一か所──あやつが帰った先の座標だけじゃがな」

その後もヴォルフは装置に関する説明を長々と話していたが、全て耳を上滑りしていった。つまりはあいつの足取りを追える道具だと。

「……こんなもの、おれに渡してどうする」

「言ったじゃろ。どう使おうとお前の自由だと。ワシは作れそうな気がしたから作ってみただけじゃ」

それだけ言うとヴォルフは「さあ仕事じゃ仕事!今手入れしてやるから待っとれよポーラータング号!」と駆け出して行ってしまった。後に残されたのは小箱を片手に立ち尽くす己のみ。

掌に収まる小箱を見つめる。正直な所、これ以上この件に関わる必要性はない。あくまであちらの世界のフレバンスはあいつの故郷だ。この世界のフレバンスが16年前に滅びた事実は何も変わらない。あいつの世界の問題はあいつが解決するべきものだ。しかし。

『──フレバンスを救いたいんだ』

珀鉛病の患者全員を助けたい。そう青臭く叫んでいた顔を思い出す。ああ、本当にあれが己と同じ人間だとは思いたくない。この世に神様なんてものはいねえのに、神に祈るがごとくひたむきに、愚直なまでに患者を救おうとする。

フレバンスはいくら小国とはいえれっきとした一つの国家だ。たった一人の医者が救うにはあまりに患者の数が多すぎる。それを理解できない頭ではないだろうに。

正直、あいつは馬鹿だと思う。己の領分を弁えない行動はいつかあいつの身を滅ぼすだろう。

そしてまあ、己に似た顔でまた情けない面を晒されるのは不愉快だという理由だけでこの判断をしようとしている己もまた大概だが。

「──なあお前ら、おれは少し留守にするがいいか」

少し離れた所にいた船員達に声をかける。己の言葉に彼らは胸を張ってみせた。

「船長がやりたい事があるならおれ達は何だって応援しますよ」

「船長の事待つのは慣れちまったからな。待ってるから安心して行ってこい」

「…………」

やいやいと騒ぐ船員たちと裏腹にいつもならいの一番に返事をする橙色のツナギの白熊はひとり静かだった。それを疑問に思い近づけば、キャプテン……と小さな声で呼ばれる。

「……もし、いいならキャプテンと一緒に行きたいけど、ダメだよね?」

控えめに袖を引くベポに悪いなと告げれば無言で抱きしめられる。その毛皮に己の顔が埋まるのを甘んじて受け止め、己より高い位置にある年若い白熊の頭を宥めるように叩いた。


「それじゃあ行ってくる」

「船長!気をつけてくださいね!」

「はっ、誰に言ってやがる。──お前ら、船を頼んだぞ」

「「「アイアイ船長/キャプテン!!」」」




◆◇◆

船員達に見送られ、仮宿の寝台に横たわり枕元に”寝てる間に旅行くん3号改”を置く。目を閉じれば意識が沈んでいく感覚に逆らうことなく身を任せた。


どのくらい時間が経ったのか。一度完全に闇に溶けた意識が輪郭を結び、己が形作られていく。頬に触れる空気の変化に目を開けると、そこは空の上だった。

「はあ?────っ、”シャンブルズ”!!」

呆気にとられるが瞬く間に近づいてくる海面に咄嗟に”ROOM”を展開する。連続的に空中を移動し、何とか近くを航行していた船舶に飛び移った時には少しばかり息が上がっていた。

なんで海の上なんだ、聞いてねえぞガラクタ屋と少しばかり悪態をつきそうになったが、ため息をついて身を起こす。さて勢いで乗り込んだはいいがこの船はどこに向かう船だろうか。見た限りは軍艦や海賊船の類ではなく一般的な商船の様に思えるが。

そう考えていると船室へとつながる扉が開き、年配の男が出てきた。こちらを認めた男は眉を跳ね上げる。何と取り繕ったものかと考えたが、それよりも先に相手の男は驚いたような顔をして口を開いた。

「おや、ロー先生じゃないか」

──その言葉に今度は己が眉根を寄せた。




「いやあトラファルガー先生からロー先生は海軍本部に行ってるって聞いてたんだが、もう帰って来てたんだな。同じ船に乗ってるとは思わなかったよ」

にこにこと笑いながらそう話す船主の男。話を聞いているうちに理解したが、この男はあいつの知り合いらしい。この間の船旅で急だったのに船医者を頼まれてくれて本当感謝しているよと言われて、曖昧に反応を返した。

「ちょうど次の寄港地はフレバンスの隣国だ。そこから運河を行けばフレバンスまですぐだから船でゆっくりしてってくれ」

フレバンスまで急いでいる事を伝えれば進路を一部変更してまで送ってもらえる事になり、素直に礼を告げる。そこで船主の男は少し声を潜めた。

「ところでロー先生はあの珀鉛病の治療の為に海軍本部へ行ったって聞いたんだが、どうだったんだ?なんか良い治療法は見つかったのかい」

俺の知り合いも珀鉛病にかかっちまってよ、心配なんだと話す男。

「──ああ、珀鉛病は治せる。おれはその為に来たからな」




◇◆◇

「トラファルガー先生によろしくなー!また予定が空いたら船医者やってくれよー!」


約束通りフレバンスまで送ってくれた船主に別れを告げて船から降りた。鬼哭を担ぎ直しながら船着き場から見える町を見渡す。

(この世界が、おれにとっての”夢”か……)

内心そう呟いた。確かに夢のようなものだ。己の故郷は16年前に全て滅ぼしつくされたのだから。

”童話の雪国の様に地面も草木も真っ白で、この世とは思えない程美しい町フレバンス”。16年ぶりに見た風景は記憶にある物と何も変わっていなかった。船着き場に続く橋は爆薬で破壊されておらず、白く優美なアーチを描いたままで。あの時、教会のみんなの亡骸で埋まっていた広場は、そんな凄惨な現場だった面影等無く、多くの人で賑わっている。あの日燃やし尽くされた白壁の家々も、何もかもが幼い頃の記憶そのままに白く美しい姿でそこにあった。

思わず足を止めてしまいそうになる。溢れそうになったものを堪えるように深く息を吸った。郷愁に浸る為にここに来たのではないのだから。


記憶と変わらない町は十数年ぶりだろうと迷いはしなかった。生まれた時から十年暮らした場所だ。そう簡単に忘れるはずがない。

道すがら先日海軍本部主導で珀鉛病の治療拠点が作られた事を知る。治療拠点となっているのはよく知っている場所だった。あらロー先生と声をかけられるのを適当にいなしながら足早に大通りを北へ進む。ああ確かにここは己ではなくあいつが生きている町なのだと思う。沿道沿いに植えられた木の樹皮は記憶にある通り白く、花壇には可憐な白い花が風に揺れて咲き誇っていた。

通りの突き当りを左に曲がった先、白い外壁と細やか意匠の施された鉄製の門扉に囲まれたひと際大きな建物群。そこまでたどり着いて、目的の場所の前で立ち尽くす。

青い切妻屋根に町を象徴するような真白の壁はフレバンスではよくある建築様式だ。複数ある棟の中で一番大きい本館のゲーブルに刻まれた赤の十字はここが病院であるという証で。あの日、己の両親も妹もそれまでの思い出も全部銃弾と炎に呑まれて失った場所。そして今、珀鉛病の治療拠点として多くの重症患者を受け入れている大病院。己が生まれ育った医院が目の前にあった。

門扉に刻まれた文字をなぞる。この場所を再び目にする日が来るとは思わなかった。

一瞬、炎に呑まれる町の中で病院の門扉に救いを求めて殺到する人々の姿が見えたような気がした。ここではない過去の再現でしかないそれを打ち消すように拳を握り締める。


院内は人の出入りが多くやや慌ただしい空気は感じるものの病院自体の雰囲気は落ち着いていた。患者に交じって正面玄関を通り抜ければ複数の海兵の姿が見える。患者海軍本部主導で珀鉛病の治療拠点が立ち上げられたという話は本当らしい。エントランスにいる海兵は患者の誘導を担当しているようで、珀鉛病加療目的の患者は別館に案内されているようだ。あの時も別館が珀鉛病患者の専用病棟になっていた事を覚えている。末期には別館だけではベッドが足りず、本館までほぼ珀鉛病の治療でかかりきりになっていたが。

そちらを見つめているとぱちり、と視線が合った。海兵はにこやかな笑みを浮かべてこちらに近づいてくる。

「初めての方ですか?珀鉛病の関係であればこちらへ、て、え?」

ロー先生?と海兵の唇が小さく動くのを見た。帽子を引き下げて人違いだ、と返す。

「だが、そのトラファルガー・ローの知り合いの医者だ。あいつに頼まれて珀鉛病の治療支援に来た。あいつはどこにいる?」

「え、え、ロー先生のご友人?ロー先生は手術室だと思いますけど、部外者の方を案内するわけには」

「──どうされましたか?」

煮え切らない態度の海兵に僅かに苛立ちを感じた時、背後から声をかけられた。どくり、と心臓が脈打つ。あいつに似た、いや遠い昔に聞いたきりだった声音に心が震えた。

『こういう手術はこっちの血管を使うんだ』

『医者が足りないんだよ!!血液も何もかも!!”珀鉛”を体から除去する方法は必ずある!!感染もしない!!政府はなぜコレを報じない!?』

あ、トラファルガー先生と相手に呼びかける海兵の呑気な声を聞きながら後ろを振り返る。

「うん?ロー、か……?」

──記憶にある姿よりもいくらか年を重ねた父様が、そこにいた。




◇◆◇

父様は己の顔を見て不思議そうに首を傾げる。髪こそ白髪混じりになっているが、分厚いバインダーを片手に抱えて立つその姿は記憶にあるものと本当に何も変わらないと思った。

「いや、ローは今手術室で処置中のはず。──失礼ながら、あなたは?」

「ロー先生のご友人のお医者様らしいです。ロー先生の依頼で珀鉛病の治療協力にいらしたと」

父様からの問いに咄嗟に反応できずにいると海兵が答える。その言葉に父様は瞳を瞬かせた。

──予想はできていた。覚悟もしてきたつもりだったが、実際に目の前にするとどうしようもなく動揺してしまった。

目の前にいる人は己自身の父親ではないのに、生きているという喜びがどうしようもなく胸に広がる。溢れそうになる言葉を堪えるように奥歯を噛みしめた。震えそうになる声を抑え込むように深呼吸する。

──ここに来た理由は夢を見る為じゃない。

「ローの友人?特にそういった話は聞いていないんですが」

「友人じゃねえよ、単なる知り合いだ。おれはあいつと同じように珀鉛病の治療ができる。ここでの珀鉛病患者の治療に協力させてくれ。おれはその為に来た」

目の前の人をまっすぐと見据えてそう告げた。──”あの時”にもこう言い切れるだけの力が己にあれば、とあり得もしない妄想を一瞬だけ思い浮かべてすぐに打ち消す。そうはならなかった。それで話は終わりだ。

「あんたの息子一人じゃ患者全員を治療するには手が足りないのはわかってるだろう。腕は信用してもらっていい」

”ROOM”そう小さく呟き、掌の上に展開した空間を示してからすぐに解除した。目の前の相手は驚きに目を見開いていた。

「あなたも、それを……。いえ、わかりました。こちらからもどうかお願いします。珀鉛病の治療に、力を貸してください」

そう言って差し出された手を、一瞬ためらってから握り返す。己よりも大きかったはずの手はいつの間にか同じくらいの大きさになっていた。しかし、その手は記憶にあるものと変わらず温かった。




「ところでDr.(ドクトル)。あなたのお名前はなんとおっしゃるんですか?」

今後の打ち合わせをしたのち、相手からの当然の問いに言葉に詰まった。

偽名のひとつも考えていなかった己の手落ちを悔やむが、まさか正直に名乗る訳にはいかない。しかし咄嗟に適当な名前が思い浮かばず視線を彷徨わせると、待合室にある書棚に並べられたハードカバーの本が目に入った。幼少期から愛読していたそれの主人公の名前が頭に浮かぶ。……主人公の名前を借りる事に抵抗があるなら敵方の名前を名乗ればいい?それは却下だろう。

仕方なく、本当に仕方なくその主人公の名前を借りる事にした。

「おれの名前は──」




◇◆◇

珀鉛病診療拠点を立ち上げて以来ずっとあいつが手術室に籠りきりだという話を聞いて、おれはすぐに手術室に向かう事にした。

自分の限界を弁えろと言ったおれの話をあいつは全く聞いていなかったらしい。

止めようとするオペ場のスタッフを振り切るようにして半ば強制的に踏み入れば案の定、床に蹲るあいつの姿が。その手を伝う赤に凡その事態を把握する。弁えねえ馬鹿が、と内心吐き捨て碌に動けもしないであろう身体で立ち上がろうとするあいつの頭に肘打ちを喰らわせた。頭を押さえて目を白黒させるあいつの姿に少しだけ溜飲が下がる。

「なんで、」おれが何故ここにいるのか理解ができないのだろう。目を真ん丸にしてこちらを見上げる顔に笑いがこみ上げてくる。

「自分の限界もわからない奴が無茶してんじゃねえよ。だが、よくやったな」

こいつは馬鹿だとは思うが、その医者としての根性だけは認めてやる。

「”ROOM”、──”シャンブルズ”」

そうして、目の前の男を手術室の外へ放り出す。精々休んどけと叫んでから顔を上げるとざわついているスタッフの姿が目に入った。それもまあ当然の話だろう。だが。今は1分1秒が惜しい。

「さっさと患者を回せ!おれは医者だ!!」

「は、はいっ!」

ざわつく手術室を一喝する。その言葉に周囲のスタッフは慌てて動き始めた。

次々と搬入されていく患者を前に手袋を嵌め直す。

別棟のベッドを埋め尽くす数の珀鉛病患者に対して根本的治療ができるのはおれとあいつの二人きり。あいつがぶっ倒れた以上、今は実質己だけだが。多勢に無勢。さあこの戦いは3万と5千4百の戦力差をひっくり返すのと果たしてどちらが難しい?

困難を理由に諦めるならば最初からここに来るわけがない。

「──さあ、楽しい手術になりそうだな」

おれがいるんだ。この両手の届く範囲じゃ誰も死なせやしねえよ。


”死の外科医”トラファルガー・ローはそう嘯いた。




◇◆◇

”ROOM”を維持した状態で機械的に患者を処理していく。何度目かの搬入で運ばれてきた患者の中に、遠い記憶にある母様に似た面差しの女性を見つけた。聞けばこの病院に勤務する職員のひとりらしい。年若い彼女は同年代の中でも特に珀鉛病の進行が早かった、と。一瞬、瞑目する。

「気を楽にしろ、すぐに終わる」

全身麻酔下ではそんな言葉をかけたところで聞こえるべくもないが。彼女の閉じた瞳から一筋の涙が流れた。




(side 市の外科医)◇◆◇

「う、……」

「!トラファルガー先生!ロー先生が目を覚ましましたよ!」

緩やかに覚醒していく意識。不思議とすっきりとした頭で天井を見上げた。ばたばたと周囲で人が動き回っている気配を感じる。自分の腕に繋がれた輸液ルート。視線で辿れば、点滴台に吊るされたバックから無色の液体が規則的に流れ落ちていた。ぼんやりとそれを眺めて、しばらくしてやっとここが医院の仮眠室である事に気づく。

そうしている間に近くにいたスタッフに呼ばれたのか父様がやってきた。

「目を覚ましたのかロー」

「おれどのくらい寝てた?そうだ、手術は」

「ああこら急に起きるんじゃない。お前は2日も目覚めなかったんだぞ」

身体を起こしながら父様に問いかけて、手術室で能力の使い過ぎで倒れた事を思い出す。あの時、碌に力の入らない手足でそれでも立ち上がろうとして頭を叩かれた。驚きに振り返ればいつかのように金の瞳がこちらを見下ろしていて。

『自分の限界もわからない奴が無茶してんじゃねえよ。──だが、よくやったな』

そうだ、彼がいたんだ。なぜか。

自分の問いに父様はああ、と頷く。

「重症者の処置については心配しなくても大丈夫だ。お前の友人のソラさんという人が来てくれてな。お前が倒れてから患者の対応を引き継いでくれてる」

「ソラ、さん……?」

父様の口から出た聞き覚えのない、(ある意味聞き覚え自体は非常にあるのだが、)名前に首を傾げる。誰の事だろうか。いや、珀鉛病の治療ができる医者が自分と彼以外にいるわけがない。だけど彼は。

「珀鉛病の治療の為に遠方から来てくれたそうだよ。ロー、お前は彼といったいどこで知り合ったんだ?」

その問いの答えに窮した所で、仮眠室の扉が叩かれる音がした。父様が返事をするとがちゃりと扉が開く。その向こうには、スクラブ姿の細身の青年が立っていた。

目の下の隈が濃い、自分とそっくりなその顔を見て、ああやっぱりと思う。

「ああ、ソラさん。うちの息子も今目覚めました」

父様は彼を”ソラさん”と呼ぶ。そこで「トラファルガー先生ー!」と外から呼ぶ声がした。それに「今行く」と返した父様は「すみませんソラさん。ローをお願いします」と言ってあっさり出て行ってしまった。

後に残されたのは自分と彼の二人だけ。どう声をかけたものかと悩んで部屋に沈黙が落ちる。

「あの」「おい」お互いに話し始めるタイミングが被って顔を見合わせた。

こほん、と咳ばらいをして改めて「ありがとうございます」と頭を下げた。

「あなたがどうやってここにいるのかはわからないんですが……いえ違うんです、方法なんてどうだっていい。……来てくれて、本当に助かりました。きっとおれ一人じゃ無理だった」

不甲斐なくも術中に倒れた事を思う。どうしようもなく気ばかりが急いて、自分の限界を見誤った。いや、限界なのは理解していても諦めたくなかったというのが本心だが、冷静さを欠いてしまっていた事を自覚した。結果、このざまだ。もしこの二日の間に万が一の事があったらと思うとぞっとする。

自分の言葉に彼は鼻を鳴らした。

「情けねえ面してんじゃねえよ。……おれはおれのやりたいようにしただけだ」

その言葉に苦笑する。少しだけ、彼の事がわかってきた気がした。

「いえ、それでも──本当に、ありがとうございます」

「そうか」

沈黙が落ちる。先程と違い不思議と居心地の悪くないそれに、ふと疑問が浮かぶ。そういえば。

「ところで、"ソラさん"ってなんですか?」

その問いに彼は苦虫を噛み潰したような顔をした。少し子供じみた表情でそっぽを向かれる。

「……本名を名乗るわけにはいかねえんだから仕方ねえだろ」

ソラ。それは自分にとって特別な名前だ。

夢の巨大ロボが登場する絵物語”海の戦士ソラ”。海の上を歩けるヒーロー”ソラ”が合体ロボとカモメを従えて悪の軍団”ジェルマ66”と戦う、海の英雄物語だ。その主人公であるソラはどんなに敵に追いつめられても決して諦める事はなく、最後には必ず勝利を掴み取る。子供の頃からその背中に憧れた、今でも大好きなヒーローの名前だ。

「おれも好きですよ、海の戦士ソラ」

その名前の響きは聞く人に勇気を与えてくれる。その名前を彼が名乗るのは。

彼が、ソラ。彼がソラか。

「ソラって……ソラって、ローさん……ぶふっ!」

思わず噴き出してしまった自分に彼は仏頂面だ。

「笑うな、咄嗟だったんだ」

「いえ、すみません。そうじゃないんです。……ぴったりだと思ったんですよ。おれにとってあなたはソラみたいな人なので」

「……おれは海賊だぞ。ヒーローなんて柄じゃねえよ」

不可解そうな顔をする彼に笑いながらすみませんと謝った。

でも。本当に、ソラという響きは彼にぴったりだと思う。

ヒーローとはただ悪を倒すだけが役割じゃない。どんなに倒れても辛くても。力無き者にその背中で生き方を示してくれる者だと思ってる。その背中に憧れを見せてくれる。その姿を見る者に自分の足で立つ勇気をくれる。希望の光とも呼べる、そんな存在が自分にとってのヒーローだ。

自分を海賊だと主張する彼に直接伝えては怒られてしまいそうだから言う気はないが。あの時見た彼の姿は自分にとってのヒーローのように見えた。




いつまでも笑っている自分に彼は呆れたように嘆息する。

「たく……お前も2日も寝たなら十分回復しただろう。休憩は終わりだ、オペ場に戻るぞ」

「はい!ローさん」

「………………今はソラだ」




◇◆◇







──そして、月日が流れた。







◇◆◇




エピローグ・市の外科医(side IF)◆◆

思えば、激動の数カ月だった。

珀鉛病の発生から治療法の解明、珀鉛病治療の本格化に伴う治療拠点の稼働。重症から中等症までの患者の対応がひと段落した日には関係者全員が歓声を上げた。珀鉛病の完全収束にはまだ年単位で時間を要するだろうが、今は一旦落ち着いたとみてもいいだろう。

ただ、珀鉛病の騒動が終わっても全て元通り、とはいかない。


第一に、フレバンスの王室が珀鉛の毒性を隠蔽していた事が明らかになった。珀鉛産業が本格化する前に行われた地質調査によってとうの昔に判明していた珀鉛の毒性。しかし王室は珀鉛の産み出す莫大な資産価値に目がくらみ、百年以上の長きに渡って珀鉛が毒である事を隠し続けていたらしい。その事実を知った日はさすがに目の前が真っ赤になるような心地がした。国王の陳謝の言葉が耳を上滑りして聞こえたのを覚えている。

この発表を受けて当然、民衆は烈火のごとく王室を糾弾した。国民の命よりも金を選んだのか、と叫ぶ怒りの声があの時はそこら中から聞こえた。信頼を失った国王は座を引かざるを得ず、最終的に世界政府主導でフレバンス王室が解体される事となった。国外追放される事が決まった王族は世界政府庇護の下で他国に移り住むらしい。

そうして王室の無くなったフレバンスは共和制への道を歩み始めた。かの水の都、ウォーターセブンのように。数週間後には第1回の国民投票が開かれる。そこできっとフレバンスの新たな首長に相応しい人物が選ばれる事だろう。


第二に、珀鉛の問題だ。今回の一件で珀鉛の致命的な毒性が明らかになった訳だが、毒性を理由に切り捨てるには珀鉛はあまりにも密接にフレバンスの根幹に関わっていた。珀鉛を永久に放棄しろという声がある一方で、治療法が確立されたのだから安全対策を講じた上で珀鉛の採掘を続けようと主張する人々も一定数存在した。何か掛け違えれば珀鉛病でフレバンスは滅んでいたかもしれないというのに、人は喉元過ぎれば熱さを忘れる生き物らしい。ただ、百年もの間、生活の傍らにあった珀鉛をそう簡単に捨てられないのは事実ではある。珀鉛を捨てるのか、珀鉛と共にある事を選ぶのか、これは今後フレバンスが向き合うべき問題だ。


第三に、自分自身の事だ。ロシナンテ少将から渡されたオペオペの実。あの実は世界政府の重要機密品だった、らしい。

”世界政府管轄の悪魔の実保管庫から盗難されたオペオペの実をたまたま犯人と遭遇したロシナンテ少将が奪還。しかし負傷した少将の治療および緊急避難的措置として民間人の医師がオペオペの実の能力者となった”その筋書きを聞かされて、凡そのあらましを理解した。困難な運命、とはそういう意味か。ただ、このオペオペの実なければきっと今の平穏な時間は存在しなかったのは事実である。だから、あまり無茶しないでくださいとちゃんと次は話してくださいという気持ちを込めて少しだけロシナンテ少将を小突いた。

結果としてオペオペの実を私物化した自分に対して言い渡された審判は”1年の半分は海軍へ出向せよ”というものだった。それがオペオペの実の対価として課す条件だと。その時にロシナンテ少将の養父であり現在の海軍本部総大将であるセンゴク元帥と引き合わされた。海軍で自分は正式な配下という訳ではないが元帥預かりの医療班所属、という立場になるらしい。

『──完全な海軍所属ではない方が君にとって色々と都合が良いだろう。この老兵の名が役立つ限りは好きに使いなさい』

センゴク元帥のその言葉に彼ら親子からの配慮を感じた。以来、自分はフレバンスと海軍本部を行き来する生活を送っている。


フレバンスに戻っていたある日。自室で作業しているとラミがやってきた。机の前に腰掛けたままだった自分の手元を妹は後ろから覗き込んでくる。

「お兄さま何描いてるの?」

「ああ、医療団の制服デザインだよ」

開いたノートにはいくつかの衣服のデザイン画。従来の型をベースに機能性を重視して調整したものだ。そして胸にはシンボルとして揃いのマークを付けている。

「これってもう一人のお兄さまの服に入ってたマークじゃない」

「今があるのは彼のおかげだからな。勝手だけど借りる事にしたんだ」

ふーんと興味があるのかないのかわからない反応をする妹に苦笑する。そこでふと妹がなぜ自分の部屋にやってきたのかが気になった。

「ところでラミ、お前何しに来たんだ?」

「あ、忘れてた。ちょっと早いけどロシナンテ少将がお兄さまを迎えにいらっしゃったわよ」

「え、ロシナンテ少将が。……あ、もうそんな時間か」

部屋の時計は約束の時間の少し前を示していた。広げたままだった荷物を詰め込む。海軍本部への出向が決まってからその行き来の際はロシナンテ少将の艦が随行してくれている。行き帰りだけではなく、医療班を必要とする要支援地域に向かう際もだ。なお彼への呼び方は半ば海軍所属の立場になったのを機に改めた。形式上、上司に当たる相手に対しては立場を弁えるべきだと考えたからである。尤も立場が変わってもロシナンテ少将の態度は相変わらずだが。

ばたばたと出立の準備をして居間に向かえば自分の母にもてなされて寛ぐロシナンテ少将の姿。ぬるめに淹れられたお茶を飲んでいた彼はこちらに気づくとよう、と片手を上げる。

「お邪魔してるぞロー先生」

「すみませんロシナンテ少将。お待たせしました」




──この数年後、北の海に一風変わった医療団ができる。リーダーはフレバンス出身の若き外科医。その他も若手の医療者のみで構成され、要請があればどこの海にも駆けつける。そんな一団だ。そしてその医療団は制服に一風変わったマークを刻んでいた。誰かの笑顔を模したジョリーロジャー。医療団のリーダーはそれを恩人への敬意と憧れの象徴だと語る。

海賊ではないのにジョリーロジャーを胸に刻んだ医療団。世間はそんな彼らを”ハートの医療団”と呼ぶ。


end.

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